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近事片々―旅から戻る

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   七月の遠嶺暮れゆく旅の果て(杜)

 慌ただしい旅から戻る。今月一杯は温泉でのんびりと思っていたんだが…。旅先へ家政婦代わりをしてくれているM代から電話があり、2日の日曜日に来てくれるという。家の中を少し片付けておかねばなるまい。家政婦さんが来るというのに予め掃除しておくというのもヘンな話だが、男の一人所帯を一か月放置しておくとどんな状態になるか―想像を絶する。下着は毎日取り替えるから上下合わせて数十枚、洗濯機の蓋が閉まらないほど膨れ上がっている。それは見えない処だから未だ良いとしても寝室、書斎、リビングは惨憺たる有様で、いくら元教え子でもそのままは見せられない。今月はアメリカからお孫さんが二人来ているので、一度も掃除に来てくれていないから特にひどい。あっちの夏休みは長いので、2か月余り日本の小学校へ短期留学している。両親は来日しないで、子どもたちだけでやって来たそうだ。JALにそうしたシステムがあるとかで、成田まできちんと送り届けてくれるという。先月、お土産にケーキを持たせたら子どもさんからお礼の電話があった。お父さんはアメリカ人だが日常は日本語を遣わせているらしく、「おじさま、おいしいケーキをありがとうございました」と流暢な日本語で丁寧に挨拶された、躾の程が偲ばれて嬉しかった。
 一緒に来る旦那は無口で、黙々と仕事をするだけだがM代は違う。入って来るなり大仰に口を覆いながらの「まあ、汚い!」が第一声。苟もこれが元恩師への態度かと心中穏やかならぬものがあるが、汚いのは事実だから仕様が無い。それにしても孫たちがあんなにきちんとしているのに…。来日中に行儀が悪くならないかと心配だ。
 
 今回の旅は和服で通した。綿薩摩に麻地の襦袢の組合せだと軽いし、下穿を下帯にすると足許から風が入るから意外に涼しい。歩くには適さないが、移動を車にすれば夏旅は着物のほうがいい。汗を吸った襦袢は旦那のH君が洗濯してアイロンを掛けてくれるだろう。着物の簡単なシミは自分で落としてくれ、汚れた着物は持ち帰ってクリーニングに出してくれる。男も女も無口がいい。

 短い旅だったが、戻ってみるとヴェランダ農園に大きな変化があった。トマトが赤く色づき、タカノツメも丸々と太っていた。先週苗床から移植したオクラも立派に根付いたようだ。余談だがオクラをどう表記するのだろうと辞書で調べたらokra となっていた。発音記号を見るとo にアクセントが付いているから正確にはオークラに近い発音になるのだろう。ちなみに日本語訳では陸蓮根(おかれんこん)というらしい。実(莢)の断面が蓮根に似ているからだろうか。アオイ科だからタチアオイに似た大輪の花を付ける。実の収穫は無理でも、せめて花だけでも見たい。

       (写真:左からヴェランダ農園のトマト、タカノツメ、オクラ)
 


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by 杜の小径  at 21:01 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

薮内正幸美術館へ

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 薮内正幸美術館の開館5周年記念特別企画「薮内正幸の世界Ⅱ」が月末から始まる。これは11月末まで開かれるので、秋に改めて行くとして、取り敢えず特別展Ⅰを見るために北杜市へ。毎年、夏は美術館近くに咲くヤマユリを見るのを楽しみにしていたが、今年は遅くなってしまった。何回も訪れている美術館だが、今回は開館5周年記念ということで薮内さんの代表的な作品や今まで公開したことがない原画を展示していた。

i明神館 帰途は松本へ寄り、扉温泉の明神館に泊まる。このところ白馬温泉や穂高温泉に泊まることが多いので、明神館は久し振り。








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by 杜の小径  at 18:50 |  日記 |  comment (1)  |   |  page top ↑

市川富雄さん補遺

      山主敏子    松谷みよ子

 書き忘れていたが、私が本格的に童話を書き始めたのは市川富雄さんに勧められたからだった。それまでも小学館の雑誌などに百瀬杜詩夫の名前で民話シリーズなどを発表したりしていた。或る日、市川さんから食事に誘われ、そこで一人の老婦人を紹介された。当時の日本児童文芸家協会理事長山主敏子さんだった。山主さんは共同通信在職中は日本初の女性論説委員として知られた方で、童話作家の他に翻訳家として活躍されていた。本格的に童話をやるなら協会に入ったほうがいいだろうという市川さんの親心だった。それが縁で同協会に籍を置くことになったが、数年で童話作家の道を逸れてしまった。

 松谷みよ子さんを紹介してくださったのも市川さんだった。当時の松谷さんは『モモちゃんとアカネちゃん』で赤い鳥文学賞を受賞するなど、児童文学の頂点に立っていて、私にとっては雲の上の存在だった。とても気さくな方で、その後も神保町へ来られる度に声を掛けてくださった。
 或る日、市川さんが何かの話のはずみに「ぼくたちは同級生だもんね」と言われ、松谷さんも「そうそう同級生だもんねぇ」と、にやにやしながら相槌を打たれた。通夜の帰りにそのことを話すと、岩井さんも東樹さんも初耳だと言う。市川さんも松谷さんもイタズラ好きだから、騙されたんじゃあないのというのが、お二人の一致した意見だった。暫くして岩井さんが「お二人は同年輩だから、もしかして同じ年生まれという意味かもしれないね」と仰った。いま私は、何回目かにお会いしたとき戴いた『龍の子太郎』のサイン本を眺めている。

          (写真:左から山主敏子さん、松谷みよ子さん)






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by 杜の小径  at 04:20 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

市川富雄さん逝く

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 昨夕、帰宅すると東樹誠司さんから留守電が入っていた。小学館元常務 小学館プロダクション元代表 市川富雄さんが亡くなられたという。折り返し電話を入れると、東樹さんも旅行中に訃報を聞いて急いで引き帰られたところだという。明日が通夜ということで、同行を約して電話を切る。

