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「二本の木」を観る

           あ jpgおざわそう

 NHKのドキュメンタリー『二本の木』を観る。去る9日に放映されたものの再放送です。再放送が平成19年12月に胃癌で亡くなった元NHKディレクター小川爽さん(享年70)と、やはり癌に冒されていた千緒夫人(享年65)との闘病ぶりをお互いの日記を中心に構成したドキュメンタリー。私は7年前に妻を癌で亡くしているので、9日の放送は観ませんでした。今日4時から始まった詩人「まど みちお」のドキュメンタリーを観終わったら、「二本の木」の再放送が始まりました。なぜかチャンネルを切ることができず、観続けました。観終わっての正直な感想は、観て良かったが7割、観なければ良かったが3割です。その理由は後で述べます。

「二本の木」とは、ギリシア神話で、樫の木と菩提樹になった ピレモーンとバウキスのお話です。二人は昔とても仲の良い老夫婦でした。ある日、乞食の格好で人心を試しにきたゼウスを彼らは親切にもてなします。ゼウスは何でも願いを叶えてやると言います。二人は同じ瞬間に死を迎えたいと頼みます。そしてピレモ-ンがその人生を終える時、ピレモ-ンの身体から葉が生えてきます。気付くより早くバウキスも木となっていき、「さらば愛しい人よ」と最後の言葉を交わして、二人は寄り添い合う二本の木となったのでした。   
 亡くなるのに半年の時差はありましたが、小沢夫妻は将にこのお話通りに互いに励まし合いながら天国へ旅立ちました。小沢さんが妻の千緒さんと出会ったのは、入局間もない北海道北見放送局時代。結婚後は、友人も認めるおしどり夫婦でした。千緒さんの小細胞癌が発覚したのは、小沢さんの定年退職後のこと。献身的に介護を続けますが、言葉にできない切ない思いや戸惑い、苦悩を日記に綴るようになります。そんな或る日、自身の胃癌が発覚。今度は千緒さんを“戦友”として互いに励ましながらの闘病生活となります。
 千緒さんの病状はどんどん進行し、終末期の癌患者の為の聖路加病院の緩和ケアー病棟に入院します。爽さんの癌も次第に悪化するなかで献身的な看病が続きます。平成19年5月。千緒さんは最後まで拒んでいた24時間睡眠の点滴を承諾します。薄れゆく意識のなかで、千緒さんは爽さんに最後の抱擁を求めます。「明るい方へ行くんだよ」と耳許で叫ぶ夫の声を聞きながら、千緒さんは再び醒めることの無い眠りに就きます。
 
 その後、爽さんは自身が綴ってきた日記と千緒さんが記した闘病日記を、2人が懸命に生きた証しとして一冊の本に纏め、自費出版しました。本はごく親しい人たちに贈呈されましたが、小沢さんの死後、後輩たちの手でドキュメンタリー化が決まったのです。
 作品では、2人が綴った日記の世界が忠実に再現されていました。小沢さんの日記は片岡仁左衛門、千緒さんの日記は竹下景子が朗読して、闘病生活を回想していく構成になっていました。二人は、両頬を涙で濡らしながら朗読を続けていました。再現映像の中には、家族が撮影した写真やビデオ映像もふんだんに使われています。

 私の妻・紀三代の場合は腺様嚢胞癌で、唾液腺に発生した癌が動脈と神経腺を伝って脳に達するという病状でした。初めは歯痛を訴えて近所の歯科医の治療を受けましたが、普通の歯痛と違うということで、歯科医から大学病院での受診を薦められました。当時、甥の晃一君が慶応病院に内科医として勤めていたので私は慶応病院を薦めました。しかし妻は、歯痛ぐらいで大騒ぎするのは恥ずかしいと自宅から車で10分ほどの処にある防衛医大へ行くことにしました。ところが、半年近く経っても病名さえ決まらないのです。さすがに不審に思い主治医に訊ねると、信じられない答が返ってきました。防衛医大の設備が古くなって使えないので、民間のH病院でCT scanner を撮ってきてくれと言うのです。  仕方なくH病院で受診し十数枚フィルムを防衛医大へ届けました。更に信じられないことが起こりました。歯科、口腔科などではフィルムを見て、「異常無し」の所見。最後の脳神経科で「ちょっとおかしいですね。入院して検査手術しましょうか」と言われアました。この時点で私の病院への不信感は頂点に達し、ことの経緯を甥の晃一君に電話しました。彼の第一声は「信じられない!」でした。「何をしているんですか。明日直ぐにこちらに連れて来て下さい。CTのフィルムは患者のものですから。それを持ってきて下さいと、言われました。
 翌日、慶応病院へ。甥と大学で同期だった耳鼻咽喉科部長の小川教授が自ら診察して下さいました。即入院して、翌日に検査手術。別室に私だけが呼ばれました。「病理検査の結果は後になりますが、現時点での私の所見を申し上げます。80%の確率で腺様嚢胞癌だと思います。それも、かなり進行しています」―小川教授の言葉聞きながら、私は半年間無為に過ごした自分を責め続けた。二日後、病理検査の結果は小川教授の所見通りでした。「余命2年と思って下さい」という教授の言葉が重く響いた。
 私は妻の看病に専念することを決意しましたが、小さくても社員40数名を抱える出版社ですから社員の身の振り方を考えてやらなければならないし、進行中の仕事もあって直ぐに会社を畳むわけにはいきません。私は1日置きに妻の病室に泊まって、そこから会社へ出勤するという生活を続けました。
 入院して約1年後、私は仕事を全部整理して妻の許に戻りました。病状は徐々に進行し、小川教授の予告通り入院して2年で妻は逝った。その間のことは、とても書くことはできません。最後までモルヒネの使用を拒否した妻は、臨終の2日前まで痛みを堪えながら正常な意識を持ち続けたことだけを記しておきます。

「二本の木」を観終わったとき、抑えていたものが一挙に噴き出しました。それは、なぜ最初から慶応病院へ連れて行かなかったのだ、なぜ全てを抛り出して妻の傍で過ごしてやらなかったのかという悔恨と自責の想いです。私事に亘るこんなブログを公にするのも、妻への贖罪の気持ちからでしょう。私は死ぬまで、この悔恨と自責の想いを抱き続けてゆくことにします。
  
           (写真はTVから転写した小川夫妻です)

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by 杜の小径  at 22:48 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

草城忌に思うこと

あ日野 あ 草城 あ句碑

   夜の咳 もの書かざるは飢えに似て(杜詩)

 年賀状を取り出して、住所録の校合をする。思い掛けない人から戴いたり、当然来る筈の人から来なかったりで、こんなところにも人の心の在りようが窺われる。同期の弁護士Kからの賀状には数行の書き込みがあって、最後は「いつまでも肩肘張って生きるなよ」と結んであった。暮れに飲んだ時、「お前のブログは時どき抜身を突き付けるように感じるぞ。もっと枯れたらどうだ」とぬかした。そのとき手帳を破り、書いて渡したのが上掲の句である。Kは下宿も研究室も一緒で、親兄弟よりも私のことを知っている。言葉とは逆に彼の本心は(喧嘩早かった昔と比べると、ずいぶん大人しくなったなぁ)と思っているに違いない。もう争うことはしなくなった。昨年も二つのサークルと訣別したが、争うことはなかった。一人でも気に染まない人物が交れば、こっちが黙って去るだけである。ただ、ブログだけは別だ。好んで事を構えることはしないが、権力やに媚びたり衆愚に迎合はしない。

