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五行歌世界大会への疑問

白椿


 口語短歌の系譜を継ぐ短詩形に五行歌というものがある。その五行歌が今秋、東京で第1回世界大会を開き、今後はオリンピック並みに4年に1度開催するという。世界大会と銘打つ以上、世界196ヶ国のうち少なくとも10分の1,20ヶ国ぐらいから代表が参加するのであろう。同会の掲示板による限り海外活動はアメリカ、タイぐらいだが、あと半年足らずでどうやって世界各国にアプローチするのだろうか。たいへん失礼な予想だが蓋を開けてみたら参加は数ヶ国、20名以下だったというのでは国際版の吉兆事件と嗤われることになりかねない。羊頭狗肉の茶番劇に終らないことを祈る。

 国内から何人参加されるか知らないが、全員が自分の作品を外国語に翻訳できるのだろうか…そう案じていたら、どなたかが代わって訳すのだという。これも驚きである。五行歌には他人の作品には指導と雖も手を加えないというルールがあったはず。外国文学を翻訳で読んだ人なら直ぐ解ることだが、細かなニュアンスは訳者によってガラリと変わる。まして poem (詩)の場合は、これが同じ詩の訳かと思うほど変わる。五行歌を外国語に訳す場合も、当然ながら同じことが言える。他人の作品に手を加えないという従来のプリンシプルは一体どうなるのだろうか。

 論理で構成される論文や筋を辿る小説とは違う。そもそも日本の詩歌を外国語に翻訳すること自体が無理、と言うよりナンセンスなのである。例えば「あなた」を表す二人称代名詞を考えてみよう。日本語では思いつくまま挙げても「君」「そなた」「あんた」「お前」「てめえ」「貴殿」「きさま」などなど、恐らく200を超えるだろう。ところが英語では「you」一語で片付いてしまう。「わたし」を表す一人称代名詞についても同じである。これに尊敬語、謙譲語が加わり日本語は更に複雑になる。他の品詞もについて同じである。今の季節に降る雨を日本語では五月雨、梅雨。夕立、喜雨、慈雨、果ては「卯の花腐し」とか「虎が雨」などと呼ぶことがある。このように四季折々、時と場合によってこれを遣い分けているが、英語では四季を通じて「rain」だけ、無理して探しても俄か雨を指す「syower」ぐらいである。
要するに英語に代表されるセム語系言語はアルファベット26文字の組み合わせによる極めて記号性が強い言語である。これに対し日本語は言霊(ことだま)の語に象徴されるように語彙の一つひとつへの思い入れが欧米語とは根源的に異なっている。

 風俗習慣の違いに基づく言葉の違いも大きい。話は跳ぶがケンカのやり方ひとつにしたって日本人と欧米人とでは違う。日本人は「ビンタ(頬)を張る」が欧米では chin を狙う。チンと言っても男性の急所ではない、顎(あご)である。ついでにアメリカのスラングでは元気を出せとか、へこたれるなというのを「keep your chin up」と言うが、日本人が「顎を出す」と言う場合は、真逆に「弱った」という意味になる。

 最も重要なことは、日本の詩歌には言葉を直訳しただけでは伝わらない作者の微妙な想いが籠められている。行間に隠された深遠な想いは、日本語独特の響き、間(ま)、息遣いなどによって読み手に伝えられるもの。散文を翻訳するような方法では絶対に不可能なことである。いまからでも遅くない。主催者は「頭が真っ白になっていた」という理由でいいから、潔くこの愚挙を撤回すべきである。歌人たちにとっては、この大会への参加不参加は、主宰への忠誠心をとるか、詩人としてもプライドをとるかの踏み絵となるであろう。

(写真は宗門改めが行われた長崎奉行所の庭に咲いていたと言われる白椿。別名を切支丹椿と言う)



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by 杜の小径  at 11:55 |  日記 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

八ヶ岳から戻りました

八ヶ岳全景



稲子湯
吉永小百合


 八ヶ岳から戻りました。往路には柳生博さん、真吾さんの八ヶ岳倶楽部に寄り、天女山頂上から360度のパノラマを楽しみました。遠望した富士はもちろん、甲斐駒ケ岳、仙丈岳などの南アルプス、そして八ヶ岳連峰にも雪が残っていました。
 宿の稲子湯は、北八ヶ岳・天狗岳の北東山腹、標高1500mの高地に在り、登山基地として古くから有名な温泉です。周りにはマメザクラ、コナシ、ヒメリンゴが咲いていました。朝はコマドリ、ウグイス、シジュウカラの声で目覚めます。昼間はオオルリ、カッコウ、アカゲラ、コゲラ、ウソ、アカハラ、アオゲラ、キビタキなど、たくさんの野鳥と出逢うことができました。
 宿の周りにはアケボノスミレ、ミヤマスミレ、タチツボスミレのほかムラサキケマン、ヤマガラシなどが咲いていました。いま山を彩っているのはマメザクラ、トウゴクミツバツツジ、ヤマツツジ、オオカメノキなどです。天女山、八ヶ岳高原、八千穂自然林などでは8種類以上の高山スミレ類、フデリンドウ、ヤマカタバミ、オノエラン、ジガバチソウ、ウツボグサ、ツバメオモト、クリンユキフデ、イチヨウランなどを撮影できました。これらは写真では大きく見えますが、実際は径10ミリに満たない小さな花です。深山にひっそりと息づく小さなちいさな命を見つけたときの感動は格別です。わけても八千穂自然林のダケカンバの根元に数株のウスバサイシンを見つけたときはシャッターを押す手が震えました。葉の根元に小さな褐色の花を付けますが、落ち葉に紛れて見つけにくいのです。春の女神と呼ばれるギフチョウの食草カンアオイと同じウマノスズクサ科ですが、ウスバサイシンは絶滅危惧種のヒメギフチョウの唯一の食草なのです。
 これらの野鳥や野草の写真は、mixi のアルバムに掲載してあります。
 
 写真は八ヶ岳と稲子湯。下段の美人は同行の愛人…と言いたいところですが、実は映画「天国の駅」ロケで稲子湯を訪れた吉永小百合さんのスナップ。宿のロビーに掛けてありました。






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八ヶ岳へ

八ヶ岳遠望


キレンジャク


トウヤクリンドウ


 明朝、早発ちして八ヶ岳へ向かいます。正月に西穂で痛めた左膝が完治していないので、今回は頂上へは登りません。北八ヶ岳・硫黄岳、天狗岳への登山口にある山小屋の稲子湯をベースにして、専ら野鳥と野草との出逢いを楽しんできます。場所は北八ヶ岳の天狗岳北東山腹で・標高は1500mありますから、今の小生にはかなりハードな山行きです。
 今回は新調した600mmの望遠を持っていきますが、ぶっつけ本番なので自信はありません。予備にニコン135 mmとキャノン・スーパーを持参します。しばらく、ご無沙汰します。

