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酒のうた

   
  山よりも星座が近し冷やし酒(杜詩夫)
 
 今年の4月、白馬のヒュッテでスバル星座を眺めながら酒を飲んだ。今年は例年より残雪が深く出来れば熱燗にしたかったが山中で酒を温める手立てが無く、已む無く冷酒となった。だから正確には「冷やし酒」ではなく、「冷えた酒」とすべきだったろう。
 話は前後するが、このブログで酒の話をするのは、たぶん初めてではなかろうか。ときどき、俺は酒好きだろうか、酒飲みだろうかと自問することがある。これまで酒を飲んで
泥酔したことがない。言葉を換えるとシンから酔えないのである。かと言って、毎日飲まないと辛抱できないということはない。ところで泥酔の泥を どろどろした土、mudだと思っている人が多いが、実は中国の南海に棲む骨の無い動物なんだそうである。誰も見た人はいないから、架空のものだろうが…。
                
  わが想ひ われに語りて冷やし酒(杜詩夫)

「われに語りて」だから、もちろん独り酒である。この街へ越して来て8年になるが、これまで馴染みというほどの店は無かった。最近になって、やっと小さな居酒屋を見つけた。ごく普通の店だが、客筋がいい。今までのところ、大声で騒ぐ酔客に逢ったことがない。
化粧が薄くて口数の少ないママも気に入っている。

   雪降る夜はすべもなく寒くしあれば堅塩を取りつづしろひ糟湯酒(山上憶良)

 万葉集などにも酒の歌が出ている。この歌の糟湯酒とは、糟を精製しない粗製のドブロクのようなものであろう。古代では処女が飯(いい)を口中で噛んで発酵させる「噛酒」があったという。明眸皓歯の乙女が噛んだ酒を、一口飲んでみたい気もする。しかし先年、潮来の娘船頭の舟というのに乗ったら七十歳の婆さんだった例もある。噛酒の試飲はやっぱり止めておこう。

   白珠の歯にしみとほる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり(若山牧水)
   酒飲めば涙ながるるならはしの それも独りの時にかぎれり( 〃 )
 
 前田夕暮は牧水の歌に対し、「彼の行くところ山河あり、山河あるところ彼と酒とがあった。酒によって彼は彼の悲しみを深め、彼の純情一路の心境を研いた。秋の夜の孤独感が酒によって如何に慰められているか、冷たい響きと匂とを持っているこの歌によく流露されている」と記している。
 牧水は毎日一升以上の酒を飲み、43歳で早世した原因も肝硬変だった。夏の暑い盛りに死亡したのにもかかわらず、死後しばらく経っても死体から腐臭がしなかったため、生きたままアルコール漬けになったのではと医師を驚嘆させたとの逸話がある
 酒に生き酒で死んだ牧水を語るとき忘れてならないのは、妻で歌人の若山喜志子の存在である。次の二首には彼女の想いが籠められている。

   にこやかに酒煮ることが女らしき つとめかわれにさびしき夕ぐれ(若山喜志子)
   さびしければ共にすすめて手にもとる 盃なりき泣かんとぞ思ふ  ( 〃 )

「酒のうた」について書き出したら、キリが無い。記憶に残る作品だけを挙げておく。外国については、中国とアメリカの詩を一つずつ記して、この稿を閉じる。

   死ぬばかり我が酔ふを待ちていろいろの悲しきことを囁きし人(石川啄木)
   かの君の酒に酔ひけるよ人は知らじな酒のかなしみ(吉井勇)
   冷酒を口に含みて読み継げり詩はぐさぐさの死への歩(佐々木幸綱)
   焼酎の酔いのさめつつ見ておれば障子の桟がたそがれてゆく(山方代)
   渋谷川の音きこえくる居酒屋にひとりきて酌む北の国の酒(宮柊二)
   にわか雨を避けて屋台のコップ酒人生きていることの楽しさ(俵万智)

 中国には王維、王翰、杜甫と酒仙詩人が多く何れも兄たり難く弟たり難いが、今宵は于武陵の詩「勧 酒」にとどめを刺す。詩もいいが何よりも井伏鱒二の訳詩が傑作だ。
                      【井伏鱒二の訳詩】
  勧君金屈巵  君に勧む 金屈の盃    コノサカヅキヲ受ケテクレ
  満酌不須辞  満酌辞するをもちひず  ドウゾナミナミツガシテオクレ
  花発多風雨  花ひらいて風雨多し    ハナニアラシノタトヘモアルゾ 
  人生足別離  人生別離足る      「サヨナラ」ダケガ人生ダ   

 英詩では「Days of Wine And Roses」(酒と薔薇の日々)が心に残る。同名の映画の主題歌で、アンディ・ウイリアムスが唄い、アカデミー主題歌賞を獲った。ちなみに、主演はジャック・レモンとリー・レミックだった。
  
   The Days of Wine and Roses
   
   Laugh and run away
   Like a child at play,
   Through the meadowland toward a closing door,
   A door marked Never-more,
   That wasn't there before.

   The lonely night discloses
   Just a passing breeze
   Filled with memories
   Of the golden smile that introduced me to
   The Days of Wine and Roses and you
 
    【訳】酒と薔薇の日々
   酒とバラの日々
   遊び子のように
   笑いながら駆けていく。
   閉まりかかる扉に向かい
   草原を横切り
   “もはや再び”と
   前にはなかった文字が
   刻まれた扉へ。

   寂しい夜のしじま、
   酒とバラとあなたへの
   出会いをくれた
   光り輝く微笑みの思い出が
   いっぱい詰まった風
   やさしく吹き抜け
                    
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by 杜の小径  at 00:30 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

あまり有名でない俳人 嶋田青峰のこと

 25日のブログで秋元不死男を取り上げたとき、近日中に彼の師である嶋田青峰について書きますと約束した。忘れないうちに約を果たしておこうと思う。
 ところで、嶋田青峰と言っても知らない人が多いだろう。彼が秋元不死男に俳句の手ほどきをしたこと、新興俳句運動に理解を示していたというだけで「治安維持法」による新興俳句派に対する弾圧事件「俳句事件」に連坐して起訴されたことなどは、前に述べた。
「わが影や冬の夜道を面伏せて」―この不吉な句が暗示するように、青峰は67才の老体で早稲田署に検挙され、肺結核が再発して留置場で朝4時すぎに喀血したのに昼過ぎまで手当もせずに放置され、ようやく夕刻近くに帰宅を許されたが、その後一度も立つことができぬまま死んでいった。嶋田青峰の俳句は、次のように詩情と哀感に満ちたものが多かった。
   
