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浅草ぶらり ぶら狸

雷門
  

映画弁士碑


探彩


 連休中は家の周りを散歩するくらいで、殆ど遠出をしなかった。が、最終日に浅草へでてみることにした。18日に遠来の友人の希望で浅草を案内することになったが、久しく訪ねていない。そこで私用を兼ねての観音詣でということになった。
雷門は、言わば浅草の玄関口、魚河岸が献灯した大提灯の下はたいへんな人だかり。そこから本殿に向かう商店街が仲見世通りで、まるでラッシュアワーのような混雑である。宝蔵院門を潜って本殿に進むが、人混みで賽銭箱に近づくのも容易ではない。今年は5月16日から三社祭が始まるというので、ハッピ姿のカシラ衆の姿が早くも見られる。歌舞伎踊りの「弥生の花 浅草祭」で取り上げるほどの名物だから江戸っ子の血が騒ぐようだ。

 伝法院通りの「ちどりや」で夏羽織を求め、千束の「めうがや」で足袋を買ってから奥山に戻る。浅草寺左手の地域は昔、奥山と呼ばれ江戸時代より見世物小屋や茶店が並んでいた場所。本殿の左側の階段を下りた処に青銅造りの大きな盧舎那仏が鎮座している。その背後一帯が昔から奥山と呼ばれた地域である。そのいちばん奥まった場所に「映画弁士の塚」が建っている。碑の文字は鳩山一郎の筆、碑面には徳川夢声、牧野周一、大蔵貢など弁士133名の名前が刻まれている。徳川夢声は後に声優として「宮元武蔵」の朗読で一世を風靡した。牧野周一は、泉ピン子の師匠だったウクレレ漫談の牧伸二の師匠である。大蔵貢は後に新東宝社長となり、この碑建設の発起人である。映画が活動写真(無声映画)と呼ばれていた昔、作品の内容を説明する活動弁士という職業があった。欧米からやってくる無声映画の作品にも適当な台詞をつけて名調子で演じるから、映画よりも弁士の熱弁を聞きたくて活動小屋(映画館)に足を運ぶ人が多かった。当時の活動弁士はスターだった。また賛助者として当時の映画産業を支えた松竹城戸四郎社長、東宝清水雅社長、大映永田雅一社長、東映大川博社長、日活堀久作社長、新東宝大蔵貢社長などの名がずらりとが並んでいる。
 その横に建つのが「喜劇人の碑」。それには戦前戦後に活躍した榎本健一(エノケン)、古川緑波(ロッパ)、清水金一(シミキン)堺駿二、木戸新太郎、大宮デン助、柳家金語桜、八波むと志、伴淳三郎、山茶花究、森川信、川田晴久など喜劇人の名が連なり、脇に森繁久弥の筆で「喜劇に始まり喜劇で終わる」の一文が刻まれていた。
 これに並んで「のんきな父さん」を描いた碑が建つ。浅草の喜劇王と呼ばれた曾我廼家五九朗を称えた金子洋文の刻文「ご苦労様といわれ、その言葉を五九朗の芸名とした・・・」がある。
碑を囲むように壁が作られ浅草を愛する芸人300名が思い思いの言葉を記載しており、「永生の碧」とも言われる。