      (写真は昨年撮影:上から八ヶ岳遠望、ヒレンジャク、トウヤクリンドウ)





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「風の大会」余話-不思議な出逢い

風 111


九州


風 118


「風の全国大会」参加者のうち、九州組有志の皆さんと浅草を散策する。高原伸夫・美智子ご夫妻をはじめ6人の皆さん。
 仲見世通りは相変わらずの混雑だが、一歩脇に入ると昨日までの三社祭の賑わいが嘘のように静かだ。奥山一帯をゆっくり歩きながら日本最古の石橋、針供養の粟島神社、さらに映画弁士の碑、喜劇人塚、のんきな父さん記念碑、三宗(宗祇、芭蕉、其角)の句碑などを見て回る。
 昼食は勝海舟や中浜万次郎も贔屓にしたという鰻の老舗「やっこ」。ランチタイムで混んでいたが、顔見知りの女将さんが特別に二階に席を用意してくれた。
 高原さん以外は今回初めての会いだったが、皆さんの詩歌に対する志の高さに圧倒される。食事の間も終わってからも、話題は五行歌のことばかりだった。話題が尽きず、甘味処の老舗「い津美」へ席を替え、時間を忘れて話し合った。また新しい友人ができた。

 今回の全国大会では、私個人にとっても不思議な出会いが二つあった。一つはこの大会に高原美智子さんが出された次の作品との出会い。

   うす紫の花大根を
   さぁーとゆらして
   海風
   山へと駆け登る
   小さな島に春が広がる

 映画のフェイドイン手法のような見事な写生歌である。が、私を驚かせたのは作者コメントで作品中の「小さな島」が博多湾に浮かぶ能古島だと判ったことだった。私の師、檀一雄は1976年1月2日に死去したが、その2年前にこの島に小さな別邸を建て、月壷洞と名づけて移り住んだ。檀の死後、毎年5月の第3日曜日には檀を偲ぶ「花逢忌」がこの碑の前で行われている。これは絶筆となった「モガリ笛 幾夜もがらせ 花二逢はん」に因んだものである。この月壷洞が取り壊されることになったので、今年こそと能古島行きを決めていた。ところが、この大会のため行けなくなった。正に大会中の18日が今年の花逢忌だった。私は美智子さんのコメントを聞きながら、師が「来なくてもいいよ。今年は五行歌の大会で頑張りなさい」と言っているような不思議な気持ちに襲われていた。

 大会が始まる直前、或る婦人が1冊の本を持って私の席に来られた。「失礼ですが、ここに載っている村瀬杜詩夫というのは村瀬さんのことですか?」…見ると二十数年昔、小学館が出した『花の歳時記』(全8巻)に書いた私のエッセィだった。おぼろげな記憶によると池坊保子さんや立原えりかさんたちと花に関するエッセィを寄稿していた。その婦人は大会で2席に入られた中島小春さんだった。この本が読みたくて古本屋でやっと手に入れられたという。その中に私のエッセィが載っていたとは。これも不思議な出会いであった。
 
  一つ書き落とした。浅草散策をご一緒した のぎたえいほさんが、嘗て私が私淑した加藤楸邨が主宰する「寒雷」の同人であることが判った。これも奇遇である。  

            (写真:浅草散策のスナップと『花の歳時記』)
 





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第二回「風の全国大会」終わる

コピー ~ 全景


コピー ~ 全景1


コピー ~ 小杉


 17日から横浜市かながわ県民センターで開かれていた第二回「風の全国大会」が盛会のうちに終わった。
 詩としての五行歌を楽しみ、創る、自由な詩人たちが、九州からの「南の風」(高原伸夫代表)、湘南からの「ハマ風」(松本希雲代表)、東京からの麹町倶楽部(赤井登代表)などのほか全国から自由参加の人たちが駆け付けた。

 真摯でアカデミックな雰囲気の中で活発な意見が交わされ、麹町倶楽部の小杉さん以下、¥10名の入賞者が決まった。上位3名と作品は次と通り。

1席 小杉淑子さん 

   靴底に
   昨日の失敗
   ぐいっ
   ふみつけて
   出勤

2席 中島小春さん

   亡夫(あのひと)がなかなか
   お迎えに来ないから
   適齢期を逃した と
   照れている老母(はは)
   百一歳の誕生日

3席 腰原常雄さん

   再々発・入院前夜
   友の激励会
   「もう一本だけ」
   聞いてやればよかった
   悔いがつまみの一人酒

     (写真:上から参加者A~F組、G~K組、1席の小杉淑子さん)

 歌会の後は会場を桜木町ワシントン・ホテルに移して全員参加の懇親パーティー。     
 そして恐怖の即席五行歌大会。爆笑…哄笑… 遂に30階建ホテルが 爆発だ~っ 

 昨18日は鎌倉文学散歩、今日19日の有志による浅草散策で全日程が終わる。




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神田祭から浅草へ

神田祭

山菜 044


山菜 045


  金髪も交じり神田の祭りかな (杜)

 今日は神田明神祭の最終日。40年も神田っ子として暮らし、明神様の氏子だった。早目に家を出て午前中に参詣を終える。ハイライトの神輿渡御は11日、薪能も昨日終わって今日は例大祭の神事だけ。それでも境内は結構な人出で、法被姿の外人も交じっている。
 神田祭は京都の祇園祭、大阪の天満祭と並ぶ日本三大祭の一つ。また江戸では赤坂山王権現の祭と共に将軍の上覧に供することで天下祭と呼ばれた。両祭は隔年毎に大祭を行い、それ以外は陰祭と言って神輿の順路を町内だけとする。今年の神田祭は、その陰に当たる。
 天下祭だけに昔から歌舞音曲に取り上げられている。歌舞伎舞踊の清元「神田祭」(天保年間初演)もその一つ。

 √ひととせを 今日ぞ祭りに当たり年 警護てこま華やかに 飾る桟敷の毛氈も
   色に出にけり酒機嫌 神田囃子も いきおいよく 来て見よかし 花の江戸

この清元は上下2段のうち下の巻だけが後世に伝えられている。鳶頭と芸者のクドキ、鳶頭の投節などが入って木遣で終わる。踊りは流派によって違うが、粋で華やかな天下祭の様子が伝わってくる。


  海舟も坐りし老舗の夏座敷 (杜)