 市川さんには、個人的にもいろいろお世話になった。私が小学館で初めて配属されたのが『小学三年生』編集部で、編集長が市川富雄さんだった。部下を信頼して全てを任すタイプで、企画から編集まで現場の一切を和田副編集長に任せていた。校了の日は部屋には顔を出さず、ご自分は馴染みの居酒屋Sに腰を据え、終わる頃を見計らって「終わったらおいでよ」と電話を掛けてきた。校了後は全員がSへ押しかけご馳走になるのが毎月の楽しみになっていた。これも市川さんの人徳だったのだろう。小学館OB会の機関誌5月号は相賀哲夫前社長の追悼号で、150名のOBが亡き前社長を偲ぶ短文を寄せていた。ある人は美智子様の皇太子妃決定をスクープした週刊誌創刊号の発売中止を求めて小泉信三さんが来社された思い出を語りながら前社長が涙を流した話、ある人は亡くなる1月前、数人でお酒をご馳走になり、オハコの「涙くん、さよなら」を聞かされた話など、どの人も前社長とのドラマチックな触れ合いを綴っていた。が、市川さんだけは違っていた。毎月2回、社長室で開かれる付録会議の厳しさを紹介したうえで、前社長の経営者としての炯眼ぶりを称賛するとう、どちらかと言えば平凡な追悼文だった。しかし私は個人的関係に一切言及しなかった淡々とした文章に、却って市川さんの人柄を見たように思えて感動した。前社長と市川さんは東大の同期生、謂わば吻頸の友である。前社長は東大在学中にお父上が急逝されたので、大学を中退して社長職を継がれた。市川さんは2年遅れて東大を卒業すると、直ぐ小学館に入社して社長の片腕となって社を支えてこられた。そうした事に一切触れようとしなかった潔い態度に感動したのである。
 
 新小平駅で岩井昭児さん、東樹さんと待ち合わせて、通夜の斎場に向かう。岩井さんは詩人、画家でもあり、編集部長を最後に退職された後は文芸誌『帆翔』を主宰してこられた。また小学館OB会の会長も長く務められてきた。仕事は勿論、酒と麻雀の手ほどきも受けた大先輩である。東樹さんは長く『幼児と保育』の編集長を務められ、小学館の幼児誌の基礎を築いた方。年齢が近いせいかOBの中では最も接触が多い。中央線沿線のOBが集まる飲み会「くろしお会」の代表としてお世話になっている。
 
 市川さんは若い頃から親鸞に傾倒していたので、退職後は浄土真宗の僧籍に入られた。法号は顯真院釋善教。享年84歳。改めてご冥福をお祷りしたい。







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不狂不及

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 昨日は、一川さんの「墨遊び」の日。10時半に神楽坂に着く前に喫緊の要事を済ますため、早朝5時半に家を出る。未だ降ってはいないが、念のため折畳傘をバッグに忍ばせておく。

 雨のためか午前の参加者は私の他はTさんだけ。秋に渡米されるとかで、土産用の扇子に使う扇面を熱心に制作されていた。自作の句に水連の俳画を配したもので、外人は喜ばれるだろう。彼女はオレゴン大学出身で、アメリカに友人が多い。
 私の作品は「不狂不及」。元は韓国の諺らしいが、「狂わざれば及ばす」という言葉に惹かれている。写真左が一川師匠の作品。40㌢の長筆の先端を握って、立ったまま一気に書かれる。品格と筆勢のバランスがとれた見事な作品である。それに反して、私の作品(写真右)の何と貧相なことか。

「不狂不及」の出典は知らないが、「何事も狂気と見られるほど一心にならないと成し遂げることはできない」という意味。『列子』に所載の「「愚公移山」(愚公山を移す)と同じ意味であろうか。
 昔、中国に大行山と王屋山という二つの高山があり、人々は往来に遠回りをしなければならなかった。愚公という老人は90歳になろうとしていたが、この二つの山を取り除こうと考えた。近所の人は愚公を馬鹿にして嘲笑った。中でもいちばんの反対者は奥さんで、「これまで小さな山も崩せなかった人が、どうして大きな山を二つも取り除けるの」と嘆いた。愚公は、嘆息しながら答えた。「わしが死んでも子供がいる。子供は孫を産む。その孫はまた子を産む。次々と子供を産んでいく。子孫は尽きる事はないが、山は今以上には大きくならないし増えないのだ。」と。これを聞いた天帝は愚公の一途な心に感心し、二つの山を神に背負わせて平らにしたと言う話である。2400年以上前の話だが、現代こそ愚公のような人が求められているのではあるまいか。「不狂不及」という隻句は、こうした想いを新たにしてくれた。

 Tさんは所用で帰らえたが、久しぶりに一川さんのお友だちMさんが見えたので3人で昼食。クラスメートのKさん作のベレー帽が可愛い。とてもお孫さんがいらっしゃるとは思えない。新しくできた泥味亭というレストランへ名前に惹かれて入ったが、味が曖昧で「泥みて~」というのが3人の一致した判定。
 
 国分寺駅を降りると、沛膳たる驟雨。とても折畳傘では間に合わない。地下街で夜食の菜を物色しながら時間を潰したが、雨は降り止まない。急遽モットーを「不飲不帰」に変更して9階へ。夕方まで粘るも雨はますます激しくなっていた。結局、タクシーで帰る。最初から、そうすれば良かった…。





