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ヒロくん

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「先生、下呂へ行くマイ」―玄関を入って来るなり、ヒロくんが勢い込んで言った。マイは文語形では「まじ」となり、普通は否定、禁止の推量を表す助動詞である。江戸っ子は訛って「メエ」と発音する。いずれにしても、「下呂へは行きません」という意味。ところが佐久間弁では「行きませんか?」ということになる。こっちも佐久間の生まれだからツーカーで意味は解る。前回来たときに下呂温泉で開かれる同級会に一緒に行かないかと誘われていた。
 ヒロくんは同級生ではない。家政婦代わりに来てくれる教え子の旦那である。腕のいい仕立職人なんだが最近は量販の大型メーカーに押されて、あまり仕事が無いらしい。親分肌の男で洋服屋の組合や町会の世話役をしたり、月に2,3回はゴルフに出かけるなど、けっこう優雅な暮らしをしている。運転手代わりに奥さんを送ってくるのだが、アイロン掛けから水回りの修理、盆栽の世話までしてくれる。もちろん私のワイシャツから洋服、コートに至るまで彼の手製である。材料からデザインまで一切を彼に任せているのだが、時どき困ることもある。和服用のコートを注文したときは、これくらいのものは着て下さいよと、ベビー・アルパカの生地を何処からか仕入れてきた。それはまだいいとして、裏地が歌麿の浮世絵だからフォーマルな場所へは着て行けない。

 その彼が、私を同級会に誘ったのには訳がある。実は一昨年、蒲郡温泉で開かれた彼らの同級会に私も出席した。迂闊にもヒロくんの「K先生も来るよ」の一言に引っ掛かってしまった。私が大学受験に失敗して1年だけ久根鉱山で代用教員をしていた頃、いつの間にか私の下宿に土地の若者たちがクラシックのレコードを聴きに来るようになった。そのメンバーの中に地元の中学で国語を教えていたKさんが居た。信じられないかもしれないが女性には奥手で、それに受験一途のときだったから個人的に付き合うことはなかったが、色白で理知的な面影は二十歳の若者の心に浅からぬ印象を残していた。
「えっ?」…ドキドキする気持ちを抑えて「しばらくです」と声を掛ける私に、Kさんが怪訝な表情を見せた。見兼ねたヒロくんが「久根の小学校の村瀬先生ですよ。いつもレコード聴きにいらしたでしょ」と助け船を出してくれたが、結果は更に悲惨なことに。「済みません。ワタシ、覚えて無いんですのよ」…この一言で私の独りよがりの夢はいっぺんに吹き飛んだ。

「あの時はキミの口車に乗って恥をかいた。二度と行くもんか」と怒る私に、「あのあと話したら、郵便局の隣の職員住宅に行ったような気がすると言ってたよ。今度は思い出すかもしれんから行こうよ」とヒロくんはしつこい。「あ~あ、先生の初恋も終わりだね」と奥さんのミチヨがにやにや笑っている。こいつら夫婦で面白がっているなと思うとよけい腹が立ってきた。「ゼッタイに行かない!」私はきっぱりと宣言した。
 
 二人が働いている間、私は何もしない。邪魔だから手伝うなと言う。この日もテレビで大相撲を見ていた。その間に冬物の着物の汚れを拭き取って箪笥に仕舞い、夏物と入れ替えてくれる。羽毛布団も圧縮袋に入れ、軽い夏掛けに替えてくれた。「来月はアメリカから孫が来るから、たぶん一回しか来れないよ。あんまり汚さないでね」―例によって捨て台詞みたいな言葉を残して帰って行った。口は悪いが有難い二人ではある。
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by 杜の小径  at 03:53 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑
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