 神田から浅草へ回る。実は今日、慶大川澄教授と赤坂プリンスの「紀尾井」で四万十の鰻を食べる約束だった。ところが7日の小生の日記「浅草ぶらり」を読んだ川澄氏から鰻は「やっこ」で食べようとリクエストされた。勝海舟と中浜万次郎の馴染みの鰻屋というくだりに飛び付いたというわけ。あいにく店主は不在だったが女将さんが関係資料などを見せて下さった。偶々その中に川澄氏の名前が出てきたので、女将さんの態度が一変した。なにしろ蓬髪白鬚、よれよれのジーンズ姿で汚いリュックを背負っているのだから文学博士とはとても思えない。私の家内の葬儀にも同じ格好で出席して、兄嫁を驚かせた。あれから6年経っているのだから容貌魁偉と言いたいが容貌はまさしく怪異なのである。ところが、さすが老舗の女将、サービスのデザートを自分で運んでくると、川澄教授の耳許で「センセイ、眼が素敵、澄んでいるわ」と囁いた。川澄センセ、すっかり舞い上がって「また、来る」だって。ほんと、少年みたいな男である。

       (写真は神田祭スナップと川澄教授 in 「やっこ」)






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アスパラのガム流レシピ

山菜 038


山菜 024


 書くことが無いので、久しぶりにガム流クッキングのレシピ二つを紹介します。最初は昨夜の夕食に作った「アスパラガスと牛肉の山東風炒め」。(写真上)
 最初にお断りしておきますが、これは昨日放映されたNHK生活ほっとモーニングの「夢のシェフ競演」のレシピをガム流にアレンジしたものです。

<材料・3~4人分>
・グリーンアスパラガス…5本  ・牛肉(ステーキ用)…150グラム  ・ 紹興酒…小さじ1
・塩…小さじ1/2弱  ・粗びき胡椒・ごま油…各少々  ・水溶き片栗粉…大さじ1・ サラダ油…大さじ2
 *スピードが命の料理、予め次の調味料を合わせておきます。
 ・にんにく(みじん切り)…1かけ分  ・しょうが(みじん切り)…小さじ1  ・ねぎ(粗いみじん切り)…5センチ分  ・粗びき胡椒…小さじ1/2  ・紹興酒・黒酢…各小さじ1  ・塩…小さじ1/2  

<手順>
①アスパラガスは根元の固い皮を剥き、下3センチを切り落とす。 約5センチの長さに切り、太い部分は二つ割にしておく。
②沸騰した湯にサラダ油と塩を少量加える。これは湯の温度を上げ、色良く仕上げるため。これにアスパラを入れ、色が変わったら直ぐ引き上げる。30秒以内が目安、茹で過ぎるとシャキシャキ感が無くなる。
③牛肉はアスパラと同じ大きさに切り、紹興酒・塩・胡椒・ごま油を加えて手で揉む。このとき水溶き片栗粉を加えると、肉の旨味を外に逃がさない。
④鍋に油を敷き、強火で肉の表面を焼気、いったん別皿にとって油切りする。
⑤鍋に牛肉を戻し、アスパラと合わせておいた調味料を加え、一気に炒め、最後に鍋肌からごま油を少量加えて完成。
 

 次は今日の朝食、「アスパラのミラノ風」。(写真下)これは前の中華風のは逆に、アスパラを具タグ田になるまで茹でるのがポイントです。

<材料・1人分>  ・グリーンアスパラガス…4本  ・卵…2コ  ・オリーブ油・塩…各少々  ・パルメザンチーズ・オリーブ油…各大さじ1~2  

<手順>
①アスパラガスは、根元の固い皮を剥き、下3センチを切り落とす。
②沸騰した湯にパスタのときよりやや少な目の塩を加え、アスパラを焼く20分茹でる。
③冷たいフライパンにオリーブ油を敷き、余分な油はペーパータオルでふき取る。これに卵を二つ割り入れ、塩を振って中火で焼く。白身が白くなったら火を止める。冷たいフライパンに入れるのがポイント。こうすると、焦げ目の無い綺麗な目玉焼きができる。
④アスパラを皿にならべ、その上に目玉焼きを載せ、上から好みの量のパルメザン・チーズを振り掛け、オリーブ油を掛けて完成。食べるときは卵の黄身を割り、混ぜ合わせる。皿が黄金色になるところがミラノ風の特徴という。
 
 ちなみに主食は、夜は十六雑穀飯、朝はナン。香菜は自家製糠漬とイタドリの塩漬。デザートは西瓜でした。





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季節のことば―ハナミズキ(花水木)

綿薩摩

ハナミズキ1

ヤマボウシ

 中庭のハナミズキの花が終わりに近づいた。小さく窓を開けて一青窈の「ハナミズキ」を流してやる。本当はショパンの「別れの曲」でもかけたいが、あいにく手許にCDが無い。で、先ごろ「綿薩摩」の展示会で土産に貰った一青窈の「ハナミズキ」となったわけ。余談になるがこのときの土産は、これと薩摩金時というサツマイモ。一青は一時、鹿児島に住んでいたんだ、と織元のおじさんが得意そうに話していた。
「綿薩摩」(めんさつま)をご存知だろうか。これは大島紬の織手だった奄美大島生まれの永江明夫さんが絹に負けない風合いのものを織ろうと、大島紬の締機(しめはた)を使って作り出した幻の織物。これを着た武者小路実篤が、その余りにも素晴らしい肌触りと着心地に感動し「誠実無比」という色紙を贈ったと言うエピソードがあるほどの逸品。

 余談をしているうちに、一青窈の歌が終わった。

     空を押し上げて
     手を伸ばす君 五月のこと
     どうか来てほしい
     水際まで来てほしい
     つぼみをあげよう
     庭のハナミズキ
    
    (長くなるので中略)
     
     君と好きな人が
     百年続きますように
 
 おい、おかしいぞ、この歌詞…「手を伸ばす君 五月のこと」…そして「つぼみをあげよう」だってぇ。
 ハナミズキの花期は4月下旬から5月上旬。この日記の冒頭にも「花が終わりに近づいた」と、ちゃんと書いてあるじゃないの。5月に蕾があるわけないよ。しょうがない。ちょっとハナミズキの話でもするか。(フリが見え見えだって? こらっ、楽屋裏をバラすんじゃない!)

