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お知らせ

             あああ

 桜満開の三河路から帰ったら、東京の余寒が身に沁みます。 皆様は、いかがお過ごしでしょうか。

 ところで、ちょっとお知らせしたいことがあります。
 実は先日の麹町倶楽部例会に出稿しました小生の五行詩を,水野ぷりん画伯が素敵な絵に描いて下さいました。詩の出来は 大したことはありませんが絵があまりに素晴らしいので皆様の ご高覧に供したく、ご案内させて戴きます。
水野画伯のブログは 以下の通りです。

http://pulinblog.cocolog-nifty.com/blog/cat36871242/index.html






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by 杜の小径  at 17:23 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

“桜の旅”小景

あい佐奈川 あい桜淵 あい赤塚

昨夕、三日間の慌ただしい旅から戻りました。今回の旅の目的は、故郷・浜松市佐久間への墓参と長兄の住む豊川市に分祀されている墓に詣でるためです。駆け足のような旅で些か疲れましたが、幸い好天に恵まれたうえに行く先々で満開の桜と出逢うことができ、”桜の旅”を満喫できました。

        (写真:左から豊川・佐奈川の桜、新城・桜淵の桜、佐久間・峰の桜)

あい家族 あいはかあい墓 あい狐塚  あい稲荷

 兄宅へは午後6時頃着くと知らせておきましたが、東名高速で3件も事故が発生したので到着は1時間遅れ。着いて驚いたのは兄の嫁いだ娘や孫まで一家眷属、総勢23名で歓迎会を開いてくれたことです。翌日は先ず、兄、甥、姪たちと祖霊の眠る赤塚山を訪ね奥都城(おくつき=神道の墓)に詣でました。兄が此の地に住むようになってから、祖父以降の霊を此処に分祀したものです。3歳で逝った妹澄子のために、別に地蔵像も建ててありました。墓参の後は久し振りに豊川稲荷など市内を散策した後、佐奈川堤や大通りの桜トンネルを見て回りました。

      (写真:歓迎会の一族、赤塚山の村瀬家奥都城、豊川稲荷本殿、同狐塚)

  あい板敷川  あい鳳来寺  あいご幣餅


佐久間へは兄と長女豊美が同行し、甥の英輝がハンドルを握ってくれました。到着まで車で2時間を要しますが、道路は美しい宇連川の渓流に沿って続きます。川底は写真のように流紋岩流紋岩、質凝灰岩、頁岩層で形成され、まるで板を敷き詰めたように見えるので板敷川と呼ばれています。途中には仏法僧で有名な鳳来寺山も峨々たる山容を見せていました。現在では頂上まで車で登れますが、先を急ぐのでパス。昼食も沿道の茶店で求めた御幣餅で済ませました。

           (写真:板敷川の清流、鳳来寺山、御幣餅)

 あい森 あいちゃん あい天竜

 幾つもトンネルを潜り、やっと佐久間へ到着。遥か山上に産土の里「峰」を望見することができます。緑の幾何学模様は茶畑です。点々と白く見えたのは満開の山桜だったことが後で判りました。下平地区を迂回して、峰に向かって急坂を登ります。下平は代々名主を務めた村瀬家発祥の地です。「峰と蛇池の境の桜」と民謡に唄われた広大な池は埋められ、屋敷も茶畑に変わっています。屋敷の下方に在った「竜王の滝」にまつわる伝説はいまも残り、以前このブログでも紹介しましたように私も『日本の民話』の中に収録しましたが、滝自体は度重なる洪水で滝も淵も小さくなってしまいました。私自身はこの屋敷に関する記憶は全くなく、民話や民謡のことは祖母と母からの伝聞です。ただ、元日に父と竜王の滝へ若水を汲みに峰から下りてきたことは、はっきりと覚えています。
 私は峰で生まれました。我が家は南側の斜面と中央部と二軒ありました。日向と呼ばれた南斜面の家には矢場と呼ばれる弓の練習場もありましたが、家屋敷ともども茶畑になっていました。中央部の家も周囲の様子がすっかり変わってしまって、正確に特定できませんでした。ただ、通りかかったお婆さんと立ち話をしたとき、20年前に「遠くへ行きたい」のロケの際、柚子ジュースをご馳走になった土手下のお嫁さんっだったことが判り、「ぜひ寄っていってくれんかね」と誘われました。嬉しいハプニングでしたが先を急いでいたので丁重にお断りして別れました。人家は三分の一ほどに減り、代わって茶畑が増えて風景は一変していましたが集落の中央にあり樹齢数百年の楠は昔のままに残っていました。私たちはそれをチャンリンボクと呼んで、毎朝そこに集まって登校したものです。チャンリンボクの語源は判りません。兄たちも、そう呼んでいました。
 集落の最上部に在る八坂神社は、昔のままでした。兄によると灯篭の文字は神主だった父の筆跡ということで、思わず手で触れてみました。

       (写真:最上部の森が八坂神社、チャンリンボク、峰から天竜川を望む)

  あい桜ふち      あい桜淵

帰途、新城市に寄りました。一昨年まで市長だった山本芳央君は大学も下宿も同じで、学生時代は彼が郷里から取り寄せた花の苗を田園調布の家々へ売って歩いたこともありました。今日は兄たちと一緒という事情を電話で話し、声だけ聞いて別れました。兄や姪が桜淵の桜を観たいと言うので一時間ほど休憩。

             (写真:名勝・桜淵の風景)

 豊川市に戻って更に一泊。昨夜のお返しに、兄と3人のと甥で会食。翌日は沼津漁港に立ち寄り、テレビのグルメ番組で有名な天丸で食事。富士山が綺麗でした。

                    あい富士








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by 杜の小径  at 07:50 |  日記 |  comment (8)  |   |  page top ↑

惜春の旅

              たか満開
             
               
   行く春や父より母を思ひをり(杜)

   望郷の想ひそぞろに春の旅(〃)

 急に思い立って旅に出ます。三河・赤塚山に眠る父母の墓に詣でたあと、天竜河畔の故郷を訪ねます。ついでに高遠まで足を伸ばすことも考えましたが、現地へ問い合わせるとコヒガンザクラは未だ蕾が固いとのこと。来月、奥木曽の帰途にでも出直すこととし、今回は佐久間経由で浜松に出る予定です。
 一応NPCは持参しますが、書き込みは出来ないでしょう。何か面白い事に出逢いましたら、帰京後に報告致します。いずれにしても月末までの短い旅です。


【追記】例年通り3月末をもってノミナル化しているmy mixi の方を整理させて戴きます。ご縁があって my mixiに登録ささせて戴きましたが、いろいろな事情で疎遠に打ち過ごして参りました。責任は小生にあります。ともあれ長い間交流が無いのにお名前だけ残すのも心苦しく、恒例通り年度末に整理させて戴きます。長い間のご厚誼に感謝します。
 なお文芸塾の塾生も、連絡無く長期間教材や作品を提出されない方は、一応除籍と致します。継続を希望される方は、改めて入塾手続きをとって下さい。