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神話の中の日食

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 NHKの中継で日食を観る。夕方は同局の特番「46年ぶりの日食」を見る。現地で体感できなかったのは残念だが、普通の望遠鏡では観察できない紅焔(プロミネンス)を観ることができた。まあ、人間の劫初の恐怖のような感動は何%か実感できた。日本で次回に観察出来るのは26年後、どう頑張っても無理だ。来年、イースター島の日食へ出掛けることにしようか。
 NHKの番組では日本で初めて日食が観測されたのは明治20年としていたが、これは正確ではない。科学的な観察が記録されたのはそうかもしれないが、江戸時代の文書にも、日食観察の記事がある。それどころか『古事記』『日本書紀』にも日食を思わせる記述がある。いわゆる「岩戸隠れ」神話である。戦前は小学校の教科書にも載っていたので、私の世代なら誰もが知っている。若い方の為に粗筋を紹介しておこう。

 太陽の神・天照大御神(アマテラスオオミカミ)には、素盞鳴命(スサノヲノミコト)という弟がいた。この弟神は父の神から死の国を治めるように言われたが、これを拒んだので高天原(タカマガハラ)から追放される。已む無く姉を頼ってきたが、大変な乱暴者で田の畔を壊すなど乱暴の限りを尽くした。ある日、素盞鳴命は姉の機織部屋に皮を剥いだ死馬を投げ込み、驚いた機織女が死んでしまった。怒った姉の天照大御神は「もう二度と素盞鳴命の顔を見たくない」と天の岩戸に隠れてしまう。太陽の神が隠れたので、下界も神々の居る高天原も真っ暗になってしまった。これは大変だと神々が集まり相談した。まず、長鳴鳥(鶏)を集めていっせいに鳴かすと、天照大御神は朝が来たと勘違いして岩戸を少しだけ開けて外を覗いた。すかさず天佃女命(アメノウズメノミコと)が伏せた桶の上で裸踊りを始めると、神々が手を叩き大声を挙げて笑った。余りの大騒ぎぶりに、天照大御神はもう少し岩戸を開けて、天佃女命に「何事じゃ」と尋ねられた。そのとき力自慢の手力男命(タジカラヲノミコト)が岩戸を一気に引き開け、天照大御神を外に連れ出した。高天原や下界は忽ち光を取り戻すことができた。罰として高天原を追放された素盞鳴命が下界へ下り出雲で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治し、腹から出た天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)を天照大御神に献上する話は、今でも神楽などで舞われている。

 江戸時代中期の儒学者荻生素来の書いた随筆『南留別志』(なるべし)の中に、「日の神の天磐戸にこもりたまひしといふは日食の事なり。諸神の神楽を奏せしといふは日食を救ふわざなるべし。」という文章がある。作家の井沢元彦も『逆説の日本史』の中でこの説を唱えている。また東京大学元教授・理学博士斎藤國治氏、19世紀のチェコの天文学者Theodor von Oppolzerが発表した『食宝典』を元に紀元後7世紀位までの日食について計算している。博士は紀元から推古天皇の代までの間に起きた日食・金環食で、本州・四国・九州にかかる皆既日食は25回あったとする。この中に卑弥呼が死んだとされる248年9月5日の日蝕があったとする。そして天照大御神=卑弥呼の仮設を前提に、博士はこの日食が記紀の「天の岩戸」神話の元になったのではないかと見ているようである。

  (写真;左から皆既日食のコロナ、ダイヤモンド・リング、紅焔(プロミネンス )





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橋ものがたり

 ア へんじん橋 ア鞍尾根橋 ア二枚橋

 橋は、人類が初めて共同で作った道具ではないでしょうか。1万年以上昔、地質学上の更新世の頃の人類は一箇所に定住せず、食糧を求めて各地を流れ歩きました。木の実を食べ尽くし獣や魚類が少なくなると他の新しい土地に移らなくてはなりません。そのとき障碍となるのが川です。彼らは力を合わせて木を倒して橋を造り、新天地を目指しました。
 毎日、橋の名前すら無関心に通り過ぎている橋。もう一度、あなたの身近に在る橋を見直してみませんか。意外な物語が潜んでいるkもしれませんよ。私もやってみます。

 私の住む国分寺・小金井地域のも沢山の橋がありますが、その多くは野川に架かるものです。このブログにも度々登場する野川は、国分寺市東恋ヶ窪の日立製作所中央研究所内に源を発し南へ流れる川です。途中で国分寺崖線からの湧水を集めながら小金井市、三鷹市、調布市などを経て世田谷区玉川で多摩川に合流します。全長21,5㌖の野川には、源流から多摩川への合流点までに98の橋が架かっています。このうち国分寺市内には、返仁橋から長谷戸橋まで合計12の橋があり、小金井市内には鞍尾根橋から野川公園内の櫟橋まで28の橋があります。そのうちの幾つかについて物語を探してみましょう。

 最初の橋は返仁橋ですが、普段は一般の人は渡ることができなません。この橋は日立製作所中央研究所敷地内の正門近くに在り、春秋2回の開放日以外一般の人は立ち入れないのです。返仁橋には変人橋という別名があります。日立には数多くの博士号の学位を持った技術者が居り、現在は2000名を超えています。博士が30名に達したとき、創業メンバーの1人、馬場粂夫が「変人会」を創設しました。この言葉には、研究者は変人と言われるほど研究一途であれという気持ちが籠められていました。この会は後に仁に返れという意味の「日立返仁会」と改名されて、現在も続いています。橋の名前はこのことから名付けられたもので、一歩研究所に踏み込んだら変人たれ。しかし橋を渡り世間に戻る時には、 人を慈しむ心、即ち仁に返れという訳です。