   工女らに遅日めぐれる機械かな
   蛇打つて森の暗さを逃れ出し
   出でて耕す囚人に鳥渡りけり
   曝書しばし雲遠く見て休らひぬ

 彼に限らず、言論弾圧の被害者に新興俳句運動の関係者が多いことは一つの謎である。それを解くキイが彼の経歴にある。青峰は1908(明治41)年、国民新聞社に入社、高浜虚子のもとで文芸欄を担当。虚子退社の後を受けて学芸部長となった。 またその間、俳誌『ホトトギス』の編集を助けていたが、1922(大正11)年、篠原温亭とともに『土上(どじょう)』を創刊。温亭が没した1926(大正15)年以降は「土上」を継承、主宰者となった。その頃から新興俳句運動に理解を示し、また影響力をもつようになった。はっきり言えば『ホトトギス』、即ち虚子の敵となったのである。その背景を推理してみよう。
 
「春風や闘志抱きて丘に立つ」―まるで中学生並の駄句だが、実はこれ子規の死後は小説に没頭していた虚子が10年ぶりに俳壇に復帰したときの作である。「志抱きて」とは、新傾向俳句ノリーダー河東碧梧桐への対決の決意を表している。不倶戴天の関係といわれる虚子と碧梧桐だが、ある時期までは兄弟以上の仲であった。旧制伊予中学(現・愛媛県立松山東高校)の同級生で、京都の三高時代は寝食を共にし、その下宿を「虚桐庵」と名付けるほどだった。訣別の原因は守旧派の虚子と新傾向を探る碧梧桐との俳句観の違いとされているが、両者にはもっと生臭い出来事があった。虚子は碧梧桐の入院中に、彼の婚約者だったた大畠いと(糸子)を横取りし、結婚してしまう。また虚子は子規の後継者として俳壇に確固たる地位を築くが、自らの死がちかいことを悟った子規が後事を頼んだときには「大兄の鋳形にはまること能はず」と一旦は断り(道灌山事件)ながら、子規の死後はちゃっかり後釜に座っている。虚子は、そんな男だった。
 
 余談になるが今年 第51回毎日芸術賞を受賞した金子兜太も、青峰の弟子筋に当たる。彼が青峰主宰の『土上』に入門したのは昭和15年(21歳)で、「葡萄の実みな灯を持ってゐる快談」の句を、青峰は「胸のすくような爽快な感じが溢れている」と評している。翌年2月号で青峰は「遅刻見に山羊鳴き鶏は首かしげ」「訃に急ぐ雀鳩など飛び立たせ」などの兜太の句を激賞するが、その直後に検挙され、『土上』は終刊となる。この年、兜太は東大へ入学、加藤楸邨主宰の『寒雷』に入会する。私事になるが兜太と共に『海程』を興した原子公平(東大卒、句集『浚渫船』『酔歌』、評論集『俳句変革の視点』など)は『寒雷』を通じて個人的に親しくして戴き、たまたま勤め先が小学館ということもあって、足の不自由な公平さんと殆ど毎朝、高田馬場から神保町までタクシーを相乗りした思い出がある。

 本題に戻るが、新興俳句が激しく弾圧されたとき、虚子は日本文学報国会俳句部会の会長だった。この会がどういう会だったかは、1943年4月に九段の軍人会館で開かれた第一回文学報国会の議題が「米英撃滅と文学の実践」であったことを見れば明らかだろう。弾圧を指揮した内閣情報局が、文学報国会と相談しないわけはない。そればかりか新傾向俳句の台頭に危機感を持っていた虚子が、ある種の情報を出して弾圧を行わせたという見方もある。新興俳句弾圧の真相は、いつの日にか明らかにされるのだろうか。(写真:故郷の志摩市磯部町の的矢神社に建つ青峰の句碑「日輪は筏にそそぎ牡蠣育つ」)






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by 杜の小径  at 18:54 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

不死男忌(甘露忌)


 25日は俳人 秋元不死男の忌日。甘露忌は、彼の句集枚名に拠るもの。本名は秋元不二雄、終戦前までは東 京三と号した。西東三鬼と共に新興俳句の旗手として活躍した。戦時中の新興俳句運動は、コミンテルン及び日本共産党を支援する危険な文化運動と位置づけられ激しく弾圧された。秋元不死男も師の嶋田青峰と共に治安維持法違反で2年間投獄された。弾圧の背景などについては近日中に「嶋田青峰」で取り上げる予定だが、不死男の場合は次のような作品が問題視された。当時は東 京三という俳号を遣っていた。

   戦争へゆくかも知れぬ落葉焚く(京三)
   戦死者の子と見るシネマ人斬らる(〃)  

 また東 京三という号が「京三東=共産党」の暗号ではないかと疑われるなど、常軌を逸した取締りぶりだった。
 以下は、私が勝手に選ばしていただいた不死男の代表句である。

   冬空をふりかぶり鉄を打つ男                 
   独房に林檎と寝たる誕生日
   歳月の獄忘れめや冬木の瘤            
   鳥わたるこきこきこきと罐切れば
   今日ありて銀河をくぐりわかれけり          
   つばくろや人が笛吹く生くるため
   ライターの火のポポポポと滝涸るる          
   口中へ涙こつんと冷ややかに             

                        

 上の写真は富士霊園にある、生前に自ら求めた不死男の墓である。『氷海』に、その時の句「富士の根にわが眠る鳥わたりけり」が収載されている。先祖伝来の菩提寺は埼玉県戸田市の妙厳寺にあるので、この墓には分骨されてある。花も何もないスッキリとした墓域に「冷されて牛の貫禄しづかなり」の句が刻まれ、白々とした碑が朝日に照らし出されている。






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by 杜の小径  at 13:28 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

河童忌(我鬼忌)

                         
  河童忌や本屋少なき横網町(杜詩夫)
   
   木の瘤に愁ひ集まる我鬼忌かな(〃)
 