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by 杜の小径  at 04:14 |  日記 |  comment (4)  |   |  page top ↑

               こうじ3

 いつものように麹町区民会館洋室で開催。シーズンがら旅行などで欠席する人もいたが、「ハマ風」から気鋭の織田範子さん、田中きみさんが参加されたので、
明るく充実した歌会となった。特筆すべきは新人の平井敬人君が自由詠二席に、同水野ぷりんさんが次点に入ったこと。また題詠部門では最年長の稲泉幸子さんが関口有美さんと並び堂々の同点一席を獲られた。上位入賞者は以下の通り。(敬称略)

【自由詠】

   こっちに
   ほほ ほ
   あっちにも
   ほ ほ ほ
   ふきのとう(一席 村瀬杜詩夫)

   ふつうのことが
   すごく嬉しい
   ふつうのことが
   うまく出来ない
   私、恋をしている(二席 平井敬人)テン

   昨日
   北風
   今日
   南風
   季節 うずいている(三席 赤井 登

   鶴のくちばしが
   ひと夜だけ
   かっと開いたごとく
   白き大輪は
   サボテンの叫び(同点次席 水野ぷりん)

   ふるふると
   白い手を振る
   谷間の辛夷
   眺めているのは
   残雪の山々(同点次席 山碧木 星)

【題詠/離】

   食卓を離れて
   二~三歩
   あらっ 何をしに
   戻って あッそうそう
   多くなりましたねぇ(同点一席 稲泉幸子)

   離れそうで
   まとわりついてくる
   寒さ
   季節がなごりを
   惜しむように(同点一席 關口有美)

   列車の窓へ
   寄り添うように
   高速道路の青い灯
   スッと離れて
   トンネルの(二席 ま のすけ)

   初めての一人旅
   つかずはなれず
   駅まで見送る
   あ、スキップしてる・・・
   うん、深呼吸もしたか(三席 柳瀬丈子)

   離れると
   なぜか近寄ってくる
   動物園のゴリラ
   お前さん
   何か勘違いしてない(同点次席 赤井 登)

   貨車繋ぐ音の
   聞こえる
   旅の宿
   離(さか)りし人を
   想いつつ眠る(同点次席 村瀬杜詩夫)
  
   囃し立てられてから
   離れて通った
   小学校への小径
   いま舗装されて
   仲良しが通う(同点次席 山碧木 星)






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by 杜の小径  at 23:57 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

追憶の桜貝

            かい さくら

   遠き日の恋のかけらか桜貝(杜)

 これは、同人詩誌『南の風』に載せる小文を書いているとき浮かんだ一行詩である。幼時を天竜河畔の山村で過ごした私には、海で遊んだ記憶があまりない。ただ、渥美半島突端の伊良湖岬には従妹の靖子を連れて、よく遊びに行った。その追憶を辿りながら、次のような作品も生まれた。

   死してのち美しきもの桜貝(杜)

   躓きて片手をつけば桜貝(〃)

   さよならの言葉に代へて桜貝(〃)

 昨日、急に海を見たくなって、三浦半島の城ヶ島へ出掛けてみた。国分寺から2時間足らず、気まぐれな日帰り旅には丁度いい。城ケ島と言えば白秋である。一応、経緯を表して詩碑に立ち寄る。もちろん、お目にかかったことは無いが、私は白秋の孫弟子だと思っている。というのは私の師の木俣 修が白秋の高弟だから…。「城ヶ島の雨」が生まれた経緯についても極めて興味あるエピソードを聞いているが、この話は後日に稿を改めたい。
白秋の歌碑の近くに、松本たかしの句碑がある。

   松虫にさゝで寝る戸や城ヶ島

「さゝで」は、戸締りをしないという意味である。昭和13年の作。当時、城ヶ島大橋は未だなく、たかしは渡し舟で渡ったということだ。松本たかし(1906~1956)は能楽師の家に生まれたが体が弱く、俳句の世界に入った。弟は能の人間国宝・松本恵雄である。『ホトトギス』幹部同人として活躍し、気品に富む美しい句を残した。1953年、句集『石魂』で第5回読売文学賞を受賞している。
 三浦の海を一望したいこともあって、車で本端寺に向かう。ここは頼朝の桜の御所と言われた古刹で、たかしの墓と次の句碑がある。

   宝珠不壊蘇鉄の花の秋に入る  松本 たかし

「宝珠不壊」とは、仏心を象徴する宝珠は永久に壊れることがないという意味。本堂の左右にある蘇鉄の花を詠んだもの。
実はたかしは桜貝が好きで、住い近くの由比ヶ浜で拾ってきた桜貝を小筥にたくさん集めていたという。以下はたかしの桜貝の代表句である。

   ひく波の跡美しや桜貝
   春寒や貝の中なる桜貝
   眼にあてて海が透くなり桜貝
   さくら貝 怒濤 に耐へてきしとおもふ
   つぎつぎと波あたらしき桜貝
   二三枚重ねて薄し桜貝
   紙の上に欠けざるはなき桜貝

         (写真:城ヶ島海岸の桜貝)






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by 杜の小径  at 14:20 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

命と向き合う人―彼岸

    かだん6    かだん7
 


   風の日は鳥も籠りて春彼岸(杜)

 夜半、と思ったが時計を見ると4時過ぎ、もう明け方だった。ヴェランダから聞こえる激しい物音で目を覚まされた。カーテンを開けると、中庭のミズキが根元から撓むほどに揺れていた。嘗て経験したことの無いほど激しい風だった。棚に置いた植木鉢は殆ど転げ落ちていた。ベッドで聞いたのは、空になった棚が壁にぶち当たる音だった。

 午後、家内の墓参りに行く。墓石に積もった黄砂を洗い流したあと、一時間ほど墓の傍でぼんやりと過ごす。私は基本的に唯物論者だから、理性では神仏や魂の存在を信じていない。しかし毎朝の供物は欠かさないし、事ある毎にこうして墓参りに来る。来世・彼岸を信じなくてはいないが、在ったらいいなぁという気持ちはある。家内が逝って七年半、いつも何処かから見守られているような気分で暮らしている。人間って、ほんと不思議な存在だ。

 夜9時より、NHKスペシャル「呼吸器を外して下さい―柳田邦男と患者が紡ぐ命の対話」を観る全身の筋肉が動かなくなる筋委縮症という難病を20年間も患う照川貞喜さんは、頬の僅かな動きをセンサーに感知させることで意思を伝えている。彼がそうして綴った要望書の内容は、完全な“閉じ込め状態”になったら死なせてほしいというもの。照川さんは"闇夜の世界"では生きられないと話し、人生を終わらせることは"栄光ある撤退"だと訴えている。その訴えに関心を抱いた作家の柳田邦男氏が照川さんを訪ねて「命とは何か」をテーマに半年間にわたって対話した様子を伝える。半年間の対話が終わろうとするころ、柳田は照川さんに「あなたの存在は奥さんやご家族の支えです。その為にも精一杯生きて下さい」と伝える。照川さんは、もはや自由に動かせなくなっている頬を懸命に動かして答える。「私は誰かの為には生きられない。どうか死なせて下さい。命は私のものです」…。