 野川が小金井市に入って最初の橋が鞍尾根橋です。東経大脇の急峻な暗骨坂を下り切った所に架けられた橋です。お気付きでしょうか。坂の名前がクラボネ坂で橋の名前はクラオネ橋。よく似ています。この近くにはムジナ坂、白伝坊の坂、念仏坂など陰気臭い名前の坂が多いので、郷土史料をひも解いて謂われを調べてみました。ムジナ坂は古狸の妖怪が出そうな淋しい坂、白伝坊の坂はむかし坂の途中に墓が在って白伝という風来坊主が住み着いていた。念仏坂も無縁仏の墓が在ったので通る人々が念仏を唱えたなどの謂れが判りましたが暗骨坂に関しては史料が無いのです。そこで私は勝手に考えました。暗骨という字づらから暗い木陰に散らばる風葬された白い人骨を思い浮かべ、京都の仇野(あだしの)のように無縁仏の風景を想像したのです。しかしブログで公開するには自信が無いので国文学を専攻する友人にメールで問い合わせたところ、意外な返事がありました。『和名類聚鈔』にクラボネの語が在ると言うのです。表記は鞍橋または鞍瓦。鞍皆具(くらかいぐ)の中心を成す部分で、鞍の古語だというのです。友人が言うには、馬の鞍のように山を切り通した坂ではないかということでした。そう解ってみると、鞍尾根橋という橋の名前にも納得がいきますね。

 武蔵野公園と野川公園の間に架かる二枚橋には、悲しい伝説が残っています。この橋は昔は1本の丸木橋でした。橋の府中側の染谷村の庄屋の息子が、小金井村の貧しい山守の娘と恋仲になりました。二人は夜毎この橋のたもとで逢瀬を重ねていましたが、これを知った庄屋は身分違いの二人の間を割こうとしました。若い男女は世をはかなんで、激流に身を投げました。やがて娘の怨念が大蛇となって現れて橋の下に棲みつき、もう一本の橋に化けては渡る人を川に引き込みました。橋が二本に見えたところから、村人は二枚橋と呼ぶようになったということです。
 
      (写真:左から返仁橋、鞍尾根橋、二枚橋)








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秋櫻子忌

               秋桜子

   紫陽花や水辺の夕餉早きかな            

   瀧落ちて群青世界とどろけり

   わがいのち菊にむかひてしずかなる

   天国の夕焼を見ずや地は枯れても

   消ゆる灯の命を惜しみ牡蛎を食ふ 

 きょう7月17日は俳人・水原秋櫻子の忌日。上掲の句に因んで紫陽花忌、群青忌ともいう。私事になるが、言葉の日常性を抑えその詩的連想性を重視する作風もさることながら、その生きざまにおいて私の最も好きな俳人の一人である。

 秋櫻子は早くから俳句と短歌に親しみ、東大医学部在学中に「ホトトギス」に入会して高浜虚子に師事する。その短歌的な詩的世界の俳句で注目を浴び、阿波野青畝、山口誓子、高野素十とともに 「ホトトギス」 の4Sと謳われるようになる。しかし客観写生、花鳥風詠から一歩も出ない虚子の俳句に飽き足らず、「ホトトギス」を離脱する。当時の虚子は俳壇の天皇と言われた存在で、それに叛旗を掲げることは大変なことであった。4Sの一人高野素十は東大医学部の後輩で秋櫻子の紹介で「ホトトギス」に入ったのだが、虚子を代弁して口を極めて秋櫻子を攻撃した。昔も今も、どこの世界にもこうした権力べったりの男は居るものである。このため一時は俳壇で孤立することになるが、やがて「ホトトギス」の沈滞したムードを嫌った人たちが彼の創刊した「馬酔木」に集うようになる。先ず五十崎古郷と門弟の石田波郷、さらに加藤楸邨、山口誓子、中村草田男なども加わり、後に女流俳句の新境地を開いた橋本多佳子も参加する。このように新時代の俳句への意欲に燃えた若い俳人たちが次々に参集して、「馬酔木」は「ホトトギス」に対抗する一大勢力となる。
 
   雲の無き七月の空 群青忌(杜)






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巴里祭

                ア

今日七月十四日は巴里祭。と言っても、これが何の日か知らない人が多いのではあるまいか。草田男に「降る雪や 明治は遠くなりにけり」という句があるが、「巴里祭 昭和は遠くなりにけり」というのが私の今日の感慨である。
 この日はフランスの革命記念日だが、直接の契機は1933年に日本で公開されたフランス映画の題名に因んで季語となったもの。ルネ・クレール監督のこの映画は原題が「QUATORZE JUILLET(七月十四日)」だったが、日本公開の際に「巴里祭」と翻訳された。粗筋は…

…革命記念日前日の7月13日。パリの下町は祭りの気分に包まれていた。タクシー運転手のジャン(ジョルジュ・リゴー)と、向かいの建物に住む花売り娘アンナ(アナベラ)は互いになんとなく惹かれ合っている。その日の夜、俄雨をきっかけに心を通い合わせた二人は翌日の夜に踊る約束をして、それぞれの部屋に戻る。ところが7月14日、思いがけない運命のいたずらが二人を引き裂く。その後離れ離れになった二人は或る日、ついに劇的な再会を果たす。…要するにパリの下町を舞台にした人情喜劇だが、これが爆発的な人気を集めた。萩原朔太郎が「「ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し」と詠ったのが1913年。それから20年経っていたが日本人にとってフランスは依然として遠く、そして憧れの地であった。この映画がパリへの憧れに油を注ぐ結果となったのだろう。季語「巴里祭」を遣ったを名句も次々に生まれた。、

   サンダルの皮紐きつき巴里祭
   
   鉛のごとき東京の屋根巴里祭
   
   巴里祭の厠に残る女の香
    
   汝が胸の谷間の汗や巴里祭
   
   濡れて来し少女が匂ふ巴里祭
 
 さて、「濡れて来し少女」アンナを演じたのが、新人女優のアナベラ。奇しくも7月14日生まれの彼女は日本では本国以上の人気で、ブロマイドが一日で売り切れたという伝説があるほど。1993年に朝日新聞が83歳の彼女の取材に成功し、パリ郊外で犬1匹とひっそり暮らしている彼女に会えたそうです。以下は、そのときの彼女の言葉。

「最近は春が来るのが待ち遠しいの。あんなに堅かったリンゴの蕾が、奇跡のように、ふんわり花開くでしょ。あゝ今年も生きていられたなぁって神様に感謝するの。愛した人や親しかった人はみな世を去りました。私は夏が終わってもぽつんと咲き続けている最後の一輪のバラよ…」