今日24日は芥川龍之介の命日である。太宰治の死を取り上げた直後に芥川龍之介―二人とも三十代で自ら命を絶っている。六月は才能ある作家を死に誘う憂愁の季節と謂うべきか。
『河童忌』は彼の作品に拠る。我鬼は芥川の俳号である。東京本所で生まれたので、隅田川にちなんで澄江堂(ちょうこうどう)主人とも号した。芥川の俳句を余技とする人も多いが、私は生涯に数千句を遺した某々宗匠などよりも優れた本物の俳人だと思っている。
萩原朔太郎はエッセイ『俳人としての芥川龍之介と室生犀星』の中で次のように述べている。
「芥川龍之介氏とは、生前よく俳句の話をし、時には意見の相違から、激論に及んだことさへもある。それに氏には「余が俳句観」と題するエツセイもある程なので、さだめし作品が多量にあることだと思ひ、いつかまとめて読んだ上、俳人芥川龍之介論を書かうと楽しみにしてゐた。然るに今度全集をよみ、意外にその寡作なのに驚いた。全集に網羅されてる俳句は、日記旅行記等に挿入されているものを合計して、僅かにやつと八十句位しかない。これではどうにも評論の仕方がない。…」これは朔太郎の調査不足で、芥川が生涯に創った俳句は600前後とみられる。しかし唯一の自選句集『澄江堂句集』には僅かに77句が収められているに過ぎない。彼の自作に対する厳しい目を感じさせる。同句集から私の好きな作品をいくつか拾ってみよう。

   木がらしや目刺にのこる海の色」
   山がひの杉冴え返る谺かな
   元日や手を洗ひをる夕ごころ
   水洟や鼻の先だけ暮れ残る
   荒あらし霞の中の山の襞
   さみだれや青柴積める軒の下
   松かげに鶏はらばへる暑さかな
   日ざかりや青杉こぞる山の峡
   秋風や甲羅をあます膳の蟹
   秋の日や榎の梢の片なびき

 芥川は薬物自殺を図る直前に妻や友人に遺書を書いているが、自殺の原因については「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」という言葉を遺しているだけである。彼の厭世的、あるいは病的な心境は『河童』を初めとする晩年の作品群に明確に表現されているので、興味のある方は改めてお読み戴きたい。


「5月」「自殺」「一高生」「厭世観」というキイワードを並べると、浮かぶ上がるじんぶつがある。(明治36年)5月22日、日光の華厳滝において、傍らの木に「巌頭之感」を書き遺して自殺した一高生 藤村操である。「巌頭之感」には「萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。 我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。」―この言葉に誘われるように文学青年やエリート学生が次々に華厳滝で自殺を企て、その数は既遂未遂を含めて185名にのぼったという。もちろん芥川の死は藤村の死の24年後だし、享年は20年も違うから思索の深さも格段に違うだろう。しかし生年の差は僅かに6歳。芥川の不安に満ちた白皙の顔に、どうしても華厳巌頭に散った藤村操の面影を重ねてしまうのである。(写真:藤村 操)






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by 杜の小径  at 18:37 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

わたしの好きな詩―麹町倶楽部例会より

               
 例会作品の中から、心に残ったものを挙げてみる。これは五選による入賞の有無とは関係ない。また、銓衡時間の短いことから例会の席では見落とした作品も含まれている。(順不同・敬称略)*勝手な短評は村瀬杜詩夫。

【自由詠】
   水蒸気飽和状態
   指動かせば
   水滴つきそう
   この息吐けば
   雨になりそう(渡邊加代子)

【評】一見すると湿度の高い雨季の様子を詠っているようにみえる。が、私には今にも泣き出しそうな、叫び出しそうな、辛うじて平衡状態を保っている作者のぎりぎりの気持ちが迫ってくる。訥々としたリズムも孤愁感を表出していて秀抜。      

   取り巻き組から
   白い目で見られれば
   胸に掲げた
   「反」の勲章
   いよよ輝く(酒井映子)

【評】地味な語り口なので、迂闊にも歌会の席では見落としてしまった。反権力、反体制の生涯を貫いてきた(つもりの)拙者としては取り上げないわけにはいかない。派閥のボスに阿る政治家などは未だ可愛い方で、文学結社に溢れる曲学阿世の徒には反吐が出そうだ。こんな汚い言葉を遣わないで、淡々と想いを叙した口調に好感。殊に「胸に掲げた…」以下の後半がいい。なお結句の「いよよ」は原詩では「愈々」と漢字で表記されていた。

   何万もの足が漕ぐ
   アンモナイト
   貝の船団
   うねりとなって
   天 駆け上がる(水野ぷりん)

【評】恐竜さえも未だ生まれぬ4億年前、マグマの熱冷めやらぬ大洋をアンモナイトの船団が行く。こいつはオウムカイの祖先だが直径約2㍍、畳1畳半くらいもある。船団が目指すのは海面ではない。碧い飛沫を残して「天 駆け上がる」。まさに貝なり、いや快なりだ。これぞサイケデリック・アートの極致。水野画伯どの、ぜひ絵でも表現してくだされ。

   目の端に
   流れ星の
   残像
   遠野の夜を
   立ち尽くしている(柳瀬丈子)

【評】なんと美しいコンポジション。タバコのヤニで汚れた吾輩の胸ですら、思わずキューンとなる。だがお立会い、「立ち尽くす」のは人間ではない。遠野は民話の里であると同時にカッパの本籍地でもある。孤影落莫と流れ星を眺めているのは、河童なのだ。そう信じて、もう一度この作品を読み返していただきたい。更なる感動が胸をよぎる。奇しくも明日は河童忌(芥川龍之介の命日)、しばしカッパの世界へ想いを馳せられよ。

【題詠/新人】の部
 
 はっきり言って兼題が適切でなかった。「新人」の内包域が限定されるので、似たような作品が多くて面白くなかった。その中で、ピカリと光る2篇を…。
   
   新人は
   うな垂れ
   ベテランは
   天を仰ぐ
   同じ失敗をしても(町田道子)

【評】ぷりん画伯の奇想天外もいいが、こうした控え目な作品も心に残る。ケレン味の無い語り口が、じんわりとした感動を呼ぶ。「うな垂れ」と「天を仰ぐ」の対比に、作者の人間観察の鋭さが窺える。
   
   新人君は
   オノマトペ
   ピカピカ語を話し
   名刺を受け取ると
   キラキラと帰っていく(山碧木 星)
   
【評】予てから言っていることだが、「題詠」は一種のことば遊び。いま心に積もるものを吐き出す詩作というより、題材の消化力と表現技法を競うゲームと言った方が適切かもしれない。従って、詠題をどう消化するかも作者の腕のみせどころになる。この作品は「新人君は背広を着たオノマトペ」としている。その発想がユニークで面白い。その意味では、1,2句は一行に表記して「新人君はオノマトペ」とすべきだったね。