 続いて10時よりNHK教育テレビETV特集「死刑囚・永山則夫―獄中28年間の対話」を観る。40年前4人をピストルで射殺し、“連続射殺魔”として逮捕された永山則夫。19歳で逮捕され、1997年に死刑を執行されるまでの28年間、永山は獄中で実に多くの対話を繰り返していた。
 赤軍派の死刑囚・永田洋子など著名人や市井の人々との1万5千通を超える手紙でのやりとり、永山が人生で初めて心から信じ獄中結婚した和美さんや、裁判を支えてきた支援者との面会室での会話や書簡などである。そうした対話をつぶさに見ていくと、当時の時代や永山を取り巻いていた環境、そして揺れ動き変わりゆく永山の人間像が見えてくる。
 永山は北海道網走で8人兄弟の7番目として生まれるが、彼が4歳のとき母は酒と博打に明け暮れる夫に愛想を尽かして4人の子供だけ連れて青森へ逃げ出す。兄たちと共に網走に残された則夫は、魚市場に落ちている小魚を拾って飢えを凌ぎながら零下30℃の北海道で野良猫のように生きていく。見兼ねた民生委員の世話で青森の母のところへ送り届けられるが、リンゴの行商で働く母と8人子供にとって生き地獄のような暮らしが続く。中学を出ると集団就職で上京、一時は真面目に働く。しかし青森時代に犯した自転車窃盗の前歴がばれたことから放浪生活に入り、やがて横須賀の米軍宿舎に侵入した罪で検挙される。そのとき安保闘争で逮捕された東大生と知り合い、次第に貧困が社会的な犯罪であるというマルキストの思想に共鳴していく。やがて全国を放浪した挙げ句、東京、京都、函館、名古屋で4人を射殺し、いわゆる「連続ピストル射殺事件」犯人として検挙される。一審で死刑を宣告されるが獄中で独学(彼に差し入れされた書籍はマルクスの『資本論』など数千冊に達したという)し、自伝的小説『無知の涙』『木橋』などはベストセラーとなった。その印税を函館の被害者に贈って罪を詫びたり(他の被害者は受け取りを拒否)したこともあって二審の東京高裁では無期懲役に減刑された。しかし、1990年に最高裁判所で「家庭環境の劣悪さは確かに同情に値するが、彼の兄弟たちは凶悪犯罪を犯していない」として死刑判決が確定。1997年8月1日、東京拘置所において死刑が執行された。享年48歳。実に28年間に亘る獄中生活の果てであった。
 この事件は貧困が犯罪の温床であることを示す典型とされ、改めて死刑制度の是非が論じられる契機となった。私自身は一般論としては犯罪の責任論では社会責任7分、個人責任3分、刑罰の本質論では教育刑7分、応報刑3分というスタンスだが、本件に関しては敢て言及を避けたい。ただ、最後に永山則夫の詩「ミミズのうた」を紹介して本日のブログを閉じたい。

    「ミミズのうた」    永山則夫 

   目ない 足ない おまえ ミミズ
   暗たん人生に
   何の為生きるの

   頭どこ 口どこ おまえ ミミズ
   話せるものなら
   声にして出さんか

   心ない 涙ない おまえ ミミズ
   悲しいのなら鳴いてみろ
   苦しいのなら死んでみろ

   生まれて死ぬだけ
   おまえ ミミズ
   跡形もさえ消され
   残すものない憐れな奴

   おい雄か やい雌か
   おまえ ミミズ
   踏んずけられても
   黙ってる阿呆な奴

   判ってる 知ってる
   おまえ ミミズ
   先っちょ気持ちばかりに
   モコチョコ動かすだけ

   ニョロニョロ 這いずり
   おまえ ミミズ
   チョロ遠く出過ぎて
   日干して果てた

        
          (写真:逮捕時の永山則夫と彼の著書)






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by 杜の小径  at 02:45 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

「すかんぽ」の うた

   スイバ1   スイバ   さんさいいたどり

  すかんぽや指に少年の日の創(杜)

 春になると、山菜を採るのを楽しみにしている。来月は木曽川源流と白馬山麓を旅するが、目的の一つはタラ、サンショウ、アケビ、アブラコシなどの新芽のほかフキのとう、セリなど早春の山菜との出逢いである。
 私は幼少時代を山村で過ごしたので、こうした山菜への思い入れは人一倍強い。来月の山行きを待ち切れず、今日は山菜を求めて奥多摩を歩いてみた。心当てにしていたイタドリ、タラの芽は時季が早く、僅かにスイバの若芽を得ることができた。沢の水で洗い、ポケットに用意した塩を付けて食べる。仄かな酸味が少年の日を思い起こさせる。そのころ、山の子たちは、みんなポケットに塩を入れて持ち歩いた。菓子屋などは無いから、お腹は空けばトマトヤキュウリに塩を付けて食べた。私はなぜか酸っぱいものが好きで、専ら青梅、イタドリ、スイバなどがオヤツだった。上掲句のすかんぽは、スイバ(酸葉)のことである。地方によって呼び名が異なり、私の田舎ではスイバはスイッパ、イタドリはイタンコと呼んでいた。
 季語としては酸葉の他に酸模(すいぼ)もあるが、先人の作品を見ると圧倒的に すかんぽが多い。それも、次掲のように羇旅の句が多い。どこのでも生える強さと仄かな酸味が旅愁を誘うのであろうか。

   すかんぽや竿をたくにに潮来舟(柊花)
   すかんぽや紀ノ川堤高からず(進)
   鞠子宿すかんぽを折りとろろ待つ(綾子)
   吹き降りのすかんぽの赤備前なる(計次)

 国民学校世代の私は、さすがに唄った覚えは無いが昔の尋常小学校唱歌に北原白秋作詞・山田耕筰作曲の『酸模(すかんぽ)の咲く頃』という歌があった。戦後も一部で唄い継がれていたようで、歌詞の「尋常科」を下のように「一年生」に読み換えて唄っていたそうだ。

   土手のすかんぽ、ジャワ更紗(さらさ)
   昼は蛍(ほたる)が、ねんねする
   僕ら小学一年生
   今朝も通って、またもどる
   すかんぽ、すかんぽ、川のふち
   夏が来た来た、ドレミファソ