 その最後の一輪のバラも朝日新聞の取材の3年後、今から13年前に散っていった。




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茉莉花

              マツリカ2

   茉莉花の安らけく咲く闇の中(杜)
 
 マンションの裏庭、刈り込んだ芝生の上を甘い香りが流れていた。香りの出処を辿っていくと、迫る夕闇の中に白い花が浮かんでいた。花の名前は茉莉花、マリツカと読む。はじめ、そう読むことを知らなかった。
 詩友のひとりに中尾茉莉子さんがいる。或る日、お名前の謂れを尋ねたとき、この花のことを教えて下さった。マツリカの語源はサンスクリット(梵語)のマリカー (mallikā)で、季語として「素馨」(そけい)という名前も遣われる。夜に開花し、翌朝萎む。 白く香り豊かな花で、夜に咲くというのが心に残っていた。一昨年、鉢植えのものを求めたが、成長が速いうえに半蔓性だから何時までもヴェランダには置いておけず裏庭に移した。もう、お判りだろうか。この花の英語名はジャスミン。乾燥した花で作るジャスミン・ティーは、日本人にも馴染み深い。
 
 恩師・増田文雄の著作集七に『人間的愛について―マツリカーの花にちなむ経』がある。(注記及び口語訳:村瀬)

(古代インドの国)コーサラの王パセーナデイの王妃は毎日マツリカーの華鬘(けまん=仏前に供える花束)を作っていたので、いつの間にか、この花の名で呼ばれるようになっていた。
 或る日、王は妃のマツリカーに尋ねた。「あなたには、自分自身よりももっと愛しいものがあるかい?」王妃は答えた。「私には自分よりもっと愛しいものなどありませんわ。王さまはどうですか?」
 二人はお釈迦様を訪ねて、教え下さいとお願いした。お釈迦様は答えた。「人は想像することで、どんな所にも行くことが出来る。だが、どこへ行っても自分より愛しいものなど見つけることは出来ないんだよ。それと同じように、ほかの人にとっても自分はこの上なく愛しいものなんじゃ。だから、自分が愛しいと知る者は決して他人を傷つけてはいけないんだ。」

   夜にしか
   咲けない花
   聖なる魔女
   きみの名は
   茉莉花





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農園破産?

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 好天に恵まれたので、ヴェランダ農園で馬鈴薯の収穫を行う。農園までの距離は徒歩7歩半、大して時間もかからないので先に都会議員の投票にて行く。投票を終わって出てくると、NHKが出口調査をやっていた。が、みんな逃げ回ってなかなか質問に答えようとしない。気の毒に思って、人指指を自分に向けながら近づいた。つまり、俺が答えてやるよという意味だ。ところが調査員曰く「これはアットランダム調査ですから、自薦の方はどうも…」。ちょっとムッとしたが、公正を期するには当然だろう。これは、こっちが軽率だった。

 帰宅して収穫にかかる。今年は初めてビニールの空袋を使うという画期的な馬鈴薯の栽培法を開発したので、その成果が楽しみだ。しかし、結果は惨憺たるものだった。総収穫量約300㌘。しかも写真でご覧のように、その殆どが小粒。時価に換算しても80円ほど。。
 早速、株主総会に備えて損益計算表を作成する。先ず原価を三要素に分けて計算する。材料費のうち種芋は三方原芋を使ったが、これは到来物だからタダ。肥料代は総計3800円、労務費は緊急時につき請求しないこととしたが、諸経費はかなりの額にのぼる。開発研究費と宣伝費は請求しないとしても、農機具代約5000円、肥料等搬送タクシー代約5000円、水利(水道)代約1200円、以上原価総計15000円。従って差引14920円の赤字。
 
 幸い株主は一人だから何とか総会は乗り切れるにしても、この大赤字は放置できない。直ちに役員会を招集して、取り敢えず本日の収穫祭の中止と馬鈴薯部門の閉鎖を決める。





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by 杜の小径  at 16:32 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

小さな仲間たち

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 吾が小さなヴェランダ農園の小さな仲間たちは、順調に育っている。“親は居なくても子は育つ”というが、留守がちな主人にもかわらず子どもたちは健気である。空は陰鬱な雲に覆われているが、吾がプチ・農園には明るい生気が漲っている。耳を澄ますと喜びに溢れた小さな仲間たちの声が聞こえる。しばらく、それをお聞き願いたい。

○トマトちゃん「ジョウダンじゃないわ、カッコいいことばかり言っちゃってサ。きのうなんか大変だったのよ。留守の間に突風が吹いて、アタシ棚から落っこちちゃったのよ。アイツ帰ってきて何と言ったと思う? <寝る子は育つと言うから早く大きくなれよ>だって。サイテイ!」

○トウガラシくん「ボクなんかアブラムシがついて困ってるのに、何もしてくれないんだよ。アリさんが助けてくれたけど、とても間に合わないんだ。ふらふら出歩かないで少しは面倒みてくれよ。オッサン!」

○オクラの赤ちゃん「春に買ったタネを蒔き忘れていたので、今ごろやっと芽がでたのよ。ボケたのか水撒きもしょっちゅう忘れるので、アタイはいつも喉がカラカラよ。酒飲むのッヤメロ。水ヨコセ~!」

   (写真:左から、うるさいトマトちゃん、トウガラシくん、オクラの赤ちゃん)







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by 杜の小径  at 23:50 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

万葉の里の古代蓮

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    見たきもの見えて夜明けの古代蓮
  
    古代蓮開くや紅のほの暗し

 梅雨の晴れ間を縫って、埼玉県行田市に在る「古代蓮の里」へ行く。蓮の花は払暁から9時までが見頃。国分寺発5時8分の始発に乗り、約1時間半で行田着。タクシーで現地へ向かう。
さすがに、未だ観蓮客は少ない。早朝の冷気の中で犇めくように首を伸ばす10万株の蓮。その息遣いが聞こえるような静寂が心地よい。