 さて、今日29日は草城忌である。と言っても、俳句をやっていない方には馴染みの薄い名前かもしれない。21日のブログで紹介した杉田久女と一緒に「ホトトギス」を除名された俳人と言えば思い出すだろうか。
日野草城は、三高時代にホトトギスに入選し、京大のとき巻頭を取るなど若くして頭角を現し、ホトトギスの4S(秋桜子、素十、誓子、草城)と呼ばれた昭和初期の新興俳句の旗手の一人であった。昭和4年にやっと同人となったが、数年を経て久女らと共に除名される。久女の除名理由は今もって謎とされるが、草城の場合は、「ミヤコホテル」事件が理由とみられている。昭和9年、日野草城は『俳句研究』に以下のような「ミヤコホテル」と題する連作10句を発表した。

   けふよりの妻と来て泊つる宵の春
   夜半の春なほ処女なる妻と居りぬ
   枕辺の春の灯は妻が消しぬ
   をみなとはかかるものかも春の闇
   薔薇にほふはじめての夜のしらみつつ
   妻の額に春の曙はやかりき
   麗らかな朝の焼麺麭(トースト) はづかしく
   湯あがりの素顔したしく春の昼
   永き日や相触れし手はふれしまま
   失ひしものを憶へり花曇

 そのエロチシズムもさることながら、これらは全て虚構の作であったから写生を金科玉条としていた俳壇に大きな衝撃を与えた。室生犀星は「俳句は老人の文学ではない」として草城を激賞したが、多くは批判的で久保田万太郎は「流行小唄程度の感傷」と評し、中野重治も「いい加減な男が、女を浅くたのしんで見ている様子が感ぜられて愉快ではない」と断じた。中でも中野重治も「いい加減な男が、女を浅くたのしんで見ている様子が感ぜられて愉快ではない」と断じている。中でも中村草田男は罵倒に近い言葉で非難した。直接的には、この騒動が除名の理由とみられているが、私は真因は別にあると思う。草城を激しく批判した草田男も、やがて「私は所謂昨日の伝統に眠れる者ではない」と言ってホトトギスを離れていき、秋櫻子らも虚子の許を離れていった。

 虚子は客観写生と謂うことを強調し、たとえば「遠山に日の当りたる枯野哉」といった有季定型、写生句を金科玉条とした。この場合、詠む素材が非常に制約され、初心者は入り易い。この点は某短詩結社が「誰の心にも名作がある」をキャッチフレーズにして、詩に無縁な人たちを取り込んでいった商法に似ている。尤も虚子は弟子の指導に熱心に取り組んだが、某結社の主宰は集まった大衆の指導は全くしなかった。その点は雲泥の違いだ。(閑話休題)

 草城は虚子が気がつかなかった部分、恐らく俳句では無理であろうと思っていた部分にずかずかと入り込んで、ものの見事に形象化してしまった。 それは俳句に物語性を詠み込むこと、それからエロスを詠み込むということである。「春の灯や女は持たぬのどぼとけ」、「白々と女沈める柚湯かな」という句などは、客観写生を墨守してきた虚子には異端として映ったに違いない。弟子たちがそうした人間主義の俳句に傾倒していくことに、虚子は嫉妬していたのかもしれない。この点も、某結社の主宰サマと似ている。(苦笑)

 虚子は戦略家だった。言葉を換えると商売上手だった。虚子は予てより俳句界の拡大のためには女性の参加が不可欠と考えており、大正になってから『ホトトギス』に「台所雑詠」という女性専用の投稿欄を設けた。当時は女性の歌人はたくさんいたが、俳句は男性の領域とされていて俳句を詠む女性はまだ少なかった。「台所雑詠」という欄の名称は、まず女性にとって易しい身近な題材から作句をしていくということで、多くの女性が俳句を投稿するようになったが、それらの中からまず頭角を顕してきたのが長谷川かな女、阿部みどり女、そして杉田久女などだった。

 戦時下に入ると、言論統制により無季俳句を容認する新興俳句への弾圧は厳しくなり、草城も句作を中止し、終戦まで見るべき作品は無い。
 空襲で焼け出された草城は知人を頼って各所を転々すること七度、最後に落ち着いたのが豊中市岡町だった。晩年の草城は肺結核を病み、生活は貧窮を極めた。そんな生活の中で「俳句は諸人旦暮の詩(もろびと あけくれの うた)である」を信念として珠玉の作品を生み出していった。清貧の病床にありながら、自らの命と引き換えるかのように温かく、慈しみをもった穏やかな俳句を生み続け、昭和31年の今日、54歳でその生涯を閉じた。
 
   寒の闇煩悩とろりとろりと燃ゆ   
   ちちろ虫女体の記憶よみがへる
   妻の蚊帳しづかに垂れて次の間に
   裸婦の図を見ておりいのちおとろへし
   病体を拭いてもらひぬ柚子湯もて
   湯あがりの妻の若さを如何にせむ
   ── 句集『人生の午後』(昭和28年)より

 右端の写真は、終焉の地、豊中市の服部緑地公園に建てられている草城の句碑である。色の異なる切石3枚を屏風のように組み立てたモダンな句碑には、春夏秋冬の各一句と無季の句、それに俳句は東洋の眞珠であるの箴言が刻まれている。

   春暁やひとこそ知らね木々の雨
   松風に誘はれて鳴く蝉ひとつ
   秋の道日かげに入りて日に出でて
   荒草の今は枯れつつ安らかに
   見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く
 
     (写真:左端は戦前の草城、中央は病床の姿、右端は豊中の句碑)

【追記】2月早々から、1週間ほど旅に出ます。一応PCは持参しますが、書き込みはできないと思います。今回は入院ではありません。他事ながら、ご放念下さい。
 慶応病院のドック入りが、やっと決まりました。4月27日から約1週間入院して、注腸検査、アイソトープ検査、MRIなどを受診します。特段に悪いところがあるわけではありませんが、一つ二つ遣り残したことがあるので、あと10年くらいは今の健康状態を維持したいと思います。(むりかなぁ)このため5月2日から予定していた上海万博は、取り敢えずキャンセルしました。







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麹町倶楽部例会

 あ むぎふみ あ つばき あ はぐるま


 今年初の麹町倶楽部例会(131回)が26日麹町区民会館で行われ、厳しい寒さにもめげず24名が参加した(他に作品参加6名)。成績は以下の通り(敬称略)。

【自由詠】 
 いつの間に
  東京を捨てたのか
  麦踏む日々を
  伝える
  友の賀状(一席:村瀬杜詩夫)

  紅のまま
  椿は
  今よ と
  風に介錯を
  たのむのかも知れない(二席:關口有美)

  ひとつの歯車が
  重い音をたてて
  回りだす
  隣、隣と回りだす
  何か起こるのだろうか(三席:渡邊加代子)