 私がこの花木と初めて出逢ったのは日比谷公園。現在は日比谷公会堂と鶴の噴水の間にハナミズキの林があるが、昔はここではなかった。私は法務省に勤めていたころ毎朝、公園の銀座口から桜田門口に抜ける道を通っていた。その道端の心字池の畔に1本だけハナミズキが植えてあり、「1912年に尾崎行雄東京市長からワシントンD.C.へ贈った桜の返礼としてアメリカから贈られた」という解説のプレートが下げられていた。今では各地にハナミズキが植えられ、これを市や町の花に指定しているところもあるが、当時は日比谷公園にしかなかった。
 ハナミズキの名は、ミズキの仲間で花が目立つことに由来する。日本原産のミズキは水木と書く。昨年、神宮外苑でバードウォッチングしていたときのこと、晴れているのに道の一部がびしょびしょに濡れている。見上げると風折れしたミズキの枝から水滴が滴り落ちている。この木を水木と呼ぶ理由が初めて解った。ハナミズキは、アメリカヤマボウシとも言う。これは日本原産のヤマボウシに似ていることから名付けられたもの。ヤマボウシは山法師と書く。白い4枚の花弁のように見えるのは総包片で、真ん中の丸いのが花。坊主頭に見える花を囲む総包片を比叡山などにいた白い頭巾を被った山法師に見立てて、この名前が付けられた。・秋にはイチゴのように赤く熟す実ができる。我が家にも、この果実酒がある(いいから先へ進め) 。と、言われても、もうネタ切れだ。

   花水木の
   散る下で
   白い腕(かいな)の
   嫁
   しのび泣く

   花水木に
   雨 滴る
   ぽとん ぱたん
   胸の洞(うろ)にも
   滴る音が

   真っ白に咲くのが
   辛いのか
   花水木
   ほかの花よりも
   早く散る

 【クイズ五行詩】―答えは明日発表します。(大げさぁ)
   
   木を伐らないで と
   ハナミズキが
   叫ぶ
   彼女は
   なぜ泣いているの?  

   (写真:上から綿薩摩、ハナミズキ、ヤマボウシ)






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母の日雑感

MG_1468_thumb.jpg


青いカーネーション


 テレビも新聞も母の日。街に出ればカーネーションが溢れている。この日だけ「お母さんありがとう」とカーネーションなどをあげるのは、普段あまり母親を大事にしていないのではないか。怠け者の節気働きという諺もある。節気とは立春、立秋などに二十四節気のこと。怠け者にかぎって人の休む物日に動き回って、いかにも働き者らしく見せるという意味だ。意味はちょっと違うが、母の日に500円くらいのカーネーションを渡して、1年間の親不孝を帳消しにしようとはせこくないか。じゃあ、お前はどうだと聞かれるなら、「忘れなばこそ思い出さず候」と答える。これ、三浦屋の高尾太夫が伊達綱宗公に宛てたラブレターの一節だから、こんなとき引き合いに出すのは不謹慎かもしれないが、自分の母のことだから、まあいいか。
 母に繋がる思い出に、あまり楽しいものはない。母は神官の家の4人姉妹の末子として生まれたが、事情があって母が養子を迎えて家を継いだ。ところが養子は(私の父だが)一種の政治狂、それも自分が立候補するのではなく贔屓の政治家に資産を注ぎ込んだらしい。私の覚えているだけでも大蔵次官だった太田正孝と高橋又兵衛。特に政友会の高橋は裸又兵衛と呼ばれた清貧の政治家で、その選挙費用は殆ど父が賄っていたらしい。その皺寄せを母が受け止めることになり、私の記憶の中に笑っている母はいない。

   白壁は
   蕁麻(いらくさ)に埋まり
   無精の卵温めいし
   梟も去り
   家は滅びぬ

   繭(まゆ)が腐り
   蒟蒻(こんにゃく)が腐り
   母も病みて
   少年われに
   長かりし雨季

   芹洗う
   母の二の腕
   白かりし
   家跡に今も
   あの日の泉

   さくとした
   雛あられが
   嫌い
   母に甘えし記憶
   我になく

   逝く春の空映す
   ふるさとの川
   父の雲 母の雲
   ゆっくりと
   流れて行く

 決して親孝行な息子ではなかったが、臨終の母は私の手を握って大粒の涙を流した。この涙の意味はわからないが、このことは決して忘れない。今日も母の臨終の涙の意味を考えて過ごした。これが、いま私にできるたった一つの親孝行なのである。

 写真上は普通のカーネーション、下はサントリーが外資と協力して作出した青いカーネーションである。
私は園芸品種より野草、その中でも特にイワキキョウ、ホタルブクロ、ワスレナグサなどの青い花が好きで毒草のトリカブトさえ好きである。いつかヒマラヤの青いケシをこの眼で見たいと願っているほどだ。が、この青いカーネーションだけは好きになれない。これは遺伝子組換えによって他の種類の花から青い色素を取り込んで作出したものである。こうした傾向が蔓延すれば植物の生態系のバランスが必ず崩れる。それを惧れるのである。





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雨の日は想い乱れて…

ウノハナ


虎が雨


虎御前像


 朝からの雨催いの空。こんなは想い乱れ、書くことも便旋佇立して纏まらない。どう展開して、どんな結論に至るのか自分でも判らない。お覚悟のうえで読み進んでいただきたい。
 ヴェルレーヌに「Il pleure dans mon coeur」という雨の詩がある。
   Il pleure dans mon coeur
   Comme il pleut sur la ville ;
   Quelle est cette langueur
   Qui pénètre mon coeur
 
 堀口大学の訳詩『無言の恋歌』で有名だから、どなたでもご存知だろう。
   巷に雨の降る如く
   我の心に涙ふる
   かくも心に滲み入る
   この悲しみは何ならん

 若い方には金子光晴訳の「言葉無き恋歌」ほうが耳に馴染んでいるかもしれない。
   巷に雨の降るごとく
   わが心にも涙ふる。
   かくも心ににじみ入る
   このかなしみは何やらん?
  
 これが城之内ミサの歌になると題名が「心の雨」に変わり、歌詞は次のようになる。
   都に雨が降るように
   涙が私の心に流れるように
   雨はやさしく街角に降る
   この心に染み入るような
   やるせない想いは何なのだろう?