 行田の蓮には物語がある。37年前、この地に突然小さな池ができた。焼却場を作るために掘った穴に水が溜まったのだ。ドラマはここから始まる。2年後の春、この池に沢山の丸い葉が浮いているのが発見された。その数はしだいに増え続け、7月になるとピンクの花が咲き始め、その数は51個になった。この段階で、工事関係者は20年前に大きな話題となった大賀蓮を思い出した。昭和26年、千葉検見川の東大グランド地下より発見された3粒の蓮の実が、蓮の権威者大賀一郎博士に依り約2000年前のものと鑑定され、翌年7月見事に開花したニュースだ。
 関係者は市教育委員会に届け出て、埼玉大学の江森貫一元教授の鑑定を仰いだ。博士は出土した縄文土器とか大賀蓮との比較などから、この花が古代蓮と断定した。地中深く眠っていた蓮の実が工事によって掘り起こされ、長いながい眠りから目覚めたものと判った。
 
 3000年の昔、この地が蓮の茂るような湿地帯であったことを知らせる証拠がある。それは、近くの浅間塚の上に鎮座する埼玉県の語源となった前玉(さきたま)神社にあった。高さ約2メートルの一対の石塔籠竿に2首の万葉の歌が刻まれている。これは300年程前の江戸時代の元禄10年(1697年)10月15日に地元埼玉村(現在の行田市埼玉)の氏子たちが奉納したもので、万葉歌碑としては、全国的にみても古いもの。

埼玉の小埼の沼に鴨ぞ翼きる己が尾にふりける霜を掃ふとにあらし(高橋虫麻呂)

埼玉の津に居る船の風をいたみ綱は絶ゆとも言な絶えそね」詠み人知らず)
 
 前の歌は「早朝の小埼沼は、見渡す限り白い霜に覆われ、羽を動かす鴨がまるで霜を切り払っているように見える」、後の歌は「埼玉(さきたま)の津に帆を降ろしている船の綱が激しい風のために切れても、大切なあの人からの頼りが絶えないように」という意味。二つの歌に共通するのは、この辺りが小埼沼という津(船着場)であったことを示している。

 古代蓮の里は全国的に有名になり、新しく蒐集された品種も50種を超えるという。その中にあって古代蓮は花も小さく地味な存在である。しかし、小さな花に秘められた3000年の命の尊さは誰もが知っている。

        (写真:古代蓮、中央は灯篭の側面に刻まれた万葉の歌)









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by 杜の小径  at 03:15 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

ほおずき

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   墓洗ふし ぶきに濡れて青鬼灯(杜)

 亡妻の菩提寺での七夕施餓鬼に出席する。導師は高尾山からの老僧。真言法響会の若い僧侶による声明(しょうみょう)を聴く。墓の掃除をし、新しい卒塔婆に替える。帰りに、墓の管理をお願いしている石材店から「ほおずき」の鉢植えを戴く。そう言えば浅草寺の鬼灯市も近い。

   師を葬り 鬼灯市を濡れ歩く(千鶴子)

 作者梶山千鶴子は京都西陣で生まれ育った。彼女の師と言えば丸山海道 鈴鹿野風呂、多田裕計で、いずれも故人。句中の師は誰を指すのだろうか。

 仲見世でブロマイド屋をやっていた従兄の話では、昔はホオズキではなくて雷除けの赤トウモロコシを売っていたそうだ。さて、鬼灯は何除けなんだろう。 
ほおづき市では風鈴も売られている。

   風鈴の鳴らねば淋しなれば憂し(水竹居)

 赤星水竹居(本名・陸治)は三菱地所社長を務め、俳句の他に尺八の名手で『虚無僧』という句集もある。没後、生家は八代市に寄贈され赤星公園となっている。





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by 杜の小径  at 01:26 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

「たなばた」の退屈話

    TABABATANO.jpg   さんタナバT

「たなばた、なくなちゃったなぁ」―私の言葉に、向かいに座った友人が怪訝な顔をした。都心のピザ・ハウス。友人の視線の先では、豪華な七夕飾りが揺れている。あそこにあるじゃないのと言わんばかりの表情である。私が言う「たなばた」は、豪華に飾られたビニル製のものではない。<ささの葉 サラサラ のきばに ゆれる お星さま キラキラ 金銀砂子(すなご)>―あの童謡に歌われた「たなばた」である。が、そうした想いを口に出すことはしなかった。私よりずっと若くて都会育ちの相手には、話しても解らない感慨だと思ったから…。何となくつまらなくなって、予定より早く帰宅した。「たなばた」を敢て七夕と書かなかったのは、それが七日の夕に由る当て字だからである。漢字で表記するとすれば「棚機」が正しい。機は「はた」(織機)のことで、「たなばた」とは機織機のことと思われるが、棚の意味がよく解らなかった。また「棚機つ女」(たなばたつめ―はたを織る女)を指す場合もある。

 一昨年奈良に遊んだとき、京都在住の歌人Aさんが或る場所へ案内して下さった。葛城市太田に「棚機(たなばた)の森」という丘があり、そこに織物の神様ある天棚機姫神(あめのたなばたつひめのかみ)を祀った棚機神社があった。神社といっても小さな石の祠。傍らの杉の巨木に玩具のような鳥居が立て掛けてあった。天棚機姫神は天照大神の神衣を織った女神で、同神を祀る行事は京都北野天満宮をはじめ各地に見られる。この葛城も古代から織物の産地であったのだろうと想像された。