 ―村瀬杜詩夫の作品―

 【自由詠】

   梅雨晴れ間
   何を祈るのか
   捨てられた
   ビニル傘は
   十字架(クロス)の形  

 【題詠/新人】 

   新人らしからぬ弁舌
   だが、あのシタリ顔が
   気に食わない
   内容空疎な小泉節は
   親父だけにして





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桜桃忌(太宰忌) sequel

               田部シメ子
 心中事件の処理にあたって太宰側のとった態度については、昨日のブログで述べた。豊島与志雄の「せめて一緒に火葬を」という提案を拒否したばかりか、冨栄の遺体を長時間コモを被せたまま放置した。加えて心中が冨栄による無理心中であるという根拠のない風評を流して、太宰の名誉を守ることに躍起となった。こうした一連の動きを見ていると、太宰の最初の心中事件の処理を思い起こさせる。太宰は東大在学中の昭和5年11月28日、それまで三度しか会ったことがなかった女給 田部シメ子と共にカルモチンを購入して鎌倉に向かう。同日夜半から払暁にかけて七里ヶ浜海岸の小動神社裏海岸にて、大量のカルモチンを飲んで心中を図る。その結果、田部のみ死亡し太宰は生き残る。太宰は自殺幇助罪の容疑で逮捕され取調を受けたが、鎌倉署の担当刑事村田義道が金木村の出身で津島家の小作の息子だったこと、担当の宇野検事が太宰の父の実家である松木家の親類だったことなどが太宰にとって有利に作用したという偶然もあって、起訴猶予となった。その蔭に貴族院議員だった津島家の名誉を守るため、兄 文治たちの奔走があったことは言うまでもない。のちに太宰は、この心中事件をモデルに短編『道化の華』を書き上げる。この中でシメ子は「園」として登場する。小説の中で園(シメ子)の最期は次のように書かれている。
「僕はこの手もて、園を水にしづめた。僕は惡魔の傲慢さもて、われよみがへるとも園は死ね、と願つたのだ」―このことなどを挙げて、この事件が太宰による計画的な殺人だったとする説を唱える者もあるが、憶測の域を出ない。(写真:田部シメ子)

      b846dcba-s.jpg   小館善四郎
 昭和12年、太宰は内妻 小山初代と谷川温泉付近でカルモチン心中を図るが未遂に終わる。初代は青森の料亭「玉屋」に仕込妓(しこみこ。芸妓の使い走り)として住み込み中の昭和2年、客として訪れた旧制弘前高校1年生だった津島修治(太宰治)と馴染みになる。昭和5年、太宰の勧めで玉屋を逃げ出して上京、東京で太宰との同棲生活を始める。ところが、その頃太宰が田部シメ子との心中事件を起こす。激怒する初代を宥めるためか、翌月に初代と仮祝言を挙げるが、津島家の意向で入籍は許されなかった。その後初代は、『HUMAN LOST』や『姥捨』、『東京八景』など多数の太宰作品に登場する女性のモデルとなった。
 心中の原因は、その直前に発覚した初代の不倫にあるとみられる。昭和11年10月、太宰の義弟に当たる小館善四郎が自殺を図って入院した。そのころ太宰は薬物中毒の治療のため入院していたので、代わりに初代がたびたび小館を見舞った。やがて寂しい者どうしは、越えてはならない一線を越えてしまう。もちろん このことは二人だけの秘密にしていたが、太宰からの手紙を読んだ小館が自分たちの密通が露見したと勘違いして太宰に初代との関係を告白してしまった。結局この心中は失敗し、これを機に内縁関係は解消された。これが「水上心中」と呼ばれる事件であり、太宰は彼女をモデルに「姥捨」を書いた。「姥捨」には、かず枝の名で登場する。また前記の短篇「道化の華」に登場する法学生"小菅"は、小館がモデルだったといわれる。自分の心中事件の総てを小説の中で relive している太宰に対し、或る文芸評論家は「太宰は小説の材料を得るために心中事件を起こしているのではないか」と皮肉交じりに評したことがある。(写真:左端は小山初代。右の写真の左から檀一雄、太宰治、山岸外史、小館善四郎。1935年湯河原にて)

                   太田静子
 このように太宰の道連れにされて命を落としたり、人生を誤ってしまった女性は気の毒である。しかし、これらの女性はたとえ一瞬でも自ら望んで太宰の懐に飛び込み、それなりの幸せを味わっている。私は太宰を巡る女性の中で、いちばん不幸だったのは太田静子だと思う。
 静子は弟が太宰ファンだったことから太宰作品に興味を持っていたが、昭和15年に太宰と運命的な出逢いをする。そのころ静子は長女を一か月で早世させたばかりか、二年余連れ添った夫とも離婚した直後だった。その経緯を日記風に綴って太宰に送ったところ、思いがけず太宰から「一度遊びにいらっしゃい」と返事が来た。静子は滋賀県下の
開業医の四女として誕生。実家は九州の大名の御典医という家系で、親戚には高級官僚や実業家も多かった。静子自身は実践女学校に学びながら口語短歌を創り、既に歌集『衣裳の冬』を芸術教育社から刊行していた。太宰が即座に会いましょうと応じたのは、送られてきた原稿がかなりレベルの高いものであったからだと推察できる。二人は忽ち恋に堕ちるが、太宰の方にはどうも打算的な臭いがする。二人の関係が深まるにつれ太宰夫人 美智子が疑惑の目を向け始める。すると太宰は窮余の一策として、静子を一番弟子の堤重久の愛人にしようと企む。これに対し静子は「結婚を考えない男性とお付き合いはできません」ときっぱり拒絶する。こうしたことがあって二人の間は疎遠となるが、昭和19年に二人は再会する。そのころ静子は叔父の世話で神奈川県下曽我村の山荘「大雄山荘」に疎開していた。そのとき太宰は書き溜めていた静子の日記を読んだと思われる。それから3年後の昭和22年1月、太宰から日記の提供を申し込まれる。静子は「下曾我までおいでになるなら、ご覧にいれます」と答える。太宰は下曽我にやって来て2月22日から24日まで滞在、静子の日記を手に入れる。このとき、静子は太宰の子を身ごもる。
 その年の5月24日、静子は生まれてくる子どものことを相談するために弟と共に三鷹の太宰を訪ねる。このときの太宰の冷淡な態度で、はじめて太宰が自分の日記を手に入れるために近づいたことを知る。曖昧な態度で逃げ回る太宰に泣いて抗議するが、殆ど何の成果も得ぬまま、翌日、下曽我へ戻る。11月12日に女児を出産。弟が太宰を訪ね、子どもの認知を頼む。女児は太宰の本名修治から一字をとって治子]と名付けられた。
 