【題 詠/酒】
  寒いからと飲む
  暑くっても飲む
  頑張ったからと飲む
  頑張らなくても飲む
  とりあえず飲む(一席:田中きみ)

  どんなに旨い
  酒よりも
  肴よりも
  誰と
  飲むかだ(二席:豊岡孝資)

  ぽたちい ぽたら
  濾紙をつたい
  澄んだ酒が
  落ちて来る
  雪国の蔵(三席:ま のすけ)

           (写真:左から自由詠入賞作品のイメージ画像)






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孤高の俳人―杉田久女

       すぎた2       すぎた1
     

    足袋つぐやノラともならず教師妻

 句中のノラは、言うまでもなくイブセンの戯曲『人形の家』のヒロインである。富裕な銀行家・弁護士の妻として平和な日々を送っていたが、或る事件がきっかけとなって自分が人形のようにしか愛されていないことを知る。対等な人間として絶望や悩みを共有し、喜びを分かち合える存在、「一人の人間」として自分が見られていないことに絶望したノラは家を出る。このノラを詠み込んだ句の大意は、ノラのように一人の人間として生きる決断もできぬまま、自分は平凡な教師の妻として今日も足袋の繕いをしている」というもの。

 この句は、今から75年ほど前に作られた。作者は杉田久女。昭和のはじめに、こうした句が詠まれたのは驚きである。今日1月21日は、彼女の祥月命日に当たる。その久女忌に因んで、彼女の孤高の生涯を紹介しておきたい。歌壇・俳壇などという小さな世界で、主宰に媚びを売り巻頭の地位に汲々としているような人物が多い現代に、たとえ微かでも警鐘を鳴らしたいという想いからである。

 杉田久女(1890―1946)は、鹿児島県生まれで、本名は赤堀久子。東京女高師(現・御茶ノ水大学)付属高女を卒業後、小倉中学美術教師 杉田宇内に嫁す。はじめは小説家を志すが兄の手ほどきで俳句を始める。
 1917年に初めて虚子が主宰する『ホトトギス』に投句。15年後に中村汀女らと共に同人となるが、2年後に理由も無く『ホトトギス』を除名される。女性だけの俳誌『花衣』を創刊したのが虚子の逆鱗に触れたとの説もあるが、その真相は謎のままである。このとき虚子は『ホトトギス』誌上に「従来の同人のうち、日野草城、吉岡禅寺洞、杉田久女を削除し…云々」と公告している。いずれも新進気鋭の俳人であるところから、虚子の門下への嫉妬によるという見方もある。いずれにしても、このことがあってから久女の創作意欲は急速に衰え、遂に精神を病むに至る。結社主宰の偏見と狭量が一人の天才を抹殺したのである。

 昭和21年の1月21日午前1時30分、太宰府・筑紫保養院で看取る人もなく57歳の生涯を閉じた。しかし彼女の人間主義と斬新な手法は、自ら虚子に絶縁状を叩きつけた水原秋桜子などに引き継がれ、新しい俳句運動が起きる端緒となった。  私個人も若き日、彼女の作品との出逢いで新しい詩境を拓くことができた。以下に久女の代表句を載せ、改めて薄幸の詩人の冥福を祷りたい。

    花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ
   
    平凡の長寿願はずまむし酒

    紫陽花に秋冷いたる信濃かな

    谺して山ほととぎすほしいまま

    白妙の菊の枕をぬひ上げし

    鶴舞ふや日は金色の雲を得て

    風に落つ楊貴妃桜房のまま

    朝顔や濁り初めたる市の空
 
    ぬかづけばわれも善女や仏生会

      
      (写真は杉田久女。右はノラの句をイメージした人形)





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by 杜の小径  at 01:37 |  日記 |  comment (2)  |   |  page top ↑

追悼 箱田玲子さま

       あはこ     あはこだ

 昨夜、茶人 箱田玲子さまの訃報に接した。先日、来週26日に開かれる初釜の連絡を戴いたばかりだったので、あまりの急逝に言葉も無い。
 箱田さまは杉田正室門の茶人だが、正室さんがご病気がちだったので師範代のような立場で皆さんの面倒をみて下さっていた。特に茶花、茶菓に造詣が深く、私もご指導を受けた一人である。いつも笑顔を絶やさない円満なお人柄で、誰からも慕われていた。心からご冥福をお祈りする。
 通夜は明日21日午後6時から幡髄院にて、葬儀は22日午前11時から同院で行われる。




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by 杜の小径  at 02:52 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

野鳥日和

 あセグロセキレイ あミソサザイ あ こさぎ



    忙しきは寂しからずや鷦鷯(杜詩)

 このところ暖かい日が続いている。友人のメールによると今日の福岡は15℃、4月並の気温だったようだ。東京も10℃を超える小春日和だった。英語ではlittle spring かと思ったらindian summer というのだそうだ。なぜ、そう呼ぶのかは知らない。裸で過ごしても大丈夫という意味だろうか。(マサカ!)
 コート無しで散歩に出る。この陽気だと珍しい野鳥に出逢えるかもしれないから、カメラは標準レンズの他に600㍉の望遠を用意する。コースはいつもと逆に野川を下って野川公園を目指す。ここはICUのゴルフ場跡で立木が多く、園内に野鳥のサンクチュアリ(保護地域)もある。

   道教ふごとくに飛びて 冬せきれい(杜詩)

 公園の入口に近い二枚橋まで来ると、まずセグロセキレイが出迎えてくれた。歩く先数㍍を、しばらく付かず離れず付いてくる。

   忙しきは寂しからずや みそさざい(杜詩)
 
 ミソサザイはキクイタダキと共に野鳥のなかでは最も小さい鳥の一つで、全長は㌢ほど。キクイタダキの名は頭に菊花に似た黄色の羽毛を戴くことに拠るが、ミソサザイは味噌とは関係無い。漢字表記は「鷦鷯」で、由来は『日本書記』にまで遡る。即ち仁徳天皇の在世中の御名「大鷦鷯天皇」(おほさざきのすめらのみこと)に拠ると伝えられる。一般的な由来は「みそ」は「溝」、溝のような所でよく採食するところから。「さざい」は「さざき」の音便で「小さい」の意。「き」は鳥のことで、即ち「小さな鳥」の意味となる。
 
   凍鷺の夢のはじめに火色雲(杜詩)

 川瀬の魚を狙って、凍り付いたように動かない鷺を凍鷺(いてさぎ)という。凍鶴も同じだが真っ白な姿で立ち尽くす孤高の様は哀れで美しい。
サンクチュアリの中を散策すること二時間余、ジョウビタキ、コゲラ、アオサギ、キセキレイなどを観察する。

          (写真:左からセグロセキレイ、ミソサザイ、凍サギ)







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「石川議員逮捕」に思う

            いしかわぎいん

 小沢一郎・民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」が2004年に取得した土地の購入原資4億円が政治資金収支報告書に記載されていない事件で、東京地検特捜部は15日夜、事務担当者だった元秘書で衆院議員の石川知裕(ともひろ)氏(36)=同党、北海道11区=と、小沢氏の元私設秘書の池田光智氏(32)を、政治資金規正法違反(虚偽記載)容疑で逮捕した。