 棚機神社の近くに海積(わたつみ)神社がり、由緒を記した板書が建てられていた。それに拠ると、昔、棚機の森に狒々(ひひ)が住んでおり、毎年人身御供として娘を一人ず求めた。これをしないと村に様々な厄災が及ぶという。或る年、知恵者が小麦を酢で練って塩につけ、人肉の味がする「ボソロ」を作って狒々を胡麻化したという。
 実は室町時代に成立した、民話や神話を収録した『御伽草子』に「たなばた」の起源をおもわせる説話が載っている。
或る長者の家に大蛇がやって来て、娘を嫁によこせ、拒めば一家を食ってしまうと脅した。長者には娘が三人いたが、末娘だけが、「皆のために私が嫁に行きかすます」と申し出た。大蛇は川の傍に建てられた小屋で待つように言い残して一旦は去る。
 娘が小屋で待っていると大蛇がやってきて、「自分の頭を切り落とせ」と言う。娘が言われた通り大蛇の頭を切ると、蛇は忽ち凛々しい青年の姿に変わり、「私は天稚彦命(あめわかひこのみこと)である」と名乗った。天稚彦命は天照大神から日本を治めるように遣わされた神だった。娘と天稚彦は結ばれ、楽しい日々を送る。或る日、天稚彦は「私は用事があって天に帰らねばならない。もし37日待っても帰らないときは天に尋ねて来るように」と告げ、袖を千切って娘に渡した。約束の37日目が過ぎても天稚彦が戻って来ないので、娘は天に旅立つ。娘は夕づつ(金星)、ほうき星(彗星)、昴(すばる)などに天稚彦の居場所を教わり、夫の家に辿り着く。しかし天稚彦の父親は鬼で、人間の娘を嫁として認めない。嫁になりたければムカデの蔵で一晩過ごすようにと難問を突きつけだ。娘は夫から貰った袖を「天稚彦の袖」と言いながら振ると、ムカデは逃げ去る。鬼は已む無く娘を嫁として認めるが、「月に一度だけなら会うのを許す」と条件を付けた。娘はそれを「年に一度」と聞き間違えてしまう。そのとき鬼が、「じゃあ年に一度だぞ」と、瓜で地面を引っ搔くと、大水が沸き出で天の川となった。それ以来娘と天稚彦は年に一度、7月7日の晩だけ会うことができるようになった。

 これに似た話は、朝鮮の「青大将婿」、ギリシャ神話の「アムールとプシケー」、グリム童話の「鉄のストーブ」など各国に多い。「たなばた」は中国の行事と日本の伝承が融合したものであるが、民俗学的には更に考究が必要なテーマであろう。長くなるので今回はこの辺で筆を擱くが、最後に棚機の「棚」についてだけ一言言及しておきたい。
 折口信夫によると「神又は神に近い生活をする者を、直人(なおびと―一般人)から隔離するのが棚の原義」と謂う。一方、日本には古来、棚機女という巫女が水辺で機を織りながら神が来るのを待つという禊ぎ行事があった。「たなばた」は、この「たなばたつめ」からきているとする。柳田国男は、水辺ではなく泉の底で機を織る乙女の物語が全国に分布していると謂う。いずれにしても神聖な機織りをする巫女は俗界から隔離された棚座で作業したのではあるまいか。確信ではないが、棚機の「棚」について私なりの合点を得たような気持である。

       (写真は葛城市の「棚機の森」と石の祠の棚機神社)






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楸邨忌

               加藤楸邨の

 7月3日は、俳人・加藤楸邨の忌日。伝統的な写生句を排し、専ら人間の内面を鋭く抉る作品を発表した。このため水原秋櫻子、中村草田男、石田波卿らと共に人間探求派と呼ばれた。戦前から主宰した『寒雷』からは、金子兜太、森澄雄、古沢太穂、田川飛旅子などの俊英を輩出したので、俳壇の「楸邨山脈」と呼ばれた。

  【楸邨の代表作品】
  
  鰯雲 人に告ぐべき ことならず
  寒雷や びりりびりリと 真夜の玻璃 
  長き長き春暁の貨車 なつかしき
  隠岐や いま木の芽を かこむ怒涛かな
  雉子の眸の かうかうとして売られけり 
  鮟鱇の骨まで凍てて ぶちきらる
  木の葉ふりやまず いそぐな いそぐなよ
  落葉松は いつめざめても 雪降りをり





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by 杜の小径  at 22:27 |  日記 |  comment (2)  |   |  page top ↑

半夏生(ハンゲショウ)

              ハンゲショウ
           
「さあ、今日はハンゲショウだよ。タコを食べる日だよ」―魚屋の前を通ったら山積みしたタコの横で親父が叫んでいた。タコ山の横には札が立っていて、「半夏生に蛸を食べよう」と書いてある。七十二候の一つに半夏生があることは知っていたが、タコを食べる習慣があることは寡聞にして知らなかった。顔見知りの親父にそっと訳を聞いてみた。「いまごろは作物が育つ季節だろ。タコの足みたいに作物が根を張るように食うんだよ」と教えてくれた。初耳だ。おそらく関西辺りから伝わったものだろう。縁起は担がないほうだが教えてもらった手前、小ぶりのものを一杯買った。沢山という意味ではない。助数詞(数え方)の杯だから、一つである。

 帰って辞書で調べたら、夏至から11日目を半夏生というらしい。同じ名前の植物がある。ドクダミの仲間で、ちょうど今ごろ、写真のような花を付ける。この花については團伊玖磨がエッセイで詳しく触れているので、それを抄記しておく。私の無味乾燥な解説よりは面白いと思う。
「半夏生の語源は、どの暦の解説書にも辞典にも、丁度この頃半夏(ハンゲ:カラスビシャクという植物のこと)が生えるからだと記してあって一寸不思議な気がする。暦の上で半夏という候があって、その頃に生える植物の名が半夏生になったのなら判るが、半夏の方が植物の名として先にあって、その植物が生える頃だから半夏生という候が暦に載るというのだから、順序が逆な気がする……(中略)……それにしても、半夏生の名はどうも半化粧の方が感じが出る。その先端の二、三枚の葉を白化させているのを見ていると、花魁か芸者か知らないが、玄人筋の女が鏡台の前で厚化粧に取り掛かっている最中に、用を思い立ってふと立ち上がったような姿に見えてならない。もう少し論理的な見方は、この葉の白化は、注意深く見ると表側だけで、葉の裏側は淡い緑色をしているので、表側だけ化粧して、あとの半分、裏側は化粧していないと見て半化粧の名が付いたのではと考えることも出来る。古和名の片白草はそうした観察から付いた名であろう。(後略)」