 俗に浅草をロックと呼ぶが、ロックンロールや氷にウイスキーを注いだ飲み物の略語ではない。文字通り「六区」のことである。明治になって、浅草寺全体が公園に指定されて、7区に分けて整備され、後に7区は削除されるが5区の奥山にあった見せ物小屋は全て6区に移動された。その時の「六区」だロックとなったのである。明治後期に日本初の活動写真(映画)が電気館で始まり、映画館が林立するようになった。徳川夢声が名弁士として活躍したのもこの頃。大正時代に入ると浅草オペラが人気を博し、田谷力三や藤原義江がスターになり、昭和に入っても榎本健一(エノケン)や古川緑波(ロッパ)などの喜劇スターを生み、木馬館の安来節もブームを呼んだ。映画も昭和に入ると無声映画からトーキーに変わり、昭和13年帝国館で上映された「愛染かつら」が空前の映画ブームを引き起こした。また昭和12年に国際劇場がSKDの「東京おどり」を始め、やがて浅草レビューが花開くことになる。時中はロックの劇場10館が強制疎開で取り壊された。荷風が贔屓にしていたオペラ館もその一つであった。
 長い戦争が終わると窮乏と貧困の中で、浅草は娯楽に飢えた人々で再び氾濫した。映画「そよ風」の中で主演の並木路子が歌う「りんごの唄」が国民的な大ヒットとなり、また、今まで禁じられていた外国映画も、一斉に封切られ、浅草はかつての盛況を取り戻した。。    やがて戦後の開放感からストリップショーが盛んになり、浅草セントラル座、常磐座、ロック座、大都座などが開業する。永井荷風が、お目当てのストリッパー桜むつ子に会うためにストリップ小屋に頻繁に通ったのも、この頃である。ストリップの幕間にやる寸劇コントから佐山俊二、由利徹、南利明、長門勇、南伸介、八波むと志などが育っていった。その後もストリップ小屋のフランス座(現在の浅草演芸ホール)から渥美清、コント55号、ビートたけしなどの喜劇スターが続出していった。
 ストリップの隆盛は長くは続かず、やがて大江美智子、浅香光代などの女剣劇が人気を呼んだ。
ところがテレビの出現で映画産業が斜陽になり、浅草の繁栄を支えてきた映画館、劇場が相次いで閉館、昭和57年には水の江滝子や倍賞千恵子の活躍したSKD(松竹少女歌劇団)の国際劇場も姿を消し、浅草ビューホテルに生まれ変わった。
  
 木馬館で桜春之丞の芝居を一幕だけ観たあと、その裏手に並ぶ名物の「煮込み屋台」で一杯やる。昔は夜の商売の人とか仕事にあぶれた人たちの溜まり場だったが、最近はテレビなどで紹介されたせいか女性やお子さんも牛すじなどをつついている。雰囲気もずっと明るくなっている。
 伝法院通りに路上画家の探彩さんが出ていた。100号ほどの戦艦大和の絵は数年前に出逢ったときのまま。が、彼は変わっていた。鼻に酸素吸入のパイプを通し、頭から離さない海軍の戦闘帽の下の顔は明らかに弱っている。若干のお金を渡し、「絵は今度来るときまで預かってってよ」と言うと、「いつ、死んじゃうかわかんねけよ」と弱々しく笑った。彼は海軍から復員後、映画館の看板描きをしていたが、10年ほど前から仕事が無くなり、路上画家を始めたという。

 食事はスッポンの「田佐く」が昼間はやってないので、「ちんや」すき焼にするか、「勇新」のくじらにするか迷った末に、やっぱり「やっこ」の鰻にした。ミクシーの5月3日の小生の日記に Toko さんがジョン万次郎のことを書いて下さったが、奇しくも、ここは万次郎ゆかりの店なのである。創業は寛政年間というからざっと200年前、帰国して幕府に仕えた万次郎が、よく勝海舟と連れだって鰻を食べに来たという。ところが万次郎は来る度に食事の残りを折り詰めにしてもらい持ち帰るので、店員は「万次郎はしみったれだ」と噂をしていたという。ある日、仲居が外出したとき橋の下にいたみすぼらしい格好をした人に「この前は、お前にあげられなくて悪かった」と言いながら鰻を渡していたのを見た。万次郎は、わざと食事を残して恵まれない人たちに分け与えていたのである。ところがある日のこと、当店の仲居が外出したとき、橋の下にいたみすぼらしい格好をした人に「この前は、お前にあげられなくて悪かった」と言いながら当店の鰻を渡していたのを見ました。店主や店員が自分たちの不明を恥じたのは言うまでもない。

        (写真:上から雷門、映画弁士塚、路上画家の探彩さん)






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