 通常国会の開会を前にして、政界に与えた衝撃は大きい。特に民主党にとっては、小沢幹事長の進退に波及するかもしれないほどのダメージとなるだろう。政治資金の透明化には賛成だし、もし有力政治家とゼネコンなどとの癒着があるとしたら、明らかにするべきだとは思う。しかし、今回の問題には、何か引っ掛かるものがある。簡単に言えば、検察は何故、民主党叩きにばかり力を入れているのだろうという点である。検察の貼り張り切り振りが、どうも片手落ちの見えて仕方が無いのである。

 昨年、西松問題が明らかになったとき、元国家公安委員長だった自民党の林幹雄がリークしたのではないかとの噂が流れ、献金を受けた自民党議員を調べないのは不公平ではないかと言う世論が高まりかけた。検察は慌てて自民党二階派と古賀派のの事情聴取をしたが、形だけで終わった。西松から自民党に金が流れたのは大物だけでも森喜朗元首相、加藤 紘一元幹事長、古賀誠選挙対策委員長、林幹雄元国家公安委員長、川崎二郎元厚生労働大臣、藤井孝男元運輸大臣、尾身幸次元財務大臣、二階俊博経済産業大臣などがいる。この中でニュースになったのは二階さんが選挙対策委員長を辞任したくらいで、た他は事情聴取さえされていない。小沢叩きで大騒ぎするのもいいが、やるなら公平にやって欲しい。                
 深夜のTVは挙ってこの問題を取り上げていたが、論調は全て民主党叩きだった。おそらく今朝の新聞も「検察、小沢氏に迫る」「民主、参院選へ暗雲」といった見出しがズラリと並ぶだろう。マスコミは公正中立というが、そんなことはウソッパチだ。TVや新聞は大企業の広告に依存している。本質は保守なのである。新聞もTVも世論第一を標榜してはいるが、その世論を巧みに操っているのは彼らなのである。最近のTVのワイドショーなども、心して観れば、コメンテーターの人選や発言が一つの意図をもって行われていることが判る。古い諺に「目明き千人、目くら千人」とあるが、実態はそのうち9割くらいはマスコミによって真実を見る目を塞がれている。

「木を見て森を見ず」という諺がある。意味は一本一本の木に目を奪われて、森全体を見ないこと。即ち物事の些末な一面に拘り過ぎて、問題の本質や全体を捉えられないことを謂う。意識的に形成された世論に流されて本質を見誤ると、日本の未来は大変なことになるだろう。戦後以来、大企業の代弁者である保守党から、真に民衆を代表する政党に政権が移った。これは奇跡の無血革命であった。私は今回のことで再び自民党に政権が戻ることを危惧する。そのようなことになれば、九仞(じん)の功を一簣(き)に虧(か)く結果となろう。

            (写真は逮捕された民主党石川知裕衆院議員)





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山茶花の詩(うた)

    こくぶんじ      コクヌバ

 久し振りに一里塚、お鷹の道を経て、国分寺跡まで歩く。一応カメラは持って出たが野川もこの辺りまで遡ると鳥影が少なく、殆どシャッターチャンスが無い。天気が良いが風が冷たいせいか人出は少ない。万葉植物園に寄るも、季節がらか殆ど見るべきものは無い。僅かにヌバタマを見つけて写す。これはアヤメ科のヒオウギの実で、漢字では射干玉と書く。艶のある色で和歌では、夜、夕などのかかる枕詞として遣われた。
 古国分寺跡は礎石と山茶花の籬しか遺っていないが、秋から冬にかけての寂然とした雰囲気は捨て難い。留まること一時間余り、詩稿十篇余をものする。推敲前ではあるが、その中の幾つかを記す。帰途は西国分寺公園に出て、近くの「潮」で蕎麦を食べる。

【一行詩】
   山茶花の白より昏れる寺の跡

   山茶花や久しく提げぬ旅鞄

   山茶花は薄き陽射しのなかに散り
  
【二行詩】
   夜は
   庭の木を恋う如し
   壜の山茶花

【四行詩】
   咳すれば
   風が吹く
   咳すれば
   山茶花が散る

【五行詩】
   山茶花に
   爪痕いくつ
   蜜に群れる
   小鳥の
   無心

   山茶花に群れる
   小鳥たち
   あの中に
   十二使徒がいる
   ユダがいる

【漢 詩】茶梅賦 (山茶花の詩)

   散策寺址夕照紅(寺址を散策すれば夕照紅なり)
   庭前案詩独寂寥(庭前に詩を案ずれば独り寂寥)
   茶梅籬柵帯愁顰(茶梅の籬柵は愁顰を帯びて)
   却使人哀睦月風(却って人をして睦月の風を哀しましむ)

         (写真は射干玉=ヌバタマと白山茶花)
 





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by 杜の小径  at 06:29 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

初雪有情―『マーシャの日記』のこと

   コピー ~ マーシャ

   初雪や詩集に古き折目跡(杜詩)

 久し振りに八王子の会員制温泉に行く。朝から雨催いの空だったが、帰りには雪に変わっていた。国分寺駅で降りたときも、雨は霙を混えていた。初雪である。
 初雪には、私だけの特別な思い入れがある。40数年前、雪書房という出版社を創立して以来、社名に因んで初雪の降った日には全社員が集まって酒を飲んだ。この雪書房という社名は、私が付けたのではなく、詩人でロシア文学者の内村剛介さんによるものだった。

 小学館の相賀哲夫前社長から招誘されて傘下の出版社を創立すべきかどうか迷っていたとき、背中を押してくれたのが内村さんだった。その機縁となったのが『マーシャの日記』である。内容は、14歳のユダヤ人少女マーシャがナチのゲットー(収容所)に抑留されたときの手記である。原書は早くから手許に届いていたが、内村さんは完読できなかった。終戦時、関東軍のロシア語通訳をしていた内村さんはスパイ容疑で拘束され、以来11年間をソ連で抑留生活を送った。そんな自分の体験と重ね合わせて、読むに堪えなかったのだ。内村さんは、その翻訳を私のために引き受けて下さった。私は新社の立ち上げを決断した。

 その日から一ヶ月、内村さんが翻訳口述するのを私が速記し、日本語化するという作業が続いた。
「…ゲットーに冬が訪れ雪が降った。ナチの軍靴の跡も鉄条網も真っ白な雪に埋もれ、少女マーシャは一瞬だけ悲惨な現状を忘れ、て平和だった頃を回想する…」翻訳がこの箇所にきたとき、内村さんが突然言った。「社名は雪書房にしようよ」。社名は、こうして決まった。完成した『マーシャの日記』は、記録的な大ヒットとなり、図書館協会の選定図書、中学校の副読本にも採用された。因みに、現在この本は小学館の姉妹社・集英社のコバルト文庫として刊行されている。

 肩を濡らす霙の中で一瞬は酒場へ足が向きかけたが、思い直してタクシーで帰宅した。書架の奥から『マーシャの日記』の初版本を取り出す。上掲句の「詩集」というのは、実は『マーシャの日記』のことで、刊行までの経緯を記した内藤さんの「あとがき」の箇所に折目がつけられていた。以下は、その抜粋である。