 これで終っても味気無いので、少し余談を綴ってみよう。無駄話に興味の無い方は、ここでご退席いただきたい。
 私は團伊玖磨さんとは面識は無いが、焼酎をご馳走になったことはある。或る日、檀一雄先生から電話があって、美味しい焼酎があるから飲みに来いと言う。お宅に駆け付けると団伊玖磨さんから土産にもらったという芋焼酎の「鬼ごろし」が用意してあった。詩人の草野心平さんと八丈島にある團さんの別荘から帰ったばかりだという。団さんの別荘は八丈島の樫立という場所に在ったが、隣に空地があるのでオレに、そこに別荘を建てろと頻りに勧めるんだよと言って、檀さんがクスリと笑った。一呼吸置いてから「二人の別荘の真ん中に2段の石段を作るんだって…檀と団で段々、どうだ面白いだろうって団が言うんだ。くだらない」。そう言って、今度は声を挙げて笑った。
 こんな仲良しのお二人だったが識り合ったのは、かなり後年になってからである。或る日、檀さんのお宅にハワイの米人女性から封書が届いた。宛先は「Mr DAN TOKYUO JAPAN」と書いてあるだけ。「日本 東京 檀さま」で手紙が届くとはオレも有名になったものだと喜んだが、差出人に心当たりが無い。とにかく開封して読んでみると、これが超熱烈なラブレター。それも公開を憚るような内容だったらしい。そのとき、檀さんは直ぐに、あゝ、團伊玖磨と間違えたなと気づいたという。実は間違えられたのは、これが2回目。最初は檀さんが東大に合格して上京した折、紹介も無く学校近くの下宿屋に飛び込んだが風采が悪いので主人が返事を躊躇っている。そこで檀さんが「わいは九州のダンです」と言うと主人の態度がガラリと変わり、即座に入居OK。「九州のダン」と言われて三井財閥のドン、團 琢磨の息子と間違えた、いや間違えさせられたらしい。檀さんによると<そのときの恩があるので>封書を団伊玖磨宛に転送した。封書を受取ったの伊玖磨さんの狼狽ぶりについては敢て省略するが、それを機に二人は大親友となった。

「鬼ごろし」は無いが信州・宮坂の「夢殿」が到来したばかり、これで亡き師を偲ぶことにしよう。初めて半夏生の蛸料理に挑戦してみる。食べてくれる人が居ないのは淋しいが、取り敢えず三品を作る。このレシピの基本も檀流クッキングである。関心のある方はご利用いただきたい。
【蛸の唐揚げスパイシー仕立】①ボールに塩、味の素、醤油、胡椒、五香粉、卸しニンニク、胡麻油、卵、片栗粉、小麦粉各少々を入れかき回す。②茹ででぶつ切りした蛸を①に入れて下味を付ける。③②を最初は中温の油で揚げ、最後は高温にしてカリッと仕上げる。
油は良く切っておく。④鍋に少量の油を入れ、赤唐辛子、白葱、生姜、ニンニクを軽く炒める。香りが出たら④の蛸を入れ、山椒、塩を振って、最後に老酒を振り入れて完成。
【蛸の緑酢和え】①水5、酢4、醤油1の割合で混ぜ、鰹ダシ、味醂少量加えて沸騰させてから冷ます。これに大根と胡瓜の卸しを加えて緑酢を作る。②若芽を短時間茹で、冷ます。
③皿に生蛸の薄切りと若芽を盛り①を掛ける。
【蛸の蒸し煮】①蛸の足を数分間、大根で軽く叩く。②鍋に敷いた昆布に蛸を乗せ、ダシに少量の酒、白醤油を加え15分蒸し煮する。③塩を煎り、荒熱を取ってから粉山椒を混ぜる。蒸し上がった蛸に③を付けて食べる。






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by 杜の小径  at 21:53 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

触るな危険! 宮武外骨

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 NHKの「歴史秘話ヒストリア―触るな危険! 宮武外骨」を見る。改めて彼の筋金入りの反骨精神に触れ、暗欝な梅雨を吹き飛ばすような爽快感を覚えた。
 外骨は香川県出身の反権力のジャーナリスト。若いころジャーナリストを志した外骨は大日本帝国憲法発布を風刺したイラストで罪に問われ、3年間も投獄された。さまざまな言論を封じる明治政府と官僚たちの横暴に憤った外骨は出獄後、大阪で「滑稽新聞」を創刊し、時代の寵児(ちょうじ)となった。大正デモクラシーの時代、外骨は選挙に出馬するなど、雑誌編集の枠を超えて活動。だが、権力が自由な言論を封じる風潮は次第に高まり、政府を批判する者は命の危険にさらされるようになっていった。昭和の時代に入り日本中が戦争に向けてまい進する中で外骨は、明治以来の新聞や雑誌を収集し東京帝大に納め続けた。晩年の外骨は言論弾圧の史料を後世に残し、新しい世代に希望を託したのだが…。

 翻って身の周りを見るとき、外骨の如き反骨、気骨の士の何と少なきことか。権力・体制べったりの骸骨人間は未だしも、旗幟不鮮明な軟骨人間は鼻持ちならない。だが、いちばん許せないのは塗骨野郎だ。如何にも反体制風を装いながら実は権力の密偵を努めたり、裏で反権力者の悪口を言い触らしている。そんな奴に限って何か事があるときだけ、ふらりと現れる。

(写真:左は『頓智協会雑誌』に掲載の大日本憲法発布式のパロディ、右はその実景)





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