 上の例で解るように、訳者や時代によってニュアンスに多少の違いはあっても大意は変わらない。原詩はフランス語だが、これに限らず外国の詩を日本語に訳すのは、そんなに難しいことではない。それは外国語では単語(word)の内包が単純、換言すれば或る事物や現象を示す語彙が少ないからである。ところが全く逆の意味で、日本の詩歌を外国語に訳すことは極めて難しい。と言うより不可能に近い。早い話が「あなた」は英語では「you」一語で片付くが、日本語では「きみ」「そなた」「あんた」「おまえ」など百を超える呼び方がある。雨にしても英語では「rain」ぐらいで、「wet」は下に別の言葉を付けて「~weather」としなければ意味が通じない。せいぜい俄か雨を「shower」と言うぐらいだろうか。
 むかし或る人が「日本の短詩で世界を制覇する」と言い出した。酒席での戯言かと思っていたら周りの茶坊主どもが「先生、素晴らしい」などと持ち上げたものだから、すっかりその気になってしまった。お気の毒なことであった。

 さっき英語で雨は「rain」ぐらいと書いたが、日本語では季節によって様ざまな呼び方がある。これを外国語で、どう訳すというのだろう。
 もう立夏を過ぎたから「夏の雨」である。若葉を濡らして降るから「緑雨」ともいう。明治時代の評論家・作家に斎藤緑雨という人がいた。「恋は親切をもって成立す、引力なり。不親切をもって持続す、弾力なり。疑惑は恋の要件なり」とは彼の言葉。(閑話Ⅰ)

   夏の雨 埴輪は土に還りたし (杜)

 最初にお断りしておくが、これを含めて私の創る句は俳句ではない。全て一行詩と自分では呼んでいる。
 暦のうえでは入梅は6月に入ってからだが、予報では今週いっぱいは雨模様の天気が続くようだ。都会の人には鬱陶しい雨も、田舎で作物を育てている人には恵みの雨、「喜雨」である。薬師寺の散華には熊谷守一の絵「喜雨」が使われている。(閑話Ⅱ)
  
   苗も子どもも濡れて 喜雨の中(杜)
 
 5月の雨には俳人でないと解らない変わった呼び方がある。そのひとつが「卯の花腐し(くたし)」。陰暦4月を「卯の花月」と言い、その頃に降る雨だからである。初夏の代表的な花、卯の花をまるで腐らせるように降る雨という意味である。『万葉集』には卯の花を詠ったものが24首あり、その中に「春去者 宇乃花具多思 吾越之 妹我垣間者 荒来鴨(春されば、卯の花ぐたし、我が越えし、妹(いも)が垣間は、荒れにけるかも)」という作者未詳の作品がある。多分それから出た季語であろうが、この歌の意味は(卯の花を踏みしだいで山を越えて訪ねてきたのに、恋しいあの娘は引っ越してしまったらしく荒れた垣根しか残っていない)という意味で、初句の「くだし」は「腐し」の意味ではない。俳人たちよ、しっかりしてくれ。(閑話Ⅲ)

 もっと解らないのが「虎が雨」(虎が涙とも)である。5月になると虎が雨のような涙を流すという意味ではない。話は長くなるが、建久4年(1193)5月28日、源頼朝が行った富士の巻狩の陣屋で曽我十郎・五郎は親の敵工藤祐経を討ち果たす。しかし逃げる途中、兄十郎は斬殺され、五郎も捕らえられて後日、斬首の刑に処せられる。「一に富士、二に鷹の羽のぶっ違い、三に名を成す伊賀の仇討」という初夢縁起にかけたフレーズは日本三大仇討のことで、ニは赤穂浪士の討ち入り、三は荒木又右衛門の伊賀上野での仇討。そしてトップが曽我兄弟の仇討で、それほど有名なじけんだった。兄十郎には大磯の遊女で虎御前という愛人がいたが十郎の死を聞いて嘆き悲しみ、剃髪して諸国行脚の旅に出る。この話は浄瑠璃や芝居にもなり、やがて人々はこの日に降る雨を「虎が雨」(虎が涙とも)とよぶようになったというわけ。『吾妻鏡』には「雷雨鼓を打ち」という記述があるからの仇討ち当日が雷雨であったことは確かなようだが、虎御前の話が史実かどうかは判らない。しかし「虎が雨」に大衆の想いが籠められていることは間違いない。こんなvogabulary は外国には無い。これも rain 一語で済まそうというのだろうか。
 なお、大磯には虎御前ゆかりの延台寺が今も残り、虎御前の出自を次のように伝えている。地元の山下という長者が子供に恵まれなかったので虎池弁財天に祈願したところ、或る朝のこと枕元に小石が置かれていた。それを仏壇に安置して祈っているうちに内儀が身ごもり、安元元年(1175年)正月、虎の日、虎の刻に女児を出産した。長者はそれに因み虎と名づけた。不思議なことに石は虎女と共に大きくなり、「生きている石」安産子授けの御霊石として崇められ、屋敷の中に祠を作って祀られた。この虎女こそ、後に舞の名手、虎御前となるというもので、遊女だったという巷説とは違っっている。(閑話Ⅳ)

     (写真は上から卯の花、広重描く「大磯 虎が雨」、延台寺の虎御前増)






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 『渾身の赤』-高樹郷子さんが処女歌集    

浅草 056


 高樹郷子さんが歌集『渾身の赤』を上梓された。遅すぎる処女歌集である。もう、とっくに2,3冊の歌集を出していてもいい実力と実績の持ち主である。と、言っても彼女のことを詳しく知っているわけではない。2,3回歌会で顔を合わせた程度、その後わたしが会を離れたこともあって親しくお話しする機会を逸したままとなった。そんなに数少ない出逢いなのに、彼女と初めて会った日のことは鮮明に覚えている。たしか青葉歌会だったと思う。私が最高点を献じた作品の作者が高樹さんだった。

   川っぷちに出れば
   匂いの違う風
   あ、今
   季節を
   またいだようだ

 たおやかな感性、絶妙な息遣いに驚嘆し、会が終わったとき「もしや短歌をなさっていましたか」と質問した。私は30年短歌をやってきたが、その余りに過剰な叙情性に飽き足らず短歌と決別したばかりだった。そんな私に、繊細な叙情を自由にコントロールした彼女の作品は強い衝撃を与えた。それ以来、彼女の作品を注目してきた私にとって、この歌集は待望の一巻であった。
 五行歌の会には先輩と雖も指導・推敲に類することをしてはいけないという内規がある。百人に百の「想い」があるのだから、そこまで立ち入ることは許されないとしても、表現技術の部分については切磋琢磨が必要。それが無くては文学結社の存在意義は無い、と私は信じている。が、逆説的に言えば、このことが彼女には幸いしたのかもしれない。へんな指導者について弄繰り回されていたら今日の高樹郷子は無かっただろう。

   この世に
   思い残すことがないほど
   燃えてみろ と
   落日は
   渾身の赤だ

 歌集のタイトルとなった作品である。これは落日を詠っているのではない。落暉に仮託して彼女自身を詠っているのである。シャイで謙虚な外貌からは窺い知れない激しい情熱と信念。これこそ本物の詩人の魂であろう。
  