「…『マーシャの日記』の原書がモスクワから届いたが、読めないでいる。著者マーシャの伏目がちな写真は栄養失調の痕跡をとどめている。それは空腹で四段の階段さえ上れなかった、かの地での私の十一年余の獄中生活を思い出させる。読むのが怖いのではない、言葉の、活字の欺きが怖いのだ。だが、読みたい人は多いだろう。また、読まなければならない。いずれ誰かが訳すだろう。…私がこう語ったとき、詩人 村瀬杜詩夫が「私も読みたいひとりだ」と応じた。「ホンヤク国ニッポンがこの本を放っておきわけがない。そのうち読めるよ。僕にはこれを翻訳する気はない」と言えば、村瀬はいっそう頑固に、こう言うのだ。「私はあなたの訳で、この本が読みたい。マーシャと同じ体験をしたあなた以外にこれを訳せる人はいない。あなたが口述して、それを私が速記して纏めるという形なら…」。「実感できるからやりたくないんだよ」。「出版も私がやります」。 押し問答のあげく、私は折れ、口述にかかった。この訳本が出来た由来、いわば私事も記録にとどめておきたい。 内村剛介」

             (写真は『マーシャの日記」初版本)





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by 杜の小径  at 05:42 |  日記 |  comment (2)  |   |  page top ↑

万両より千両が良い

マンリョウ センリョウ アリドオシ

     くれなゐにして強きもの実千両(杜詩)

     一両も こぼさずに活け実万両(柊花)

 ボランティアで、文学サークルの人たちを連れて市内を文学散歩。『次郎物語』の下村湖人が開設した浴恩館、『武蔵野夫人』を書いた大岡昇平が寄寓した富永次郎宅、小説の舞台となった滄浪泉園、貫井神社などを歩き、江戸東京たてもの園で解散。これでオシマイ。
 と、なると、何のためのタイトルかわからない。

 小金井公園を散策中に、マンリョウ(万両)の木が目に止まった。正月などに飾る赤い実の付いた常緑樹。あれは殆どの人が知っているが、目の前の木は丈が㍍もある。女性の一人が「これ、何の木かしら?」と聞いた。咄嗟に、私は「百万両だよ」と答えてしまった。私にすれば万両の大きいものだから百万両とジョークのつもりだったのだが、中にはノートを開いてメモする人も出て大慌て。真面目な場所で冗談はいけないな、とつくずく思い知らされた。
 百万両は冗談だったが、実はマンリョウの仲間には千両、百両、一両と呼ばれるものがあり、皆さんが百万両があると思ったのも無理からぬ。そこで、今夜のブログに正しいことを書きますから…と約束した次第である。

 千両も、殆どの方がご存知だと思う。写真のように万両は実が上向きに付くが、千両は下向きに付く。これが大きな違いで、よく見ると実の色が千両の方がやゝ鮮やか。だから私は千両の方が好きで、ヴェランダにも1本植えてある。これが、「万両より千両が良い」というタイトルの謂れ。些か羊頭狗肉の感もあるが…。さっき、千両はマンリョウの仲間と書いてしまったが、正確に言うとマンリョウはヤブコウジ科で、センリョウはセンリョウ科に属する。
 ヒャクリョウ(百両)もヤブコウジ科で、別名を唐橘(カラタチバナ)と言う。この名前なら聞いたことがあると思う。
 イチリョウ(一両)は耳慣れない方が多いと思うが薮柑子(ヤブコウジ)と言えば、それなら知ってるよとおっしゃる方が多いだろう。イチリョウには蟻通(アリドオシ)という別名もある。これは葉の付け根に長い棘(トゲ)があることに拠る。なお、アカネ科クチナシ属の姫柑子を、イチリョウと呼ぶ地域もある。

 文学サークル向けだから、何か文学的な話題で締めなければなるまい。そこで、最後に薄田泣菫の随筆『まんりょう』の一節を紹介して筆を擱く。

  夕方ふと見ると、植込の湿っぽい木かげで、真赤なまんりょうの実が、かすかに揺れてゐる。寒い冬を越し、年を 越しても、まだ落ちないでゐるのだ。
  小鳥の眼のやうな、つぶらな赤い実が揺れ、厚ぼったい葉が揺れ、茎が揺れ、そしてまた私の心が微かに揺れてゐ る。
  謙遜な小さきまんりょうの実よ。お前が夢にもこの夕ぐれ時の天鵞絨(ビロード)のやうに静かな、その手触りの つめたさをかき乱そうなどと、大それた望みをもつものでないことは判ってゐる。いや、お前の立ってゐるその木  かげの湿っぽい空気を、自分のものにしようと思ふものでないことは、よく私が知ってゐる。お前はただ実の赤さを ろこび、実の重みを楽しんでゐるに過ぎない。お前は夕ぐれ時の木陰に、小さな紅提灯を灯して、一人でおもしろが ってゐる子供なのだ。(原文のママ。カッコ内は村瀬記)

         (写真:左からマンリョウ、センリョウ、アリドオシ)







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by 杜の小径  at 22:12 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

百人一首面白咄(面白クナイカモ…)

名人戦 百人一首


   歌留多とる声や門前過ぐるとき(風三楼)

 小倉百人一首競技かるたの日本一を決める「第56期名人位、第54期クイーン位決定戦」が9日、大津市の近江神宮で開かれた。その結果、クイーン位は立命館大2年の永世クイーン楠木早紀さん(20)=六段=が6連覇、名人位は永世名人の東京都葛飾区の会社員西郷直樹さん(31)=六段=が自己記録を更新して12連覇を果たした。

 ところで百人一首の名人戦は、なぜ近江神宮で開かれるのでしょう。名人戦だけでなく「百人一首甲子園」と呼ばれる高校生大会など様々な大会がここで開かれており、高級百人一首には平安神宮推薦と記したものまでありますよ。その前に、百人一首について基礎的なことを説明しておきましょう。
 実は百人一首には「武家百人一首」「後撰百人一首」「源氏百人一首」「女百人一首」など様々な種類があり、戦時中には「愛国百人一首」まで作られていました。しかし一般には、藤原定家が選んた「小倉百人一首」を指しますね。宇都宮頼綱という人が京都・小倉山に別荘=小倉山山荘を新築したとき、襖に飾り貼りするために藤原定家に色紙百枚の揮毫を依頼しました。定家はこれに応えて、上代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで百人の歌人の歌を年代順に一首ずつ百首選びました。これが「小倉百人一首」なのです。この第一番目に載っているのが、近江神宮の祭神・天智天皇で、そうした関係から百人一首の大会が近江神宮で開かれるようになったのです。ところで、百人一首の冒頭に載っているという天智天皇の御歌とはどんな歌でしょうか。