 静子の日記が名作『斜陽』の元になったことは既に周知のことだが、当初は極秘とされていた。太宰が情死後の8月1日、太宰家の使者として井伏鱒二らが突然に静子を訪れる。井伏は太宰に美智子を紹介し、仲人を務めた人物。彼らは静子に用意してきた「太宰の名誉作品に関する言動を一切慎む」という内容の誓約書に署名押印させ、その引換に『斜陽』改装版の印税10万円を渡した。要するに太宰の名誉のために日記を提供したことは口外しないでくれというわけ。しかし太宰側(津島家)の侮辱的な態度に腹をたてた静子は、10月になって太宰に渡した日記を『斜陽日記』として刊行する。その内容や表現があまりにも『斜陽』と酷似していたことから、静子の存在が初めて明らかにされた。彼女は津島家の援助の無いままに、炊事婦や寮母をしながら治子を育てあげた。(ちなみに治子は作家となり、母の思い出を綴った『心映えの記』で第1回坪田譲治文学賞受賞。同作品で直木賞の候補にもなった)
昭和40年に金木町で太宰治文学碑の除幕式があり、参列した檀一雄が太田母娘の困窮ぶりを見兼ねて太宰未亡人の美智子に「せめて『斜陽』の印税の内少しだけでも援助してもらえないかと」頼んだが、美知子は立腹してその場を立ち去ったと伝えられている。後日談になるが、美智子は平成9年2月1日に心不全のため文京区本駒込の自宅で死去(85才)した。翌年1月の税務署公示では課税遺産額が約9億4千万円で、遺産は文京区の自宅や預貯金など。これらは長女の園子と次女の里子(作家の津島佑子)、園子の夫で養子の衆議院議員津島雄二ら4人で相続したという。(写真:幼い治子を抱く太田静子)

  




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桜桃忌(太宰忌)

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太宰忌や三鷹を過ぎて雨となる(杜詩夫)
 
 今日6月19日は、太宰治を悼む桜桃忌である。この日を太宰の命日と思っている人が多いが、違う。彼が1948年(昭和23年)に玉川上水で山崎富栄と入水心中したのは6月13日で、二人の遺体が発見されたのが19日。この日は、奇しくも彼の誕生日だった。故郷の青森県金木町では、19日は忌日でなく生誕祭として偲ぶ会が行われている。
桜桃忌は同郷の親友、直木賞作家の今 官一により、太宰の最後の短編「桜桃」に因んで名付けられたもの。報道によると、今日も桜桃忌には墓のある三鷹・禅林寺には多くの太宰ファンが訪れたようだ。この寺には森鴎外の墓があり、太宰の希望でその向かいに予め墓所が決められていた。しかし、いざ葬る際には檀家の猛烈な反対があり、当時の住職の説得でやっと決まったという。

 太宰が逝って62年、玉川上水の二人が入水した辺りは街並も道路もすっかり整備されて昔日の面影はない。水面も鉄柵に阻まれて覗くことはできない。わずかに事情通だけに判る目印といえば、入水地点と道路を挟んだ反対側の歩道脇に赤茶けた色の自然石が建っている。遺族の意向で説明らしきものは一切無く、「玉鹿石(ぎょっかせき)青森県北津軽郡金木町産」とだけ記したプレートが添えられているだけ。金木町は太宰が生まれた町である。(写真:左から現在の太宰入水地点、玉鹿石)

 二人の遺体は、3日後に発見された。太宰のためには立派な寝棺が用意されたが、冨栄の遺体は父親が駆け付けるまでムシロを掛けて堤防に放置された。後に葬儀委員長をつとめた豊島与志雄(作家・法政大学名誉教授・日本芸術院会員)が「せめて近くの火葬場で一緒に」と提案したが太宰側の猛反対に遭い、太宰の遺体は近くの杉並堀の内火葬場で、富栄の遺体は遠く離れた田無の火葬場に老父一人付き添って行われた。太宰の生家は父が貴族院議員を務めた青森の名門 津島家。一方で葬儀の段取を担当した大手出版社側には、この事件で太宰のイメージを傷つけたくないという思惑があった。事件直後、この事件は冨栄による無理心中、もっと酷いのは冨栄による殺人説までが盛んに流布された。後に二人の遺体を結んであった赤い紐が密かに切断されたり、きちんと川岸に揃えて遺されていた二人の履物が太宰側の人の手で片付けられていたなどの事実が次々に暴露され、これらの風評が根拠の無いものであることが明らかにされた。(写真:山崎富栄)

 このとき生前の太宰と親交があった作家たちは、口々に冨栄の人格を傷つけるような発言をしている。ただ一人、太宰の親友だった檀一雄は「朝日新聞に連載中だった「グッド・バイ」が未完の遺作となった。奇しくもこの作品の13話が絶筆になったのは、キリスト教のジンクスを暗示した太宰の最後の洒落だった」とだけ言って、十数年後に『小説 太宰治』を書くまで、この件については口を噤んできた。同書は沖積舎、岩波書店など数社で刊行されているが、私の手許には審美社刊の初版が残っている。
 檀先生は山冨栄とは生前に何回も会われていて、三鷹の家にも度々訪れたことがあると言っておられた。彼女のことをレイジンと呼び、その家をレイジンの家と称されていた。もちろん麗人の意味であろう。冨栄の父は日本で初めて美容専門学校を開いた人で、彼女自身も京華高等女学校を卒業後、日本大学付属外語学院やYMCA などで英語を学び慶応大学教養課程も履修しており、戦災で焼けるまで銀座で美容院を経営していた。このことは檀 さんから聞いたのではなく、後日私が調べたものである。
 檀先生の お宅で例によってお酒を戴いているとき、太宰のことに話が及んだことがある。6月12日に鎌倉の川端康成さん宅に「終りの火」の原稿を届け、そのまま川端さん宅に泊まられた。たまたま太宰の話が出て、檀さんが「相変わらず三鷹の狭い家に住んでいます。そろそろ家でも買ったらいいのに」と言うと、川端さんは、「家は造らんでしょう。津軽の家がとても大きいそいじゃありませんか。造るならあれ以上の立派な家にしなければならないから、とても出来ないでしょうね」。川端さんはこう言って微かに笑われたそうだ。翌日は曽我の尾崎一雄宅を訪ねて、先日、太宰が訪ねてきたことを知る。尾崎はそのとき黙っていたが、あとで太宰が愛人の太田静子(『斜陽』のモデル)を同伴していたことを知ったという。(写真:左から『小説 太宰治』、檀先生ノサイン)