 話は戻るが、ポケットに塩を入れて持ち歩きスイバやイタドリを食べる話が木下杢太郎の随筆「すかんぽ」に出てくる。1945年5月に雑誌『文芸』(河出書房)に発表したものである。終戦の3か月前、木下自身は既に胃癌を発症していた。下に掲げる随筆の文末に「一箇月以來胃腸に疾を得、可食の雜草からは遠ざかつてゐる」と書かれているのは、そのことである。そして10月に亡くなる。享年60歳。そうした状況の中で書かれた随筆と思うと、片言隻句が胸に迫る。かなりの長文で、加えて旧字体・旧仮名で書かれているので読みにくいかもしれないが、時代の激流の中、自らも迫る死を知りながらも悠揚迫らぬ詩人の生きざまを感じる。関心のある方は、ぜひ読んで戴きたい。そう思って、敢て全文を紹介する。
          ________________________________________________________________________________
    

       「すかんぽ」       木下杢太郎

 字引で見ると、すかんぽの和名は須之(すし)であると言ふ。(村瀬注①)字引和名東京ではといふ。われわれの郷里②ではととぐさと呼んだ。漢名は酸模または蕺蕪(そんぶ)である。日本植物圖鑑ではすいばと云ふのが普通の名稱として認められてゐる。今はさう云ふ事が億劫であるから、此植物に關する本草學(ほんざうがく)的の詮索は御免を蒙(かうむ)る。 ③

 震災前、即ち改築前の大學の庭には此草が毎年繁茂して、五月なかばには紅緑の粒を雜(まじ)へた可憐な花の穗が夕映のくさむらに目立つた。學生として僕ははやく此草の存在に注意した。其花の莖とたんぽぽの冠毛の白い硝子玉とを配して作つたスケッチは齋藤茂吉君の舊い歌集の※繪として用ゐられた。此植物は僕には舊いなじみである。まだ小學校に上つて間もない時分、年上の惡少にそそのかされて、春の末、荒野の岡に行つた。
「紙に包んでな、鹽を持つて行くのだよ。」
 臺所の戸棚をあけて、鹽の壺から鹽を出して紙に包むと云ふ事が、この時ばかりはとても難澁な爲業(しわざ)であつた。そこに人の居ないのをうかがつて、またやがてそこに來る人のけはひのせぬのを確めて、臺所の押入の戸をあけるのである。 匙が壺の縁に當つて鹽の粉が敷居の上にこぼれる。指先につまんで紙に取つてもなかなか取りきれない。人の足音がし、急いで懷に入れた紙の袋から懷の中に鹽がこぼれたらしい。
「お前何をしてゐる。」
 母だつたので安心した。何も返事をしなかつた。萬が一の爲めに辯解の用意はしてあつた。水が飮みたくなつたからコップを出さうと思つて鹽の壺をたふしたと云ふのである。然し其戸棚はコップのしまつてある戸棚ではなかつた。下男と女中とが話をしながら臺所の庭にはひつて來た。
「おはつ、正吉が鹽をこぼした。片付けてやんなさい。」
 下男は、假にここに正吉と呼ぶことにした僕の顏を見て笑つた。僕の企を推量したのであらうと思つた。此下男は一昨年、僕が始めて東京に往つたとき、僕をおぶつて山越をした男である。峠の山ばたで「すいは」といふ灌木の葉を取つて僕に食はしたことがあつた。その「すいは」と云ふのはここに云ふすかんぽではない。はつきりとは覺えてゐないが、どうだんつつじのやうな小さい葉であつたと思ふ。
 臺所の煤でてらてらと黒光のする大きな戸の表には、赤と黒との字の刷られた柱暦が貼つてあつた。
 さうして外へ出て、兼ねて打合はせて置いた場處で惡少と會ひ、一緒に低い岡に登つて行つたのである。道端には小さな川が流れてゐるが、水が甚だ好く澄んでゐる。今はもうさう云ふものが無くなつた。だが二十前年頃までは、誰が植ゑたのか、ひとりでに生えたのか、葉の長い石菖が繁茂してゐた。子供たちは無論、村の人も其名をば知らず、「めはじき」と子供は呼んでゐた。その花の穗を採つて屈めて、上下の眼瞼に張り赤目をする遊戲があつた。「めはじき」の名は多分それから出たのであらう。別に本當のめはじきと云ふ草の有ることは後年に至つて之を知つた。
 このきれいな小川を見ると、「水番水を頂戴」と云ふ言葉が必然に思ひ出されるのであつた。母の話に、母がまだ少(わか)く、この道の上の禪宗のお寺の寺子屋に通つてゐた頃には、手習の水番と云ふものがあつて、この川まで水を汲みに下りたと云ふ。水番と云ふ制度は、われわれが小學校へ入る少し前までは、小學校にも殘つてゐた。
 菫と云ふ花をも此川の縁で覺えた。寺にお會式の有つた春の夕、祖母と此坂路を降つて來ると、祖母が、「ああここにはこんなに菫が咲いてゐる。それが菫といふ花だよ」と云つて教へてくれた。花に嗜好を持つてゐたのではなかつたが、此紫色の小さい可憐な草花をばかくて夙(はや)くから覺えたのである。
 後年、ひめりんだうとほととぎすとを見付けたのも此路の傍であつた。ほととぎすはその花瓣の斑(ふ)が普通のものとは異つてゐた。いづれも唯一株だけ生えてをり、その附近には同じ花を見なかつた。水の溜つた田のわきにはおほばたねつけばなのの」は底本では「おほばたねつけばなの」]聚落が有つた。おらんだせりに似るこの十字花科植物の一種の風味有つて食ふに堪ふることは、今年始めて之を知つたのである。

 さて、前に話した鹽はこれからいり用になるのである。この川に添うて、またかのすかんぽが簇生して居り、幼年の者しばしばそれを嗜むのである。花の莖の太く短く、青女(あををんな)の前膊(ぜんぱく)の如き感じを與へるのが最も佳味であつた。その折れ口に鹽をつけて食ふと、一種の酸味と新鮮のにほひとが有る。柄の太い嫩葉は鹽を振りまぜて兩掌の間に摩んで食ふのである。緑色に染まつた手をば川の水で洗ふ。いたどりもこの川の縁に生えてゐたがアスパラガスのやうに太く軟い莖は、もつと山深くはひらないでは見出されない。
 かかる因縁の有るすかんぽだから學校の庭にそれを見付けると、ああこんな處にも生えてゐると思つて、なつかしく感じたわけであつた。そして試みに其一莖を取つて口に入れて見ると、唯酸いばかりでたいしてうまいとも思はなかつた。子供の時とおとなになつてからとは味感も變つて來るものかなと其時は考へた。