   若葉を
   揺るがす風
   花びらが
   爪先立って
   ころがってくる

   雲は風のまま
   流木は波のまま
   意志持つ者の
   世界の
   狭さ
 
 アト・ランダムに挙げた2首だが、15章360首の全作品に poesy が溢れている。この歌集は良い意味で、10代から関わってきた短歌の遺産であると言えよう。誰の力でもない、彼女自身の天性の資質と努力の結晶である。願わくば雑事に心を労することなく、これを機に詩人として更に「渾身の赤」を燃やして欲しい。その思いを籠めて、敬愛する詩人に拙詩一篇を贈る。

   笑う
   哭く
   歌人の想いを秘めて
   静かに燃える
   『渾身の赤』

       ■歌人=うたびと





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浅草ぶらり ぶら狸

雷門
  

映画弁士碑


探彩


 連休中は家の周りを散歩するくらいで、殆ど遠出をしなかった。が、最終日に浅草へでてみることにした。18日に遠来の友人の希望で浅草を案内することになったが、久しく訪ねていない。そこで私用を兼ねての観音詣でということになった。
雷門は、言わば浅草の玄関口、魚河岸が献灯した大提灯の下はたいへんな人だかり。そこから本殿に向かう商店街が仲見世通りで、まるでラッシュアワーのような混雑である。宝蔵院門を潜って本殿に進むが、人混みで賽銭箱に近づくのも容易ではない。今年は5月16日から三社祭が始まるというので、ハッピ姿のカシラ衆の姿が早くも見られる。歌舞伎踊りの「弥生の花 浅草祭」で取り上げるほどの名物だから江戸っ子の血が騒ぐようだ。

 伝法院通りの「ちどりや」で夏羽織を求め、千束の「めうがや」で足袋を買ってから奥山に戻る。浅草寺左手の地域は昔、奥山と呼ばれ江戸時代より見世物小屋や茶店が並んでいた場所。本殿の左側の階段を下りた処に青銅造りの大きな盧舎那仏が鎮座している。その背後一帯が昔から奥山と呼ばれた地域である。そのいちばん奥まった場所に「映画弁士の塚」が建っている。碑の文字は鳩山一郎の筆、碑面には徳川夢声、牧野周一、大蔵貢など弁士133名の名前が刻まれている。徳川夢声は後に声優として「宮元武蔵」の朗読で一世を風靡した。牧野周一は、泉ピン子の師匠だったウクレレ漫談の牧伸二の師匠である。大蔵貢は後に新東宝社長となり、この碑建設の発起人である。映画が活動写真(無声映画)と呼ばれていた昔、作品の内容を説明する活動弁士という職業があった。欧米からやってくる無声映画の作品にも適当な台詞をつけて名調子で演じるから、映画よりも弁士の熱弁を聞きたくて活動小屋(映画館)に足を運ぶ人が多かった。当時の活動弁士はスターだった。また賛助者として当時の映画産業を支えた松竹城戸四郎社長、東宝清水雅社長、大映永田雅一社長、東映大川博社長、日活堀久作社長、新東宝大蔵貢社長などの名がずらりとが並んでいる。
 その横に建つのが「喜劇人の碑」。それには戦前戦後に活躍した榎本健一(エノケン)、古川緑波(ロッパ)、清水金一(シミキン)堺駿二、木戸新太郎、大宮デン助、柳家金語桜、八波むと志、伴淳三郎、山茶花究、森川信、川田晴久など喜劇人の名が連なり、脇に森繁久弥の筆で「喜劇に始まり喜劇で終わる」の一文が刻まれていた。
 これに並んで「のんきな父さん」を描いた碑が建つ。浅草の喜劇王と呼ばれた曾我廼家五九朗を称えた金子洋文の刻文「ご苦労様といわれ、その言葉を五九朗の芸名とした・・・」がある。
碑を囲むように壁が作られ浅草を愛する芸人300名が思い思いの言葉を記載しており、「永生の碧」とも言われる。

 俗に浅草をロックと呼ぶが、ロックンロールや氷にウイスキーを注いだ飲み物の略語ではない。文字通り「六区」のことである。明治になって、浅草寺全体が公園に指定されて、7区に分けて整備され、後に7区は削除されるが5区の奥山にあった見せ物小屋は全て6区に移動された。その時の「六区」だロックとなったのである。明治後期に日本初の活動写真(映画)が電気館で始まり、映画館が林立するようになった。徳川夢声が名弁士として活躍したのもこの頃。大正時代に入ると浅草オペラが人気を博し、田谷力三や藤原義江がスターになり、昭和に入っても榎本健一(エノケン)や古川緑波(ロッパ)などの喜劇スターを生み、木馬館の安来節もブームを呼んだ。映画も昭和に入ると無声映画からトーキーに変わり、昭和13年帝国館で上映された「愛染かつら」が空前の映画ブームを引き起こした。また昭和12年に国際劇場がSKDの「東京おどり」を始め、やがて浅草レビューが花開くことになる。時中はロックの劇場10館が強制疎開で取り壊された。荷風が贔屓にしていたオペラ館もその一つであった。
 長い戦争が終わると窮乏と貧困の中で、浅草は娯楽に飢えた人々で再び氾濫した。映画「そよ風」の中で主演の並木路子が歌う「りんごの唄」が国民的な大ヒットとなり、また、今まで禁じられていた外国映画も、一斉に封切られ、浅草はかつての盛況を取り戻した。。    やがて戦後の開放感からストリップショーが盛んになり、浅草セントラル座、常磐座、ロック座、大都座などが開業する。永井荷風が、お目当てのストリッパー桜むつ子に会うためにストリップ小屋に頻繁に通ったのも、この頃である。ストリップの幕間にやる寸劇コントから佐山俊二、由利徹、南利明、長門勇、南伸介、八波むと志などが育っていった。その後もストリップ小屋のフランス座(現在の浅草演芸ホール)から渥美清、コント55号、ビートたけしなどの喜劇スターが続出していった。
 ストリップの隆盛は長くは続かず、やがて大江美智子、浅香光代などの女剣劇が人気を呼んだ。
ところがテレビの出現で映画産業が斜陽になり、浅草の繁栄を支えてきた映画館、劇場が相次いで閉館、昭和57年には水の江滝子や倍賞千恵子の活躍したSKD(松竹少女歌劇団)の国際劇場も姿を消し、浅草ビューホテルに生まれ変わった。
  
