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師・檀一雄を偲ぶ旅―能古島・瀬高・柳川

454.jpg檀一雄現在の寺の庫裏

 一面に広がる菜の花畑の背景に、博多湾の碧い海が光っている―数日前に見たNHKのライブそっくりの光景を目の前にして思った。 そうだ、あれを見た瞬間に、ここ能古島へ来ることを私は心に決めていたのかもしれない。ポケットから磁石を取り出して方位を確かめた。この景色は在りし日の檀一雄が眺めたものである。私は眼前に広がる景色に重ね合わせながら、檀が遺した文章を心の中で反芻していた。

「能古島の展望台から四顧すると、私の一生のそれぞれの時期がほとんど一望のうちに、アリアリと見えてくる。南には、青春時代を送った博多の町並みが横に長く伸びている。西には、律子を死なせた小田の浜が、太郎を肩車にして歩いた長い道がすぐそこに見えている。つまり、能古の山頂から四方を眺め回すと、私の生涯のほとんど全部の出来事が、はっきりと指差しながら点検できる」― 

 檀は1974年に能古島に自宅を購入し、月壺洞(げっこどう)と名づけた。その翌年に悪性肺腫瘍のため九州大学病院に入院。病床で「火宅の人」の最終章「キリギリス」を口述筆記で完成させたが、これが檀の最後の仕事となった。それから間もない1976年1月2日に世を去る。享年63歳の若さだった。能古島に滞在した2年間に檀はしばしば、この展望台に足を運び短い生涯を振り返っていたのであろう。
 糸島半島西の浦・小田の海辺を見霽かす自然探勝路の脇に、辞世の句を刻んだ檀一雄文学碑が建っている。小田浜は妻律子が闘病生活を続けた思い出の地である。陸軍報道班員として従軍した檀が敗戦で帰国したとき、律子は腸結核に罹っていた。彼女の希望で海の見える西浦村小田(現・福岡市西区)の波左間スエ方の2階に間借りする。ここでの痛ましい闘病と献身的な看病の1年間は、後に直木賞受賞作となった『リツ子・その愛』『リツ子その死』に詳しく記されている。

     モガリ笛
       幾夜もがらせ
         花二逢はん

 モガリ笛とは虎落笛のことで冬の季語。烈風が竹垣や電線などに触れてヒューヒュー鳴ることをいう。この句には様々な解釈がなされている。その中には下句に「二」という漢数字が遣われているところから、二は二人、即ち奥さんのほかに愛した女性を指すというものもある。しかし私は死期を悟った檀がゼイゼイと咳き込む自分の苦しい息を虎落笛に喩え、あと幾夜か苦しめばあの世で律子に逢えるという気持ちを詠んだと解釈したい。
 毎年5月の第3日曜日、この句に因んだ花逢忌(かほうき)が、この文学碑の前で催される。帰途、西の浦・小田浜までタクシーを飛ばしたが、人気のない浜辺に檀の痕跡を探すことはできなかった。

 翌日、みやま市瀬高町小田平田の善光寺を訪ねる。此処は律子の遺骨を片手に3歳足らずの長男の太郎を肩に負った檀が、沖の端の実家などを転々とした後に辿り着いた場所。親類の地元郷土史家・村山健治の紹介で、この寺の庫裏の荒れ果てた屋根裏部屋に逗留することになる。僅かな自炊道具と煎餅蒲団だけという悲惨な生活だったが、自然環境は暫し貧窮の苦しさを忘れさせた。当時のことを短篇小説『帰去来』の一説から窺うことができる。
―「部屋からの眺望は素晴しかった。筑後平原の一望の櫨(はぜ)が序々に紅く染まっていき太郎と二人、心ゆくばかり、眺め暮らした」―

 話は前後するが能古島の旧居跡に「つくづくと櫨の葉朱く染みゆけど下照る妹の有りと云はなく」という歌碑が建っている。櫨(はぜ)の木が真っ赤に色づいてきたが、今その下に佇んで自分に見せてくれ。最愛の妻は逝って悲しく切ないという意味である。この歌は善光寺で作られたもので、この境内に建っていてこそ相応しい。いま寺苑には児童文学者与田準一の書「壇一雄逍遙の地」の碑と「リツ子・その愛」が此処で書かれた旨の碑が、筑後平野を見渡せる静かな広場に建てられている。檀は律子の死で生きる望みを失っていたが、師の佐藤春夫や前記与田などの励ましで再び筆を執り、作家として復活を果たす。

 檀一雄を偲ぶ旅の最後の宿は柳川の「御花」。此処は柳川藩主立花氏の別邸だったところで、檀もしばしば訪れており、有明の珍味は檀の食エッセイ『わが百味真髄』でも取り上げられている。檀の墓は藩主立花氏の菩提寺・福厳寺に在る。妻・律子も此処に眠っており、彼女に対する檀の想いの深さが偲ばれる。檀は「火宅の人」のモデルとなった女優の入江杏子や“小森のおばちゃま”こと小森和子など多くの愛人と浮名を流し最後の無頼派文士と言われたが、結局は最初の妻・律子の許へ帰って行った。
 どの資料を見ても檀一雄の生地は山梨県となっているが、実質的な故郷は柳川である。繊維工業試験場技師という父の職業の関係で各地を転々とした。4歳くらいまで東京の下谷で暮し、5歳から6歳まで福岡の鳥飼、7歳から 9歳まで久留米市の野中、その後10歳から16歳まで栃木県の足利と親の転勤のたびに、あちこち移動していた。10歳の時に母親の家出により3人の妹は、柳川の白秋生家の隣の祖父母の家に預けられていた。お正月が近づくと、檀自身も父親と一緒によく柳川に帰省していた。白秋の生家は酒造業で現在も記念館として保存されているが、檀の祖父母の家は痕跡をとどめていなかった。
 柳川市の川下りコース沿いに檀一雄文学碑が建っている。碑には「ムツゴロ、ムツゴロなんじ佳き人の潟の畔の、道をよぎる音ささやきたるべし、かそけく、寂しく、その果てしなき想いのきゆる音」と有明潟のムツゴロウの歌が刻まれていた。(

  (写真:小田浜より能古島を望む、辞世の句碑、『リツ子・その愛』を書いた善光寺の庫裏)

 今度の旅で、私の笈中には檀の『風浪の旅』(山と渓谷社)が忍ばせてあった。映画「火宅の人」で主要テ―マ部分をなす松阪慶子演じる行きずりの女性トクコは、この本の中の「小値賀(おじか)の女」という短編を切抜きしたものである。小値賀は五島列島の地名で、できれば其処まで足を伸ばしたかったが今回は時間切れ。次回を期したい。

 来週から、再び旅に出ます。


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by 杜の小径  at 06:03 |  日記 |  comment (12)  |   |  page top ↑
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