 話はまた小學校時代に戻るが、やはり春の終りの頃、山※りをする父に從つて山澤の杉、新墾の傾斜地の檢分に往つたことが有る。家からは下男も一緒であり、途中からは、山の番を頼んである「宗さん」といふ人が加つた。杉の樹の檢分と云ふやうな爲事(しごと)はちつとも面白くなく、退屈し切つたが、その時、澤のきれいな水のほとりで喫した中食の事をば、いまでも朦朧と囘想することが出來る。
 竹の皮を擴げるとま白い米の三角の握飯が三個現はれて來る。其一面にはつぶさない味噌が塗つてあり、その一部分が黒く焦げてゐる。わきにうす赤い肉の鹽鮭の切身と竹の子の煮たのとが添へてある。
「はれ、お前の辨當には箸がついてゐないな。」
 さう云つて父は立ち上り、近くの若葉をつけた灌木から、素直にますぐに伸びた一枝を切り取り、丹念に其皮を剥がし、先端を尖らしてくれた。「さあ、これで食べなさい。」
 當時は寄生蟲の害などと云ふ事をまだ世間の人が注意しなかつたので、山※りの人は皆この清冽な澤の水でもつて辨當を使つたのである。父と僕とは茶のみ茶碗に盛つて飮み、他の人は手ですくつて飮んだ。新しく作つた箸は生々とした晩春の臭ひをただよはした。
 これ以上くはしくは其時の光景や人の爲業(しわざ)を思ひ出すことは出來ない。これだけの事を思ひ出すのも、これから話すすかんぽからの聯想ゆゑである。
「お前あれを知つてゐるか。」と父が云つて指さした。
 水の流の一方にさはさはと、其すかんぽの一群が繁茂してゐたのである。それから高まる莖は太く、みづみづしく、いかにも軟かさうである。折つたらぽかりと音を立てて挫(くじ)けさうである。
「あれは食べられるよ、知つてゐるか。」と父が再び問うた。
 言下に「さうかね、たべられるのかね」と僕が答へた。そして、その積りでもなかつたが下男の顏を見た。下男の顏は僕に取つて堪へられない表情が浮んでゐるやうに邪推した。
「一本取つてたべて見な。澤山食ふと毒だが、一本位構はなからう。食べたことが無けりや一つ食べて見な。」
 そして父は數莖を取つて一座の中央に置いた。鹽がなかつたから、握飯の味噌の一ひらを取つて附けて食べた。
 すかんぽに關する第二の話は正味これだけである。もはや其時からはあまりに長い歳月が經過してゐる。青年時代にはまだ樂しい囘想であつた此時の光景が、今では唯一兩百語で話し盡される事柄以外では無くなつてしまつた。

 中學から高等學校、それから大學と、われわれの仲間には繪事や文學を好むものが少からず居た。時世が時世であつたから、大學生の時代には學外の新詩社、方寸社等の人々とも其道でのつき合ひをした。しやれて云へば、文酒の會といふべき事も時折り行はれた。「屋上庭園」といふ三號雜誌を刊行したのもその頃の事である。
 大學を卒業した。さうすると專門の學問と日々の業務とが待つてゐた。更に一二年すると同好同學の伴侶にも都門を去つて遠く任に赴(おもむ)く人さへも出來て來た。會者定離(ゑしやぢやうり)の悲が葉櫻の頃には心を動かした。

「ふるき仲間も遠く去れば、また日頃顏合せねば、知らぬ昔とかはりなきはかなさよ。春になれば草の雨。三月、櫻。四月、すかんぽの花のくれなゐ。また五月にはかきつばた。花とりどり、人ちりぢりの眺め。窓の外の入日雲。」

 さう云ふ述懷を作つたことがある。後に山田耕筰君が作曲してくれ、ラヂオでも時々唱はれた。もはや其時の感傷もなく、他人事のやうに知らぬ人の歌ひ彈ずるを聽聞した。
 殊にひそかに此歌を獻じた一友とは、大正末年以後唯二囘遭遇しただけである。一生のうちにも一度會へるかどうか疑はしい。會つたところで、往事、黒田清輝先生の處からその「小督(こがう)」のデッサンを借りて來て互に感奮して話し合つたやうな氣分は到底|釀し出されぬのであらう。

 所がすかんぽの話に後日譚が湧出した。それがまたこの藥袋(やくたい)も無い雜文を書く機縁にもなつたのである。僕は滿洲時代以後植物の醋葉(すいば)を作る道樂を覺えた。然し決して熱心な蒐集家ではなかつた。唯往年支那を旅行して集めたものは、當時理科大學に勤務してゐた大沼宏平さんと云ふ老人に鑑定して貰つた。この人は學者ではなかつたが、アメリカのヰルソンなどと云ふ人が、日本の植物を採集に來た時も案内者に選ばれたほどで、日本の植物の名をば好く知つてゐた。支那産のものは屬名は分つても大半は、直ぐと種名は判じ難かつた。「支那南北記」や「大同石佛寺」のうちに植物の事を顧慮することの出來たのは、洵に是人のお蔭である。
 東京に出てからは、朝比奈泰彦教授の引合せで久内清孝君を識ることが出來、僕の植物採集は始めてまちやうになりかけ、學生を使嗾して一緒に採集に出かけたりしたが、一つは年齡のゆゑ、後には時勢のゆゑで、折角の樂しみは成育を礙碍(がいがい)せられた。
 昨年以來はこの乏しい知識に、時節柄、實用性を與へようと思ひ、食べられる野草の實驗に指を染めて見た。もう救荒本草類の圖書を蒐める便宜もなくなり、專ら親試に頼るのみである。そして既に五十幾種かの自然生の葉莖を食べ試みた。少し煩瑣(はんさ)に亙(わた)るが、その名を、思ひついた順序に書き附けて見よう。
 ハコベ。ウシハコベ。タンポポ(葉と根と)。オニタビラコ(葉)。春如※。タチツボスミレ。枸杞(くこ)(葉)。イロハカヘデ(葉)。山吹の新芽。藤の芽と蕾。榎(えのき)の新芽。ギバウシユ。ナヅナ。ヤブカンザウ(新芽)。ツハブキ(莖)。雪の下の嫩葉。ミミナグサ。スズメノヱンドウ。ヒルガホの嫩葉。ツクシ。アカザ(嫩葉及び果實)。 カタバミ。ネズミモチの實(炒(い)り粉にしてコオヒイの代用)。ヨメナの新芽。椋(むく)の新芽。桑の新芽。柿の新芽。オホバコ。イヌガラシ。オホバタネツケバナ(水上の葉)。ヰノコヅチの新芽。トトキ(ツリガネニンジン)。スズメノヤリ。イヌビエ。ユヅリハの新芽。ジヤガタラ薯の新芽。ハマビシヤ(ツルナ)。ツユクサの嫩葉。スベリヒユ。クサギの嫩葉。スミレ。ツボスミレ。カラスノヱンドウの莢(さや)等。
 ここは其の處でないから其調理法や風味の事はあげつらはない。唯優秀と思はれる數種についてのみ、少しく説明する所があらう。
 トトキ、ヤブカンザウ、ギバウシユ、ヨメナ、雪の下、オホバタネツケバナなどは雜草と云つても、昔から風流の意味で人が嗜(たしな)み、世間の評價も既に定まつてゐる。ヤブカンザウの新芽、オホバタネツケバナなどは栽培の野菜に劣らざる味を有してゐる。
 ツユクサの新芽は今年始めて試みたが、大に推奬するに足りるものである。佳品としてはアカザの實のつくだ煮を擧げたい。紫蘇の實、唐辛(たうがらし)の實を少し雜ぜて之を作ると、朝々の好菜となる。次にはタチツボスミレの天ぷらである。粘液質で、齒當りが甚だ好い。太いタンポポの根もいろいろと使ひ道の有るものである。
 可食野菜の事は先づこれぐらゐにして置かう。相當に念を入れて食べ試みたから話すことはまだ澤山有るが、たいして詩的のものではなく、同好の人と談ずべく、世間に吹聽(ふいちやう)するまでの氣にならない。また吹聽するにはもつと十分の用意がいる。量と質とに於て、實際長期に亙る補助食物としての資格が有るか。榮養價は果して幾何(いくばく)。いまだ檢出せられざる微量の毒物を、含有してはゐないか。是等の問題はまだ詳しくは研究せられてゐず、僕としてさういふ研究に入りこむ餘裕を持つてゐるわけではないのである。