   秋の田のかりほの庵(いほ)の苫(とま)をあらみ我が衣手は露にぬれつつ

 これが、その歌です。意味は「秋の田に稔った稲の見張り番をするため、隙間だらけの藁で編んだ小屋に泊まっていると夜露で袖まで濡れてしまったよ」というものです。これって、おかしいと思いませんか。天皇が粗末な藁小屋で稲の見張り番なんかするでしょうか。この矛盾を後世の学者は、農民の気持ちになって作られた歌だと、苦しい弁明をしています。実は、この天智天皇の歌は『後撰和歌集』から採録したものですが、万葉集に「詠み人知らず」として、そっくりの歌が載っているのです。その歌とは「秋田刈る かりほ(仮庵)をつくり我がおれば衣手寒く露ぞ置きにける」(万葉集巻10・2178)です。これが現代なら、トウスポあたりで「天智天皇盗作!」と大見出しで報道されたでしょうね。
 では、どうして こんな見え見えの「盗作」をしたのでしょう。実はヒントになる記録を見つけましたよ。定家と同時代の慈円という僧が『愚管抄』の中で、こんなことを書いています。―「コノ御門孝養ノ御心深クシテ、御母斉明天皇亡セタマイテノチ、七年マデ御即位シタマハズ。御子大友皇子ヲ太政大臣トス。又諸国ノ百姓ヲ定メ民ノカマドヲシルス」―意味は天智天皇は孝行息子で母の斉明天皇が亡くなられたとき、悲しみのあまり即位の式をあげぬまま皇位を継承し、大友皇子を太政大臣として政治を行った…」―問題は、その後の「民のカマド」。どこかで聞いたことはありませんか? そう、仁徳天皇です。
 ある日、宮殿から見渡すと民衆の家から炊事をする煙が立っていないのを見て、民はそんなに困っているのかと7年間租税を免じた。7年後、民の竈から煙の立つのを見て作ったという歌「高き屋にのぼりて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり」が『新古今集』に載っています。実は、この歌は『和漢朗詠集』には作者不明として載っているもので、仁徳の聖帝伝説を裏付けるために利用されたらしいのです。22代後の天智天皇の時代になって、その周辺の御用学者が天皇の権威を高めるために仁徳天皇の真似をして姑息な盗作を行ったと推理できます。歴史に賢帝の名を遺した天智天皇ですが、在位中は必ずしも盤石の地位ではなかったと思われるからです。 

 父は舒明天皇、母は皇極・斉明天皇というサラブレッドですが、46年の生涯は波乱に満ちたものでした。中大兄皇子の時代に蘇我蝦夷・入鹿親子を討って大化の改新を成し遂げたことは有名ですが、即位までに兄の古人大兄を殺し、孝徳天皇の遺子有間皇子を謀反の罪で処刑しています。また朝鮮半島では派遣した三万近い軍隊が唐・新羅連合軍に白村江の戦で大敗を喫します。このため九州の防備を固めるため水城を築いたり防人を派遣するなど内憂外患で、政権の基盤は必ずしも安定したものではありませんでした。この辺の経緯については一大歴史小説が書けそうですが、疲れたので今日はオシマイ。

     (写真:百人一首名人位戦(左)とクイーン戦の熱戦振り)





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by 杜の小径  at 13:44 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

七くさ粥 & 現代風レシピ

            ななくさ

 今日は「七くさ粥」の日。デパートなどでは7種の菜をセットにして「七草」として売っていますが、正式には「七草」とは秋の七草を指し、1月7日の場合は「七種」が正しいのです。七種とは芹(せり)、薺(なずな)、御形(ごぎょう)、繁縷(はこべら)、仏の座(ほとけのざ)、菘(すずな)、蘿蔔(すずしろ)で、易しく言えば、セリ、ペンペングサ、ハハコグサ、ハコベ、コオニタビラコ、カブ、ダイコンとなります。昔は前の晩に七種の草を俎板に載せ、「七草なずな 唐土の鳥が、日本の土地に、渡らぬ先に、合わせて、バタクサバタクサ」と囃しながら刻み、これを翌朝に粥の中に入れて食べたようですよ。この囃し言葉は地方によって多少違うけど、大意は「中国から渡って来る鳥が悪い病気を運んで来る前に急いで七種粥を食べよう」というもので、現代の鳥インフルエンザの流行を予言しているようで不思議な感じがするね。

 私は粥が嫌いなので、「北京ダック風&ベトナム生春巻」を作りました。レシピは簡単。あれば北京ダック、無い場合は(ぐ~んと落ちるが)鳥皮。刻んでからフライパンで煎り、出る油をキッチン・ペーパーで丹念に吸い取る。カラカラになったものとカイワレダイコンを生食用の春巻の皮で包んで完成。(包み方は写真参照)。これにソースを付けて食べるが、ソースはニュクマム(ナンプラー)、塩コショウ、スイートチリソースを混ぜて作る。無い場合はテンメンジャン(甜麺醤)を加える。それも無いときは甘辛味噌で可。

 古今集に、七種粥用の菜を摘む(たぶん)歌があります。作者は光孝天皇です。これに因んで、ちょっと歴史の話をしましょうか。興味のある方は読んでみて下さいね。

   君がため春の野に出でて若菜つむ わが衣手に雪は降りつつ  
   
 この光孝帝は仁明天皇の第三皇子時康(ときやす)ですが、若い時から人気者だったらしいです。『日本三代実録』に拠ると「少ニシテ聡明。好ンデ経史ヲ読ミ、容止閑雅。謙恭和潤、慈仁寛曠」とあります。現代風に言えば、幼いときから学問を修めたインテリで、人柄は謙虚温厚、思い遣りがあって心が広かった。そのうえ気品のあるハンサムだった、ということですら、宮中での人気も高かったようです。しかし、すんなりと皇位に就いたわけではありません。陽成天皇の次帝を選ぶにアタッテ候補者はワンサといて、中でも最大のライバルは嵯峨天皇の皇子で源姓を賜っていた源融(みなもとのとおる)でした。その経緯を文徳帝から14代の歴史を記した『大鏡』で覗いてみましょう。元老たちは「いかがは。皇胤をたずねば、融らも侍るは」、即ち天皇の近い血筋から言えば源融が最適だろうという意見が大勢でした。これに待ったをかけたのが、時の摂政 藤原基経で、「皇胤なれど、姓たまはりて、ただひとにて仕へて、位につきたる例やある」、天皇のお血筋といっても源姓を賜って臣下になって方が、皇位についた前例はありませんと反対しました。実は基経と時康皇子は従兄という関係でもありましたが、一方の源融が62歳という高齢だったこともあって、時康皇子が第58代光孝天皇となりました。
 あっ、そうそう、『源氏物語』の光源氏は、この光孝天皇がモデルではないかという説もあるんですよ。






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by 杜の小径  at 17:56 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

三河万歳考―正月偶感

            峠の万歳

 今はすっかり寂れてしまったが、江戸から東京にかけて長いあいだ正月の風物詩となっていたものに三河万歳がある。太夫役と才蔵役がコンビで、門付をしながら家々を回る。
現在の漫才の原型ともいわれ、愛知県東部が発祥の地であることから三河万歳と呼ばれる。
 昨年、この三河万歳の源流を求めて愛知県西尾市を中心に旅をした。発端は同市出身の友人から、同級生が住職を務める古刹が荒廃にまかせているので何とか再興策を考えて欲しいと依頼されたからである。