 木馬館で桜春之丞の芝居を一幕だけ観たあと、その裏手に並ぶ名物の「煮込み屋台」で一杯やる。昔は夜の商売の人とか仕事にあぶれた人たちの溜まり場だったが、最近はテレビなどで紹介されたせいか女性やお子さんも牛すじなどをつついている。雰囲気もずっと明るくなっている。
 伝法院通りに路上画家の探彩さんが出ていた。100号ほどの戦艦大和の絵は数年前に出逢ったときのまま。が、彼は変わっていた。鼻に酸素吸入のパイプを通し、頭から離さない海軍の戦闘帽の下の顔は明らかに弱っている。若干のお金を渡し、「絵は今度来るときまで預かってってよ」と言うと、「いつ、死んじゃうかわかんねけよ」と弱々しく笑った。彼は海軍から復員後、映画館の看板描きをしていたが、10年ほど前から仕事が無くなり、路上画家を始めたという。

 食事はスッポンの「田佐く」が昼間はやってないので、「ちんや」すき焼にするか、「勇新」のくじらにするか迷った末に、やっぱり「やっこ」の鰻にした。ミクシーの5月3日の小生の日記に Toko さんがジョン万次郎のことを書いて下さったが、奇しくも、ここは万次郎ゆかりの店なのである。創業は寛政年間というからざっと200年前、帰国して幕府に仕えた万次郎が、よく勝海舟と連れだって鰻を食べに来たという。ところが万次郎は来る度に食事の残りを折り詰めにしてもらい持ち帰るので、店員は「万次郎はしみったれだ」と噂をしていたという。ある日、仲居が外出したとき橋の下にいたみすぼらしい格好をした人に「この前は、お前にあげられなくて悪かった」と言いながら鰻を渡していたのを見た。万次郎は、わざと食事を残して恵まれない人たちに分け与えていたのである。ところがある日のこと、当店の仲居が外出したとき、橋の下にいたみすぼらしい格好をした人に「この前は、お前にあげられなくて悪かった」と言いながら当店の鰻を渡していたのを見ました。店主や店員が自分たちの不明を恥じたのは言うまでもない。

        (写真:上から雷門、映画弁士塚、路上画家の探彩さん)











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「こどもの日」考

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岡本太郎作


五月飾り


「こう休みが続くと何で休んでいるのか判らなくなります」…退屈だからゴルフにでも行きませんかと電話してきた後輩が最後に、こう言った。未だ現役弁護士の彼がこうだから浪々の吾輩に判るはずもない。電話が切れてから手帳を開いてみる。日付の隅に赤い小さな文字が並んでいる。4月29日が昭和の日、5月3日が憲法記念日、4日みどりの日、そして5日が、こどもの日。なるほど6日の振替休日をいれると8日間の連休になる。が、それぞれの休日にどんな意味があるのか判然としない。私ほどの歳になると昭和の日が戦前は天長節と呼ばれた昭和天皇の誕生日であることは解るが、みどりの日となるとさっぱり。国家的休日が、このように意味曖昧というのは世界にあまり例がない。

 今日の「こどもの日」は昔の端午の節句だが、往時とはかなり様変わりしている。都会では外に立てる鯉のぼりが少なくなって、岡本太郎などがデザインしたオブジェ風のものを室内に飾る家が増えている。若いお母さんの中には柏餅の代わりに鯉のぼり弁当を作る方もいると聞く。観光地ではワイヤーで繋がれた数百尾の鯉のぼりが人目をひいているが、昔は見られなかった光景だ。

 鯉のぼりには苦い思い出がある。小学校3年の教室、私は先生の質問に応えて鯉のぼりの説明をしていた。田舎から転校したばかりのシャイな少年に先生は易しい質問を投げてくれた。得々と説明していたが「鯉のぼりは紙を貼り合わせて…」というくだりにかかったところで級友がどっと笑った。先生が慌てて「紙でできたものもあるわよね」とフォローしてくれた。天竜河畔のド田舎で育った私は、それまで布で作った鯉のぼりを見たことがなかった。この歳になっても鯉のぼりを見る度に、恥ずかしさに苛まれる。
 
端午は五節句の一つで、毎月初めの「午(うし)の日」のことを指していたが、午は「五」に通じることから5月5日を端午の節句と呼ぶようになったとも。一方、中国・戦国時代の優れた政治家で詩人でもあった屈原の命日に拠るとの説もある。
 鯉のぼりの起源は、武士が出陣の際に用いる幟(のぼり)。その図柄は家紋から武者絵へと変わり、江戸初期に鯉が登場したという。鯉が黄河(中国)をさかのぼり、龍門の瀧を登り切ると、龍となって天に昇るという伝説にちなみ、子供が試練に耐えて立身出世するようにと、鯉のぼりが立てられるようになった。登龍門という言葉はこの故事から生まれた。サンズイに龍を合わせて瀧とした漢字の語源もこれである。

 あっ、また悪いクセが出た。以前ある人から、あなたの日記は理屈っぽくて面白くないと言われた。たしかに、そういうところがあるかもしれない。読む側からすれば裏口から「ちわ~」と気軽に飛び込んだら「まあまあお上がりよ」と招じ入れられ四書五経を講じられるような気持ちになるのかもしれない。私にすればウンチクをひけらかす気はさらさら無いから、「短日やもの書かざるは飢えに似て」の一句を添えて、もう読んでいただかなくても結構ですと申し送った。正直に言うと私自身も反省はしているのだが、優れたエッセイストではないから簡潔軽妙な筆致で人を唸らせるような文章は書けない。それと、もの書きのゴウのようなもので書き始めるとあれもこれもと書きたくなってしまう。いうなれば「慣(ならい)性となる」(書経より)…マタ、ヤッチャッタ
 というわけで、今日はこの辺で筆を擱く。もの好きな方がいて、続きを読みたいと思われたら、小生のホームページ「杜の小径」 をご覧いただきたい。

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 そういう事情でミクシーの日記は以上で終わっているが、ついでだからもう少し書き足しておきたい。
 前のところで登龍門のことを書いたが、これは本場の中国より日本で有名になり、絵画、彫刻はおろか落語にも取り上げられている。「道具屋」という上方落語をご存知だろうか? どうせ暇を持て余してこんなサイトを覗かれたのだろうから、ちょいと聞いていって欲しい。道具屋の叔父と、ちょいと足りない男の会話である。