 それで最後に殘つたすかんぽの話へと急ぐ。別にこれと云ふほどの事の有るのではなく、唯幾十年ぶりかにそれを食べて見て、「白頭江を渉つて故郷を尋」ぬる人の如き一種の感興を得たと云ふに止るのである。
 大學構内の公開の場所には今やどこにもすかんぽは見つからなかつた。恐らくは大震災後根が絶えたのであらう。所が農學部の裏門からはひる小徑のわきの地面に其|聚落(しゆうらく)の有ることをふと見付けたのである。花莖はいまだ甚だ伸びず、なほ能(よ)く水分を藏し葉柄(えふへい)もかなり太かつた。數日後の夕、寄道してその少許(せうきよ)を採取し、クロオルカルキとか云ふもののうちに漬くること一日、之を短く切つて、まだ廚房に少し殘つてゐた油と鹽とを點じて食べ試みた。そしてその酸き味のあとに舌に觸れる一種の※澤(きやうたく)に邂逅して、忽然として疇昔(ちうせき)の情を囘想したのである。
 すかんぽの話は之を以て終る。一箇月以來胃腸に疾(しつ)を得、可食の雜草からは遠ざかつてゐる。
          ____________________________________________________________________________
 
 木下 杢太郎(きのした もくたろう)1885~1945。静岡県生まれ。東大卒、本業は医師、東大教授などを務める傍ら、詩、随筆などを著す。植物に関する造詣が深く、自らのスケッチを付した『百花譜』(岩波書店)がある。「パンの会」の世話人として与謝野鉄幹、北原白秋、吉井勇、上田敏、永井荷風、小山内薫、高村光太郎、武者小路実篤、谷崎潤一朗、岡本一平などと親交があった。(村瀬 記)

*村瀬注① 原文ではルビ(他も同じ)。
〃② 木下の故郷は静岡県伊東市湯川。
〃③ 江戸時代の古書『大和本草』には酸模と書いてスイバと読ませ、『和漢三才図会』には俗にスカンボと呼ぶと言う記述がある

         (写真:スカンポとスカンポの花。右端はイタドリ)









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坂本絢世さんの詩―手紙

              2010_0317_142956-DSC_0122.jpg

    手紙   坂本絢世(帆翔同人)

 手紙を書くことはなかったのに
 美しい万年筆を持っていた
 言葉を余るほど持っていたのに
 文字にすることはなかった

 時間が来ると灯る庭の隅の
 ガス灯のような明かりが嫌いだと言った
 明かりは自らの手で灯すもの
 告白は目の光で
 ささやきは指先のピアニシモ
 そして
 声は世界に向けて
  
  (ブラウン管の中では
   戦禍の中のアフガンの子供たちが
   濡れた瞳をカメラに向けている
   小さな手でレンガを積み上げている
   短くて瞬時に届く
   かくもひたすらな手紙に
   私は返事を書けない)

 手紙を書かなかったひとが
 あの日
 美しい万年筆を
 置いていった
  





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by 杜の小径  at 14:45 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

春愁(つづき)―雁風呂のはなし

カリ4 かり カリ2

   雁風呂の煙は北に流れけり(杜)

 雁風呂と言っても、ご存知ない方が多いかもしれない。先年、都内の或る文芸講座で「雁風呂って知っていますか」と聞いてみたことがある。殆どが首を横に振るなかで、最前列に座っている女子大生が、「雁のシャブシャブですか?」と言った。お嬢さんがなかなかの美人だったので、私は「な~るほど、うまいこと言うねぇ」と笑顔を向けたが、腹の中では(このバカタレが…)と毒づいていた。雁風呂というのは、津軽地方に伝わる哀しい伝説なのである。

 もう40年くらい昔になるだろうか。サントリーが未だ寿屋という社名だった頃、作家の山口 瞳は同社の宣伝部に在籍していた。既に『江分利満氏の優雅な生活』で直木賞を獲っていたと思うが、なぜか作家とサラリーマンの二足の草鞋を履き続けていた。その彼がコピーを書き、自ら出演したサントリ-のCMがある。

「月の夜、雁は木の枝を口に咥えて北の国から渡ってくる。飛び疲れると波間に枝を浮かべ、その上に止まって羽を休めるためである。そうやって津軽の浜まで辿り着くと、要らなくなった枝を浜辺に落として更に南の空へと飛んで行く。日本で冬を過ごした雁は、早春の頃再び津軽に戻って来て、自分の枝をひろって北国へ去って行くのだが、後には殺されたり病気で死んだりして帰れなかった雁の数だけ枝が残る。津軽の人たちはその枝を集めて風呂を焚き、巡礼や貧しい人に振る舞って不運な雁たちの供養をしたのだという」 ―こんなナレーションが流れた後、「哀れな話だなぁ。日本人て不思議だなぁ」という山口の声が流れる。
余談になるが、このブログでも度々取り上げた動物画家薮内正幸をサントリーの愛鳥キャンペーンに起用したのも山口だった。
 
 山口がこの伝説をどうして知っていたのかは知らない。江戸中期の本草学者阿部将翁の『採薬使記』という本に同じような話が載っているので、博学の山口はこれを読んでいたのかもしれない。落語にも『雁風呂』という外題がる。或いは落語好きだった山口は落語を聞いて、あのCMを思い付いたのかもしれない。落語の粗筋を紹介しておきましょうか。