 道順の関係で最初に訪ねたのは、吉良家累代の墓がある花岳寺。大手新聞社の支局長が同行してくれたせいか、寺宝の後柏原天皇の御宸翰を手にとって拝観できた。
 目的の寺院の名は実相寺。創建は文永8年(1272年)で、最盛時は西条城主 三河国守護 源満氏から寺領7000石を付与された巨刹だった。こうした寺院の宿命で幕藩体制の崩壊と共に檀家の無い寺は寺領を切り売りして生き延びざるを得なかった。訪ねたときも寺苑は広大で往時を偲ばせたが、諸設備の荒廃が目立っていた。掃除なども、付近住民のボランティアに頼っているという。実は史実からすると吉良家の菩提寺は、この実相寺なのだが宣伝が下手なのか、本家のほうはすっかり寂れている。住職と話していると、どうやらこの寺が三河万歳の発祥の地らしいことが判った。当院の二世住職 應通禅師が中国へ留学時代に隋の煬帝が作ったという万歳楽を覚えて帰国した。後に南宋の陳照答谷という官吏が、元との争いに敗れて日本へ亡命して応通禅師を頼り保護を願い出た。禅師は陳照答谷の生活の糧となるように、習い覚えた万歳楽の曲に仏教の布教のための言葉をつけ、教えたという。伝承地の西尾市上町辺りを古くは森下村と呼んだことから別名を森下万歳と呼ばれる。以上の史実を夏ごろまでにまとめて、実相寺を三河万歳発祥の地として大々的に売り出してあげたい。

 近年まで年始めには、家々を回り一家の繁栄を祝して歌い舞う万歳が訪れていた。特に江戸時代、江戸にやってくるのは三河地方の万歳で、烏帽子に直垂の太夫は三河からやって来るが、鼓を持った才蔵は江戸に出てから日本橋にあった才蔵市で自分の相手をする才蔵を見つけて仕事をしていた。彼らは正月の仕事が終わるといったんコンビを解消した。江戸で雇われた才蔵は、三河に帰る太夫を送って峠まで来る。そこで来年の再会を約して別れるのだが、その太夫と才蔵の別れを描いたのが舞踊・清元『峠の万歳』である。

 最初は次のような小唄として唄われていた。
  小唄
   正月も過ぎて淋しき片田舎 三河へ帰る万歳を、ここまで送る才蔵が
   気のむすぼれも鶯の きょう読む声にまぎらせて、いつか峠の茶屋の前… 
   また来年に逢ふまでの約束がわりの盃と 梅の木陰で酌み交わす
   思へば今年は お前のお蔭で実入りも たんとありがたい
   よい春の日のおいわけに ここで別れと 万歳も声うるませれば  
   これ太夫さま わずかな日数も二人して女夫(みょうと)のように
   江戸中をめぐる稼ぎの松もとれ 今日は別れとなるみがた故郷の
   三河へ帰っても 私を忘れてくださるな

 この小唄が、やがて次のような長唄として作り変えられた。普通は流行った長唄が小唄に作り変えられるケースが多く、この『峠の万歳』のような例は極めて珍しい。
  長唄
   二人連れの万歳が 一人は峠へすごすごと
   後に残りし万歳は 山の麓に友よぶ調べ
   えいえいすぽぽんのぽん すっぽんすぽすぽ
   すっぽんと言うては 舞を舞うて候
   えいえいすぽぽんのぽん えいえいすぽぽんのぽん

(写真は清元の『峠の万歳』右:太夫の藤間勘司卯、左:才蔵の藤間司卯桂)





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by 杜の小径  at 19:21 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

鏡餅考

             かがみじし

   日の上に月を重ねて鏡餅
 
 正月はつまらないなどと言いながらも、正月になると独り住まいの玄関に輪飾りと鏡餅だけは必ず飾ってきた。幼い頃は家が神職だったので、村中が総出で大きな門松を建てた。10㍍に余る青竹の周りに円錐形に松を飾る巨大なものだった。鏡餅はお供えと呼んで、何臼も搗く中の一番臼で作った。鏡のように円い大小の餅を重ね、上に柚子を飾った。下の餅が日、上に載せるやや小さめの餅が月を表すとのことだった。本来は家が代々続くように橙(だいだい)を飾るのだが、寒い土地では橙が採れないので代わりに柚子を飾るのだと、祖父が説明してくれた。いちばん大きいのは神前に供え、二番目は家の玄関に飾られた。数十組作られた小さなお供えは、末社の祠、道祖神、龍神の淵と呼ばれた滝の下、蛇池という庭前の池、取水口などに半日かけて置かれていた。大晦日は一夜飾りとして忌み、こうした準備は30日までに終わることになっていた。

 いま、目の前に在るのは、たった一個、それも直径10㌢に満たない小さな鏡餅である。既成品だからフィルムに包まれ、柚子の代わりに干支の寅のフィギュアが載っている。S社製のものの表情が可愛いので、此処へ越して来てからずっと買い続けている。書架の一隅には鶏(酉)、犬(戌)、猪(亥)、鼠(子)、牛(丑)のフィギュアがずらりと並んでいる。11日の鏡開きが終わると、虎(寅)ちゃんが仲間入りする。

 宮中では鏡餅を飾るのを「御鏡曳き」と呼び、この風習は幕府の大奥に引き継がれた。一昨年だったか、歌舞伎座の正月公演で『春興鏡獅子』(しゅんきょうかがみじし)を観たことがある。この演目も「御鏡曳き」に縁がある。小姓の弥生(後に獅子の精)を勘三郎が六代目菊五郎の型を継承して好演じた。この外題は比較的新しく、原作は明治期の劇作家、福地桜痴。初演は九代目団十郎で、前記六代目菊五郎が当たり役として以来、獅子物の代表的な舞踊となった。
 大奥の「御鏡曳き」の余興に、小姓の弥生が能の『石橋』(しゃっきょう)―寂昭法師が入唐して清涼山の石橋で獅子の舞を観るという筋―を軸に、川崎音頭、飛騨踊、二枚扇の踊などを披露する。最後に祭壇の獅子頭を手にすると獅子の精が宿り、蝶の精を追って長い毛を振り立てて踊り狂う。別名を『鏡獅子』ともいう。  

    幕開きの析(き)が罅(ひび)を呼ぶ鏡餅(柊花)
  
   (写真は国立劇場大劇場ロビーの平櫛田中作『鏡獅子』の彫刻像)





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by 杜の小径  at 02:04 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

年賀状あれこれ

                がじょう

あっと言う間に、三ヶ日が終わった。オイ、ウソを言うな。「あっ」と言うのに三日もかかるか。だいいち詩人が、そういう手垢にまみれた言葉を遣うな。それをフランス語ではクリシェ、日本語ではジョウトウクと言うんだ。なに? 上等句ならいいじゃんだって? チガウ! その上等じゃあない。常套のジョウトウだ。オイッ! 下手な漫才みたいな書き出しはヤメロ。―わかった。マジメに書いてみる…。