「ありゃ、忍術の巻き物みたいなもんが出てきましたけど、これ何ですかいなぁ?」
「忍術の巻き物ちゅうやつがあるか、それは掛軸じゃ」
「るほど。床の間にぶら下がったぁるあれでしょ。ちょっと見してもらお……、こら面白い絵ぇやなぁ」
「ほう、感心やなあ、お前その掛軸の絵が解るかえ?」
「馬鹿にしなはんな、わてかてこれぐらい解りますわいな。ボラが尾で立って素麺食ぅてるオモロイ絵ぇやなぁ」
「どこぞの世界に「ボラが尾で立って素麺食ぅてるてな絵があるか。そら鯉の滝登りやで」
「ホォ、これ鯉の滝登りですか? わたいまた素麺がぎょ~さんこぼれたぁるなぁ、勿体無いなぁ思て。で、何ですか? 鯉は滝登りますんか?」
「鯉といぅものは勢いのえぇ魚やなぁ、川上へさしてドンドン登って行て、間に滝があったら遡りに登って行くといぅぐらいやなぁ」
「な~るほどねぇ……ところで、わたい鯉の捕まえ方っちゅうのん思い付きましたねぇ」
「ほぉ、どないすんねん?」
「あのね、バケツに一杯水汲んで、鯉の居てそぉな川へ行きまんねん。へてから、橋の上からこのケツの水をザッバァ~~ッとぶっちゃけてね「お~~い、滝や滝や、滝やゾ~~」言ぅてね、大きな声で呼びまんねん。するとどこにでもこんなん一匹や二匹居てまんねんけど、慌てもんの鯉がホンマもんの滝と間違いよって「えらい細い滝やなぁ」言ぅてズルズルズル、バケツの中へドボ~~ン……」「バカラシ、お前やないと思いつかんわ」…お粗末でした。お後がよろしいようで…。

 鯉の滝登りはこれほど有名なのだが、実はこの説話の出典とされる『後漢書』や『三秦記』には、一言も鯉という字は出てこない。ただ大魚と書いてあるだけである。説話、伝説のたぐいは、得てしてこのように変形していくものなのである。
 話を五月飾りに戻そう。鎌倉、室町時代の武家屋敷では梅雨の前に手入れを行う為に、戸外に旗幟や吹流しを飾り、座敷には鎧や兜、武具を出して虫干しのようなことをした。これを五月の節句の起源とする説もある。このときショウブを飾るのは古代からそれを薬草として服用したり風呂にいれたりした習慣があったことと、「菖蒲」と「尚武」の音が同じであることから武士階級の間で広まったようだ。江戸時代から町民もこれを真似て紙で作った兜や木で作った槍やなぎなたを飾るようになり、明治以降の富国強兵の風潮によって、庶民も派手な飾り物や武者人形を飾るようになった。

 端午の節句と言えば柏餅。現代は年中売っているが、昔は子どもにとって柏餅が大きな楽しみだった。万葉集に謀反の罪で非業の死を遂げた有馬皇子の歌がある。家有者笥尓盛乎草枕旅尓之有者椎之葉尓盛…家にあれば笥(ケ)に盛る飯(イイ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る…宮に居たころは立派な器で食事をしたのに囚われの旅では椎の葉にも盛って食べている。何と悲しいことかという哀切極まりない歌だが、問題は椎の葉。あんな細かい葉に御飯を盛れるだろうか。ここで椎というのは実は柏ではないかというのが私の推理。カシワの名前の由来は炊葉(かしきば)」で、古くは食べ物を盛るための食器として、また、食物を包んで蒸す道具として使われていた。万葉集では桔梗を朝顔と詠んでいる例もあるから柏を椎と詠んだと解しても一向におかしくはない。さて話を急ぐが、柏の葉は新芽が出てから古い葉が落ちるので家系が途絶えない縁起ものとして喜ばれ、端午の節句に用いられるようになったのである。それと、中国では5月5日に粽(ちまき)を作る風習があり、日本でも最初は粽を作っていた。1000年ほど前に編纂された『倭名類聚鈔』には「知萬木」という表記で紹介されているから、かなり古い食べ物である。最初はイネ科の茅萱(ちがや)を使ったのでチマキと呼ばれたが、次第に笹の葉がつかわれるようになった。中国での始まりは紀元前2-3世紀、の故事に由来する。国の行く末を憂いつつも、陰謀によって失脚した屈原は、汨羅(べきら)という川に身を投じて亡くなってしまう。彼を慕う民衆は、屈原の死体を魚が食べないように粽(ちまき)を投げ入れて、舟の舳先に龍の首飾りを付けたという。その命日が5月5日で、やがてその風習は病気や災厄などを除ける端午の節句となり、日本に伝わってきたものである。
 
   (写真:上から観光地の鯉のぼり、岡本太郎作の鯉のぼり、五月飾り)






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季節のことばー安居ー

安居


安居1


安居神楽


   石仏の安居何おをか会得せし (静塔)
   汲み置きの水照り返し夏安居 (狩行)
   宿墨の幽かに薫る安居かな  (杜詩夫)

 この三句を声に出して読んでいただきたい。句のなかの安居は「あんご」と読むのだが、「あんきょ」と読んだからといって恥じることはない。夏の季語だから俳句をやっている人はご存知だろうが、一般には馴染みの薄いことばである。
 安居とは元々、梵語(サンスクリット)の雨期を日本語に訳したもので、日本では僧侶が旧暦4月16日から7月15日まで一堂に篭って修行することを言う。本来の目的は雨期には草木が生え繁り、昆虫、蛇などの数多くの小動物が活動するため、遊行(外での修行)を止めて一カ所に定住することにより、小動物に対する無用な殺生を防ぐことである。後に雨期のある夏に行う事から、夏安居(げあんご)、雨安居(うあんご)とも呼ばれるようになった。季語としては夏行(げぎょう)、夏篭(げごもり)、夏断(げだち)、夏入(げいり)、結夏(けつげ)、解夏(げげ)など、全て同じ意味で遣われる。

【番外閑話 Ⅰ】
 10年ほどまえになるが、中浜万次郎の本を書くために1ヶ月ほど、高知に滞在したことがある。その折に仁淀川町(旧池川町)に伝承されている安居神楽を見たことがある。仁淀川支流の安居川沿いの落人部落に伝わるのが名前の由来と聞いた。最近になって僧侶の安居と関係があるか調べてみたが、得るものはなかった。神楽は宮中で行われる御神楽(みかぐら)と、民間で行われる里神楽に大別され、里神楽は更に巫女神楽 、出雲流神楽 、伊勢流神楽、獅子(しし)神楽と別れる。土佐神楽は 伊勢流神楽の流れらしいということで、仏教よりもむしろ神道、修験道に関係するように思われる。

【番外閑話 Ⅱ】
 坂口安吾の本名は炳五で、丙午(ひのえうま)生まれの五男坊に因んだものだが、彼自身が印度哲学を専攻して仏典の安居からペンネームを安吾としたのではないか…これは師の檀一雄から直接聞いた話だが、酒席でのことなので当てにはならない。

      (写真:上から安居の読経2景、安居神楽)





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