 水戸黄門一行が遠州掛川の宿で休んでいると店の屏風に不思議な絵が描かれているのが目に留まった。松に雁が描かれ、松の根元には沢山の小枝が積み上げられている。黄門様は「これは土佐将監光信の筆と見たが、絵の意味がさっぱり解らんのう」と首を傾げていると、横に友を連れて茶を飲んでいた商人体の男が声を掛けてきた。「卒璽ながら、この絵は雁風呂を描いたものでございますよ」と言って、雁風呂の謂れを話してくれた。ご老公は「良い話を聞かしていただきました。さぞかし名のある商人でございましょう。どうぞお名前をお聞かせ下さい」と仰った。男は「実は私は大阪の淀屋辰五郎でございます」と名乗る。「おゝ、有名な淀辰さんでしたか」と言う老公に、男は答える。「世間様にそう呼ばれたこともございましたが、私は二代目。先年、贅沢が過ぎると店をお取り潰しになり、今は大名様にお貸しした金子を反して戴いて細々と暮らしている身の上です。この度も柳沢美濃守様にお貸しした三千両を反していただくために江戸へ下るとちゅうですが、相手は時の大老様ですから多分返しては下さらないでしょう」―黙って聞いていたご老公は、懐紙を取り出すとさらさらと何事か認め、「これを持っていきなされ」と旅の男に渡された。男は藁でも掴みたい心境でしたから、旅の老人から」貰った書状を持って江戸にくだった。駄目で元々と柳沢美濃守の屋敷を訪れると、何と三千両を耳を揃えて返してくれた。もちろん、口止めしてあるから手紙をかいたのがご老公とは知らない。で、話はいよいよサゲに入る。帰途、淀辰は供の番頭に話し掛ける。「どうも不思議なご隠居だったなぁ。あの方の一筆でケチで有名な柳沢様がぽんと貸し金を返してくれはったわい」。すると番頭曰く。「旦那はん、これも雁風呂の絵解きをしてあげなはったお陰でっせ。なんせ、カリガネの講釈をしてあげなさったんですさかい」。

 このサゲがお解りだろうか。雁の古名カリガネと「借り金」を掛けているのである。『雁風呂』は圓朝十八番にも入っていて昔は人気の外題だったようだが、最近は演じる人が少なくなった。黄門様ものでは、やっぱり最後に葵紋の印籠を出して悪代官を平伏させるシーンが無いと駄目で、人情噺風のものは人気が無いらしい。それと雁をカリガネと呼ぶことを知らないと、このサゲは通じない。
 ちなみにカリガネは「雁が音」、すなわち雁の鳴き声から来た言葉のようだ。後撰和歌集(951年)に、次のような歌が見える。
 
   秋ごとに来れど帰れば頼まぬを声に立てつつかりとのみ鳴く.

              ’(写真:右端は山口 瞳さん)





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by 杜の小径  at 02:18 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

春愁―『北帰行』異聞

               あしゅら


    春愁の眉に漂ふ阿修羅像(杜)

 春愁という言葉があります。春という季節が齎す、一種のメランコリックな心理状態です。春愁は季語にもなっていますから、私特有のものではないようです。私の場合、仕事に行き詰まったとか人間関係のごたごたなどという確たる原因があるわけではありません。
極めて漠然とした鬱なのです。なぜだろうと考えてみました。まあ、考えて直ぐに答の出る筈もありませんが…春は命の見える季節。万物が生気に溢れる春だからこそ、有限の命の寂しさを心の奥底で感じるのであろう、と一応の結論を出しています。 

 そんなどきは、阿修羅像の写真を出して眺めます。昨春、国立博物館の展示会で求めたものです。これをじっと見つめていると、気持ちが休まるのです。畏れ多いことですが、同憂の想いが私の心を癒してくれるのです。

                かり2

 私事ですが、来月は忙しくなりそうです。上旬に木曽川源流、中旬に白馬に行き、下旬は奈良・京都を歩きます。27日からは1週間ほど人間ドック入りするので、殆ど家を空けることになりそうです。そのために、今月から近く山野を歩いて足腰を鍛えています。今日は、日帰りで奥多摩を歩きましたが、帰途の小河内湖畔で北に帰る雁の群れを望見しました。一応カメラに収めましたが、っ少しピンが甘かったようです。遠ざかる雁の群れを見送りながら、私は『北帰行』を口ずさんでいました。古い歌です。

   窓は夜露に濡れて
   都すでに遠のく
   北へ帰る旅人ひとり
   涙流れてやまず

 当時流行った歌声喫茶で、『カチューシャ』『カリンカ』などのロシア民謡と共に常にトップ・テンに入っていたのが『北帰行』でした。しかし当初この歌は作詞・作曲者が不明で、宇田博さんと判ったのはかなり後になってからです。昭和15年中国遼東半島(現・中国遼寧省)に旧制旅順高等学校が開校しました。当時、戦時色が次第に濃くなった内地を嫌って大陸に夢を求める若者が増えていました。宇田博もそのの一人で、旅順高1回生として入学しました。ところが軍部の後押しで国策として作られた学校に、自由が在るはずもありません。宇田は学校当局と悉く対立した末、遂に退学処分となります。宇田は学校を去るに当たり、友人たちに一篇の訣別の詩を渡しました。これこそが『北帰行』で、旅順高生によって唄われ、戦後は一高、東大生によって唄い継がれました。宇田は内地に戻って一高、東大を経て東京放送(現-TBS)に入り、常務を務めました。将に“歌に歴史在り”です。旧制旅順高等学校寮歌の原詞は、次の通りです。

   窓は夜露に濡れて
   都すでに遠のく
   北へ帰る旅人ひとり
   涙流れてやまず

   建大一高旅高
   追われ闇をさすらう
   汲めど酔わぬ恨みの苦杯
   嗟嘆ほすに由なし

   富も名誉も恋も
   遠き憧れの日の
   淡き望み儚き心
   恩愛我を去りぬ

   わが身容るるに狭き
   国を去らんとすれば
   せめて名残りの花の小枝
   尽きぬ未練の色か

   いまは黙して行かん
   何をまた語るべき
   さらば祖国 我がふるさとよ
   明日は異郷の旅路
 
 帰宅してテレビを見ていたら、寝台特急「北陸」のラスト・ランに“撮り鉄”が殺到しているニュースを放映していた。「北帰行」が、また一つ消えた。(この項―春愁―は続きます)











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by 杜の小径  at 01:32 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

Ryokaさんのライブ、そして…

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 久し振りに、六本木ボストン ドリ-ムスで開かれたRyokaさんのジャズ・ライブに行く。昼間開いた異分野交流会で一緒だった彫刻家Оさん、陶芸家Sさんも同行する。デビューして4年目、着実に固定ファンが増えているようで、客席から思わぬ人から声を掛けられた。そういえば私は雑用に追われて、彼女のライブに来たのは半年ぶりだった。
 三部構成で、途中でピアノ奏者萩原えりこさんとゲスト・シンガー翠さんが1曲ずつ唄ったが、殆どRyokaさんが一人で唄い通した。ベース大西慎吾さん、ピアノ萩原えりこさんと呼吸もぴったりでライブのクォーリティーが一段と高くなっていた。例えば「Day by day」などは十人近い日本人歌手がコピーしているが、彼女自身の個性で見事に唄いきっていた。「Somebody loves me」は抑えた歌唱法が利いて、漂う哀感に今は亡きベティー・ハットンを偲ぶことができた。「September rain」も印象に残った。これも太田宏美、守谷 香などがカバーしている名曲だが、単なるコピーに終わらないで個性豊かに唄いきっていた。アットホームな雰囲気で、気持ちの良いライブだった。