 太宰治』に筆でサインして下さった。帰って開いてみると、太宰の死の原因について「彼の文芸の抽象的な完遂の為である。文芸の創との成就である。彼の死を伝え聞いた総て野人々が、その事情を察知し感得しながら、さて、その死を語る際になると、日頃の見聞に馴れた世上の自殺風を附会していった。太宰の死は四十年の歳月の永きに亘って企画され、仮構され、誘導されていった彼の生、つまるところ彼の文芸が、終局に於いて彼を招くものであった。太宰の完遂しなければならない文芸が、太宰の身を喰らうたのである。」と書かれてあった。
 同書は「小説」とはなっているが、太宰との付き合いを事実に即して書かれており、太宰研究者には得難い資料だろう。最後は太宰の死の日の記述で終わっている。

 14日、石神井池畔の宿で「父子来迎」の原稿を書いていると、同宿していた真鍋呉夫が朝刊を持って慌ただしく飛び込んでくる。新聞は太宰が遺書を残し女連れで失踪したことを知らせていた。井伏鱒二や亀井勝一郎は「生きていると信じたい」という意の談話を載せていたが、私(檀、以下同じ)は「いや、駄目だ、今度ばかりは」と即断する。真鍋が「太宰さんのお宅に行きますか?」と言うのへ「生きて帰るなら行きたいが、死んだ太宰には会いたくない」と答える。
沛然たる雨が降って来た。石神井池に霧が立ちこめ、葦の青い肌を豪雨が伝い流れる。私は、新聞を膝に置きながら酒を呷った。酒を呷りながら太宰の思い出を辿った。そうしていると今度は駄目だという、はっきりとした愛惜の感動が波立った。それは私の部屋から真鍋の部屋へと、雨漏りの激しい廊下を渡っていく。わめくように、真鍋に言い聞かせるようにである。―「死んだ。今度は太宰は、はっきりと死んだ」―
 そのまま、私は夜明けまで訣別の詩を書き続けた。「小説 太宰治」は、次の訣別の詩「さみだれ挽歌」で終わっていた。

            さみだれ挽歌

 むかしわれきみと竝(なら)びて 書(ふみ)もたずそが手のうへに 質草のくさぐさうだき 銀杏生ふる朱門を入らず 学び舎(や)の庭に這入らず よれよれの角帽かむり いづこぞや大川端のおどろしき溝蚊(どぶか)のほとり いき鬻(ひさ)ぐをみなを漁り 酒あほりいのちをあほり かきゆらぐたまゆらの夜を たふとしとゐ寝ずてありき やがてわれいくさに問はれ 盃を交はさん友の つつがなく都に残り 目覚しや文のまことの 高きにもいや高き声 鬼神をもゆるがす不思議 世の人の賞(め)づるを聞きて うべうべとうべなひ去りぬ 旅を行き旅に逐(お)はれて さすらひの十年を経たり いかさまに国は破れて うつし世の妻焚(た)き葬(はふ)り きみをるといふを頼りに 東(ひむがし)の都に来(こ)しを 文書きのしばし忘れて 世のみなのうつろひゆける おもしろくをかしきさまを 思ふままに嗤(わら)ひ嘲(あざけ)り ひと夜また酒掬(く)みあはん それをしも頼みて来しを いかにせむおよづれとかも 君ゆきて水に沈むと 遅読(おそよ)みの一号活字 寝ぼけ眼(まなこ)こすり疑り 毎日や朝日読売 かきあつめ胡坐(あぐら)にふまへ うつしゑの薄れしすがた 見つつわれ酒を啖(くら)へば はや三筋あつき涙の たぎりゆき活字は見えず 早くしてきみが才(ざえ)知る 春夫師の嘆きやいかに よしえやしその悲みの 師の重きこころに似ねど わがなみだくろ土を匐(は)ひ さみだれのみだるるがまま 流れ疾(と)き水をくぐらん。良き友は君がり行きて 必ずやきみ帰るべし そを念じしぶかふ雨に 肝(きも)ぎらし待ちつつをらん 悪しき友ただわれ一人 十歳(ととせ)前君と語りし 池の辺(へ)の藤棚の蔭 四阿(あずまや)の板茣蓙(いたござ)の上に 葦葭(あしよし)の青きをみつめ そが上を矢迅(やばや)に奔(はし)る たしだしの雨垂(あまた)らす見て にがくまたからきカストリ 腸(はらわた)に燃えよとあほる 君がため香華(こうげ)を積まず 君がため柩(ひつぎ)かたげず 酔ひ酔ひの酔ひ痴れの唄 聞きたまへ水にごるとも
 
    池水は濁りににごり藤なみの影もうつらず雨ふりしきる

 右短歌一首は伊馬春部に与へたる遺書の末尾に書かれし左千夫の歌ときき、そを借りてみだりに結ぶ。

           (写真:左から書斎の檀一雄、佐藤春夫邸の檀一雄)

*【追記】 長くなるので、この稿はここで一応の終わりとします。近いうちに檀先生からのお話などを交えながら、太宰の作品や太宰をめぐる女性について書きたいと思っています。村瀬杜詩夫)














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by 杜の小径  at 23:01 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

久しぶりの短歌会

 古い友人吉野慧さんのお誘いで、彼女の主宰する埴生短歌会に顔を出す。彼女は「形成」時代の友人で、今春蓼科で開かれた全国詩人会議で、偶然に三十年ぶりの再会を果たした。私は、木俣修主宰が亡くなられたのを機に短歌とは訣別状態にある。その後「波濤」を刊行して「形成」の同人たちをお世話して下さった大西民子さんも亡くなられ、千葉で「泰山木」を主宰していた同世代の小野興二郎君も数年前に逝ってしまった。そんなわけで今さら短歌の歌会に出るつもりは無かったが、再三のお誘いを黙止し難く出席する羽目となった。
 今日の出席者は27名。ウイークデーということもあって主婦が多かったが、学生の参加もあってなかなかの活気。その雰囲気に誘われ、最初は選だけと思っていたが挨拶代わりに5月2日のメーデー(写真)を詠んだ作品を参考出詠する。

   脱落の位置とも思ふ 陽を避けて 楡の葉蔭にデモを見送る(杜詩夫)

  私の特選は、以下の五首。二番目、三番目の作品は吉野さんと重複選だった。

   レスポンス数多(あまた)届きて驚きぬ病む父扶け農継ぐ吾に

   草萌える古墳の丘を巡りきて心豊かにブログを記す

   筑紫への道は遥けし防人の歌碑建つ丘に欅萌え初む

   朗らかな声の絶えたり幾たりか女性パートら辞めし工場

   木末(こぬれ)には目白ゐるらし山茶花の花弁(ビラ)あまた参道に散る





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by 杜の小径  at 23:10 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