   騒がしい何かが
   脇を
   通り過ぎて行く
   酒だけを飲んでいた
   三ヶ日(杜詩夫)

 結句はミッカビと読まないで…。あれは蜜柑の名産地、ここではサンガニチと呼んで下さい。とにかく、暮れから今日まで、アルコール漬けの日々が続いた。いまも酔眼朦朧として、PCのキイを叩く手許が覚束ない。年が明けてもブログに何も書かないと、若しや孤独死かとビックリさせてはいけないからアリバイ作りに書いているだけのこと。

 正直に言うと、僕は正月のように賑やかなことは好きでない。だから独り暮らしを始めてからは殆ど毎年、信州の山小屋に籠って越年してきた。今年は故あって東京で正月を迎えることにしたが、息が詰まって死にそうだった(これもクリシェ臭いナ)。
 PCの故障でアドレスが消失してしまった。昨年は服喪中で賀状が来なかったので、大部分の方の住所が判らない。大晦日の夜に甥に来てもらって、いちばん簡単な宛名印刷の様式をインストールさせ、来た賀状からアドレスを打ちこむことにした。ところが、これが大仕事。疲れれば飲んで一休み。一休みした後は公園や疎林ヲぶらつき、帰ってまたPCにしがみつくといった三日間だった。それでも未だ積み残しが3分の1ほどある。もう便所の火事だと、一旦中止してブログを書くことにする。便所が火事かだって? 違う違う、ヤケクソだという上品な洒落サ。

 とは言っても、上記のように極めてシンプルな毎日だったので、特段に書くこともない。そこで、これまでに戴いた賀状のうち文芸的な何枚かを紹介して、責めを免れることにしたい。なかなかの佳作も多いが全部は紹介できない。ご承知のように僕は「五行歌の会」とは、はっきり言って喧嘩別れしている。理事諸兄がクビを切られたときも卑劣な手段を弄されたが、僕の場合も陰湿極まる手段で会を追われた。僕はあまり人と争ったり憎んだりはしない性格だが、5年前の3月7日のことは決して忘れない。

   手に重く
   冷たき柿の
   朱を置きて
   心ひそかに
   人を憎めり

 これは、そのときに創った五行詩である。これを機に掌を返すように離れて行った友人も多いが、中には密かに友情を繋いで下さっている詩友も少なくない。そういうシンパサイザーのお名前を明かすわけにはいかない。

 文芸とは関係無いが、トピカルなものではサンミュージックの相澤秀禎会長の賀状。傘下の芸能人77人の顔写真が大豆くらいの大きさで紋服のイラスト付きで並んでいる。毎年同じパターンだが顔ぶれは少しずつ変わっている。都はるみが復帰し、森田健作、安達祐美、ベッキーらの名はあるが、さすがに のりピーの名前は載っていなかった。
 
   いつの間に
   東京を捨てたのか
   麦踏む日々を
   伝える
   友の賀状(杜詩夫)

 自民党で権勢を誇ったKからの賀状には「百姓をしたい」とあった。上記はそれへの返詩。「帰りなむ、いざ。田園将に荒れんとす」という心意気ならいいが、未だ夢を捨て切れてはいないようだ。
 
   磧礫天龍路
   嶺松斜日横
   禦寒捜句往
   鏗戛曳笻声(金桂寺須永老師)   

 さて、文芸の最初は小生の先輩で漢詩の師でもある須永義昭老師の自作漢詩による賀状。脇にペンで「老来遊歩の吟とでも…」と書いてあった。大意は、石ころだらけの天竜川沿いの道を歩いていると、峰の松に夕日が射して美しい。寒さを防ぎながら佳い句を捜して歩いていると、自分の曳く杖の音だけがカツカツと響いて侘しい、ということ。

   初星へ かける願ひの光かな(亜矢子)
俳句のトップは水原秋櫻子の姪で、自らも俳誌『久珠』を主宰する水原亜矢子さんの句。書家でもあるので直筆の筆字が美しい。

   丹田の力を抜きて 年迎ふ(しげを) 
この句はNHK全国俳句大会で文部大臣賞、句集『大暑』で毎日俳壇賞を受賞した俳人、友田しげをさんの賀状に添えられたもの。

   百年も生きてきたとは初鏡(猷子)
 これは今年98歳を迎えられる俳人 岸原猷子さんからの賀状の句。茶人でもあり、小生の茶道の師。近くにお住まいで、時どき小女子の釘煮や西京漬などを届けて下さる。

   初日の出 母なる山河弾き出す(登美子)
 宮崎登美子さんは、相模湖畔にお住まいの『狩』同人の新進俳人。

   七草や 昔むかしの母の唄(芙美子)
 作者の酒井芙美子さんは、先日のブログで紹介した親友 故酒井清君の夫人で、『狩』の古い同人。賀状だけでなく四季折々の近況を17文字に託して知らせて下さる。

   天翔けて飛行機雲の吉書かな(和美)
 米倉和美さんは若手俳人のホープ。瑞々しい感覚が素晴らしい。

   足るを知る妻と初日に手を合わす(えいほ)
 この作者 䅏田栄保さんは『寒雷』同人で、『南の風』の仲間でもある。

   初春や清水に舞ふ「新」の筆(雨夢)
 雨夢さんの本名は飛嶋慶一さんで、五行歌人としても『南の風』や麹町倶楽部で活躍されている。写真家でもある。

   初春や笑顔いっぱい良き年を(陽三)
 宮地陽三さんも五行歌人だが、賀状にはこの句が添えられていた。

   みるべきは みつなどとな いひそ あたらしき おいの
   たのしみ ともに みつけむ(吉田昌光)
 この作者はアララギ派の歌人。賀状には「喜寿に詠む」と添え書きがしてあった。

 次に、五行歌の賀状のうち公開できるものだけを五十音順に紹介させて戴く。
   椿がきれい!
   カワセミがいた!
   富士山が素晴らしい!
   何かと足が止まる
   二人の散歩(今関教正さん)

   花びら餅は
   点前座の
   乙女に似合い
   新春を
   寿ぐ(大薗俊行さん)

   長くて
   短い
   半世紀
   共に白髪の
   薄れゆく(鈴木泥雲さん)

   雨上がりの
   朝霧の中
   行き交う人
   “おはよう”と爽やか
   野火止の道(桗田幹朗さん)

   あせらないで
   たゆまないで
   あきらめないで
   これからも私を
   積み重ねていきたい(高橋 章さん)

   鉄路も通わぬ
   山裾の町
   高遠
   城址の櫻が
   万里の人を呼ぶ(高原伸夫さん)

   果てのない自然が
   心を
   大きくしてくれる
   限りなど
   創るな と(高原美智子さん)

   それでも 私は
   微笑みますと
   荒地に咲く花に
   教えられた
   生き抜く強い力(松本希雲さん)

   水面に
   白い影を宿し
   冷たい水に
   可憐に咲く
   花もある(美伊奈栖さん)

   湖のほとりの
   清しさは
   風が
   さらって
   すぎてゆくから(森本いく子さん)

   老け込むのは
   いとも簡単
   「気力」という
   箍(たが)を
   外せばいい(紫草子さん)
 





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