 同行者の帰途を心配して三部に入る前に会場を辞したのだが、これがいけなかった。途中で引っ掛かって、気が付いたら零時を回っていた。タクシーを飛ばして我が家に辿り着いた時は1時過ぎ。みなさんは無事に帰れただろうか。いや、帰れたとしても家に入れてもらえただろうか。







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by 杜の小径  at 02:36 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

佐保姫恋し

              聖武天皇

   ちらと見し 脛(はぎ)の白きは 佐保姫か(杜詩)
   
   佐保姫の 和肌(にこはだ)恋し 今朝の雨(〃)

 佐保姫(さほひめ)は、春の女神です。二、三日前に美しい姿をちらりと見せてくれましたが直ぐに姿を隠し、今日は冷たい雨が降っています。女性は、やっぱり気まぐれですね。ところで、何故に佐保姫を春の女神と謂うのでしょう。五行説では春は東の方角に当たりますが、平城京の東に佐保山が在ったことから其処に住む女神 佐保姫を春の化身としたのです。ちなみに、これは竜田山に住む竜田姫を秋の女神と呼ぶことと対をなしています。佐保姫は古くから詩歌に登場し、南北朝時代の歌人 二条為重に次の歌があります。(写真は聖武天皇陵のある佐保山)

   佐保姫の霞の衣おりかけてほす空高き天の香具山(新後拾遺和歌集)
 
 佐保姫サマは近代になってからも以下のように様ざまな形で登場しますが、時代が進むにつれてだんだんお姿を拝する機会が少なくなったのは残念です。

   君を送りて花近き高楼(たかどの)までもきて見れば
   緑に迷ふ鶯は霞空しく鳴きかへり
   白き光は佐保姫の春の車駕(くるま)を
   照らすかな(島崎藤村「晩春の別離」の一節)

   佐保姫の別れかなしも 来ん春に
       ふたたび逢はん われならなくに (正岡子規)

                 栞草

 俳句の世界でも、佐保姫は季語として定着しています。初出は『栞草』(写真)です。これは『南総里見八犬伝』『椿説弓張月』などの読本作者として有名な江戸時代の戯作者 曲亭馬琴の纏めたものを、藍亭青藍が季語及び解説・例句を加えたものです。これは俳諧季寄せの最高峰とされ、岩波文庫に復刻されていますから興味のある方はご覧になって下さい。

   佐保姫も襷(たすき)かけけん草の餅( 尾崎紅葉)

   佐保姫の誰を召すとや呼子鳥( 巌谷小波)

   佐保姫の梢を渉る落花かな (日野草城)


                さほやま

 謡曲にも佐保姫が登場する『佐保山』(世阿弥作)があります。藤原俊家(ワキ)が奈良の春日明神に参詣すると、佐保山に霞が見えるので登ってみます。すると、里の女(前シテ)が縫い目の無い布を晒しています。女は春の女神 佐保姫と名乗ると、霞の袖に隠れて消えてしまいます。場面変わって俊家が仮寝をしていると、妙なる音楽が聞こえ花が降り注ぎ、月の光の中に佐保姫(後シテ)が現れて霞の衣を翻して舞い続けます。







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パイプと風邪薬

      あパイプ   あられ


   庭潦あっといふ間の二月尽(杜詩)

 昨夜の雨で庭にできた庭潦(にはたづみ=水溜り)が、昼ごろにはすっかり乾いていた。同じように、あっという間に二月が終わってしまったという感慨を一行詩に纏めてみた。二月が普通の月より二、三日少ないからだろうか。それとも春を待つ気持ちが強いからだろうか。或いはオリンピックの終幕と重なったせいかもしれない。気がついたら三月になっていた。

 二、三日前から風邪気味でくしゃみが出る。殆ど風邪をひかない私としてが珍しいことだ。たいしたこともないだろうと放っておいたら、声が出なくなった。薬局で「いちばん効く風邪薬を下さい」と言ったら、「全部効きますが…」と言われた。迷った末に「新ルルゴールド」を買う。「新」が付けば新しいだろう、ゴールドはシルバーより良いだろうという明快な理由からである。
 風邪の原因は家政婦の小塩夫妻にある。雨で「ピース」を切らしてしまい、専らパイプ煙草を吸っていた。普段は「half and half」だが、これも切らしたので昨夏に美智代がアメリカ土産に買ってきてくれた「blue note」という銘柄を吸ってみた。blue noteとは音階で半音下げた音のことで、ブルースの特徴的な音である。同じ名前のコンサート・ホールがアメリカや六本木にある。これを吸い過ぎたので、黒人シンガーみたいな声になったに違いない。そのくせ美智代は「先生、煙草止めなさいよ」と、うるさく言う。自分が煙草を差し入れておいて、そんなことを言うのは矛盾してないか。もう一つの原因は美智代の旦那にある。室内の蛍光灯すべてを新型のLEDに付け替えてくれたのはいいが、作業中に「暑い、暑い」と言って暖房を切り、そのまま帰ってしまった。だから風邪がいっそう悪くなってしまったのである。―こんなブログ見たら、もう来てくれないかもしれないな。

「風邪治るまでお風呂はだめですよ」と言われたが、せっかく浴槽をピカピカに磨いてくれたのに入らないのは悪いと思い、夜中に入浴する。入浴剤は体がぬるぬるして気持ちが悪いと言ったら、豆腐を作るときに使うニガリをどこかで見つけて10本も持ってきてくれた。なんだかんだ言っても、二人には感謝している。前言は取り消しておこう。風呂に入りながら、「パイプと風邪薬」というヘッドラインが浮かび、これが気に入ってブログを書き始めたのだが、結局はこの程度のものしか書けなかった。原稿ならボツにするところだが、近況報告を兼ねてこのままリリースする。
 
 米屋に配達をお願いしたら、雛霰が御負けについてきた。そういえば明日は雛祭だな。茶請に二、三粒を口に入れると、さくとした歯触りが心許ない。雛霰は色も薄く果敢ないのは、なぜだろうか。残りは今朝の散歩で野川の鴨にあげよう。
  
   さくとした
   雛あられが
   嫌い
   母に甘えし記憶
   我になく(杜詩夫)

   散らばれば くれなゐ薄く 雛あられ(杜詩)
 

*お願い
 またPCが故障して、アドレスが滅失してしまいました。
まことにお手数ですが、メール・アドレスを改めて教えて
下さいませんか。見出し、本文を「テスト」とされて私の
個人アドレスに送信して下されば幸甚いです。杜詩夫 拝







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