ハヤブサ→はやぶさ→隼

  もう一つの“時の鳥”はハヤブサ。言わずと知れた、小惑星探査機「はやぶさ」である。2003年5月にM-Vロケットで打ち上げられてから約7年間、60億キロという気の遠くなるような旅を終えて13日の19:51にオーストラリア南部のウーメラ砂漠に帰着した。正確に言うと帰ったのは小惑星「イトカワ」の砂を回収していると期待されるカプセルだけで、「はやぶさ」君は大気との摩擦で生じた高熱のために地表に至ることなく燃え尽きた。イオン電池の故障などから一時は地球帰還が絶望視され、予定を3年も過ぎてやっと戻った。その「はやぶさ」が青白い光跡を曳きながら消えていく姿は、見る者に深い感動を与えた。(写真はNASA撮影のもの)

 今年12月4日に開業する東北新幹線(東京― 新青森)の最新型車両「E5系」の愛称も「はやぶさ」に決まった。愛称は今年3月から募集。実は集まった約15万件のうち「はやぶさ」は、1位「はつかり」、2位「はつね」、3位「みちのく」などに続く7位だったが、「スピード感がりJRに縁があるというので採用されたもの。「はやぶさ」は1958(昭和33)年から東京と鹿児島を結ぶ特急列車として誕生し、近年はブルートレインの愛称として親しまれたが、2009年に廃止されていた。「はやぶさ」は半世紀にわたる九州特急の看板列車から一転して、東北方面の新幹線列車として新時代を担うことになった。(写真:左から新幹線「かやぶさ」、ブルートレイン「はやぶさ」)

               自動車メーカーのスズキの輸出向けに作った大型自動二輪車「GSX1300R」にも「ハヤブサ」という名前が付けられている。直列4気筒1299㏄の大型エンジンを搭載した雄姿が、戦時中に活躍した戦闘機「隼」を彷彿とさせるところから付けられた名前である。(写真;スズキの「ハヤブサ」)

 太平洋戦争中、日本人の心を躍らせたヒーローに加藤隼戦闘隊がある。その活躍ぶりは映画にもなった。監督は山本嘉次郎、特撮監督は円谷英二、加藤隊長役は藤田進だった。未だ小学生だったが主題歌の一節はいまでも覚えている。
 
   エンジンの音 轟々と 隼はゆく 雲の果て
   翼に輝く 日の丸と 胸に描きし 隼の
   印はわれらが 戦闘機

「隼」は当時の最新鋭戦闘機で、正式名称は陸軍一式戦闘機。海軍のゼロ戦(零式戦闘機)と並んで、今日までも語り継がれる名機だった。この飛行隊を率いたのが加藤建夫陸軍中佐(死後、陸軍少将)で、開戦当初は「撃墜王」といわれた名パイロットだった。間もなく終戦という頃、加藤の乗った「隼」はガソリンタンクに被弾する。基地に帰還することが不可能と悟った加藤は、自ら「隼」を海面に突っ込み自爆する。(写真:左は藤田進扮する加藤隊長、中央は戦闘機「隼」、右は実際の加藤建夫中佐―当時―)

               このように日本人が愛し、事あるごとに愛称としてきたハヤブサとは、どんな鳥だろうか。ハヤブサはのタカの仲間で、全長50㌢ほどの猛禽類である。頬に髯のような黒い班があり、見るからに精悍な顔つきだ。飛ぶのがたいへん速く、降下時には最高時速が300㌔に達することもある。このスピードを生かしてハト、カリ、カモなどを捕食する。獲物の上空から一気に下降し、追い着くと足で一撃する。この一蹴りで即死するか失神した獲物を空中でキャッチするのだが、こんな豪快な狩りをするのは鳥の中でハヤブサだけである。こうした習性を利用して鷹狩用に乱獲され、現在では環境省の絶滅危惧Ⅱ類(レッドリストVU)に指定されている。






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by 杜の小径  at 19:03 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

 上毛への旅

               嬬恋高原
 二泊三日の短い旅だったが、肉体的にはかなり疲れた。三日間で三つのゴルフコースを回るというツアープロ並の日程をこなしたのだから、無謀と言えば無謀だろう。旅に出る前は、心が疲れていた。うまく言えないが、生きていくうえでのインセンティブを見失っていた状態だった。こう書くと大袈裟になってしまうが一種に精神失調状態で、私にとっては珍しいことではない。何かに没頭して頭の中を空っぽにすれば、元の状態に戻る。公認会計士のMさんに「数日、美味しいものを食べて、ゴルフ三昧の旅をしませんか」と電話した。現場は若い人に任せて悠々自適の毎日だから、誘えば必ず応じてくれる。寡黙なのがいい。殊に文学と政治の話は全くしない。専門の経済についても、こっちが質問すれば簡明に答えるだけだ。宿とコースの選択はMさんに一任する。弁護士のYを誘ったが日程の都合がつかないと言う。運転はK君にお願いした。
 早朝5時きっかりに、迎えの車が来た。MさんはK君の家に自分の車を置いてきたという。「それで、今日はどこですか」と問うと、嬬恋高原ゴルフ場という返事。まるでミステリー・ツアーだ。高坂SAで朝食を摂り、かなりゆっくり走ったのにスタート予定の1時間前に着いてしまった。

 フロントに交渉すると時間を繰り上げてくれたが、キャディは年配者しか都合がつかないという。このキャディが大当たりで、ラフに打ち込んだ球も直ぐに見つけるしグリーンの読みも正確。このゴルフ場に25年務め、コースが閉鎖される冬季はホテルに務め、家を1軒新築したという。浅間、本白根、赤城連山を望む眺望は素晴らしいが、標高1,100mに加えてコースの起伏が激しく、早くも左膝に痛みを感じる。午後からはカートを借りて回る。最近はコースに沿った道を自動操縦で走るカートが多いが、此処では太いタイヤを装着してあり、フェアウエイは勿論、グリーン脇までカートを寄せることができる。にも拘わらずパーはロングとショ-トで各1回のみ。とても公開できるスコアではなかった。

 最初の宿は万座プリンス。坂を登ってホテルに近づくと、強い硫黄の臭いが鼻を衝く。浴場は更に強烈で、「換気扇を回して下さい」という注意書が貼ってあった。ホテルの周辺には数百羽のイワツバメが飛び交っている。窓から見上げると軒先に無数の巣が見られる。巣へ戻っても一瞬で離れているから、未だ泥で巣作りの最中なのであろう。。このホテルの最大の目玉は標高1800㍍と称する「天空の露天風呂」。深夜2時、岩風呂に身を沈めながら眺める星座群は、時間を忘れさせてくれた。
   
  二日目は草津高原ゴルフ場。ここは2008年の日本プロゴルフ選手権が開催された名門コースで草津白根国有林内に在り、町営のコース。白根山、八間山などに向かって打つダイナミックなホールが多い。標高1300㍍前後の高原コースで、玄関脇のシャクナゲが花が咲き始めていた。コースには白樺が多く、花木ではガマズミやヤマボウシが白い花を付けていた。いかにも高原ならではの風景ながら、コースはリゾート風のイージーなところはない。距離があって池などのハザードも利いているので、なめてかかると手痛いめにあう。圧巻は最終18番のショートホールで、ティとグリーンの間がすべて深い谷となっていた。  二日目の宿は、Mさん馴染みの四万温泉やまぐち館。四万川に沿った崖を利用した豪壮な佇まい。日本一の「お題目大露天風呂」、渓流露天風呂「四万川の湯」、総檜大浴場「薬師の湯」「つぼ湯」など掛け流しの豊富な源泉が数か所から湧出している。中でも「南無妙法蓮華経」文字を彫った十数㍍の巨岩から源泉が湧き出る「お題目の湯」は壮観だった。夜は女将の紙芝居、職員の佐渡おけさ踊り、上州太鼓の実演なども楽しめた。食事は夜、朝共に会席膳で品数が多く、三分の一くらいしか口を付けられなかった。

  最後の日は草津カントリークラブ。1948年開場の名門コースで、荘厳なクラブハウスは開業からの歴史と風格を物語る。食堂なども外国のリゾートホテルを思わせる洒落た雰囲気だ。しかしスタイミーなバンカーの罠や距離と起伏に富んだコースに散々翻弄される。最終18番のロングは558ヤードもあるタフなコースで、全員がトリプル。    





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『ハンタ-』―新刊紹介―

 毎月、十数冊の新刊書を寄贈して戴いている。申し訳ないが、その全部に目を通すことはできない。数頁読んで興味のあるものか、著者と個人的に親しいものだけ完読するようにしている。今朝戴いた本は、『ハンタ-』(ジョイ・カウリー作・大作道子訳 偕成社刊)。  時は19世紀のはじめ、ニュージーランドの先住民・マオリ族の少年ハンターは幼いころ家族を虐殺され、自分は奴隷にされた。彼が今日まで生き延びてこられたのは、見えないものを見通せる不思議な能力を持っていたからであった。例えば水中の岩蔭に隠れている魚とか背の高い草の間や地面の窪みに巣くっている鳥も容易に見つけることができた。主人はこんな素晴らしい能力を持つハンターを他の奴隷のように簡単に殺しはしなかったが、まるで家畜のようにしか扱ってはくれなかった。ある日、ハンターは夢を見る。絶滅したと思われていた伝説の巨鳥モアが、氷河に削られた谷間に棲んでいるのだ。これまでハンターの超能力を見せつけられてきた主人は、その夢を信じた。ハンターは主人を案内して、モア探しのフィヨルランドの森に向かう。
 一方、マオリの血が混じった白人少女ジョーダンは、二人の弟と共にチャーター機でアメリカに向かう。ところが、飛行機は事故でフィヨルランドの森に不時着する。…かくして、時空を超えた二つの物語が進行する。
 物語も面白いが、モコ(入れ墨)、ワカ(丸木舟)、ファレヌイ(集会所)などマオリの伝統文化の解説も興味深い。私事になるが訳者の大作道子さんは、長い間私の許で編集次長を務めてくれた大作裕之君の奥さん。昨年上梓した『帰ろう、シャドラック!』に続き、ジョイ・カウリーの翻訳は2冊目だが、ニュージーランドに留学した経験のある道子さんは、ニュージーランド生まれのカウリー作品の翻訳は適役。ますます頑張って欲しい。

追記
 明朝5時に出発して、上越方面へ出かけます。あまり暑くならないうちに、温泉とゴルフでもゆっくり楽しんでこようという旅です。帰京は週末になるでしょう。それまで、ご無沙汰です。お互いに熱中症に注意しましょう。
            




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あゆの話

                  あゆ2

 あゆ といっても浜崎あゆみの話ではない。魚の鮎の話デス。最近は春先から店頭で見かけるようになったが、あれは養殖もの。天然鮎は初夏の解禁日を過ぎないとお目にかかれない。解禁日は水系や鮎の育ち具合で異なるが、暖地では6月初旬、寒冷地ではそれより1か月ほど遅れる。秋川など東京の河川、私の故郷・天竜川水系では、今日6月7日が今年の解禁日である。

                   あゆ

                    瀬を上る形のままに鮎焼かる(杜詩夫)

 4月に養殖鮎をデパートで求めた話はブログにも書いたが、独特の香りが無くて美味しくなかった。鮎は河口で生まれると一旦海に出てプランクトンを食べて育ち、成長してから生まれ故郷の河川へ戻る。これは鮎がサケ科の魚だからである。成魚になってからは岩に付いた苔(珪藻類)しか食べないから、独特の香気を放つ。鮎を香魚と呼ぶのは、そのためである。成長した鮎は苔の付いた岩の周りを縄張りとして、そこに侵入する魚を体当たりで撃退する。その習性を利用した漁法が「友釣り」である。鼻環を付けた囮の鮎に「流し針」を付けて泳がせると、体当たりしてきた鮎が「流し針」に掛る。操作を誤ると囮がすぐ弱ってしまうし、流し針には「返し」が付いていないから、掛った鮎を迅速に引き上げないとバラしてしまう。なかなか難しい漁法だが、名人になると岩に着いた「食み痕」を見ただけで棲んでいる鮎の大きさまで判る。私は小学生のときから祖父に友釣りや渓流釣りの手ほどきを受けた。そのせいか成人してからも海釣りは殆どしない。専ら渓流つりである。現役時代、桜多吾作さんの『海つり入門』をプロヂュースしたとき三日間真鶴岬へ行ったが、海釣りの記憶はそれだけである。海釣りファンには悪いが、釣果を競うような俗っぽいところが嫌いだ。渓流釣りは一日歩いてもビクの中は一握りのタラの芽だけという日も多いが、清流に触れるだけで満足できる。

 話は変わるが、アユを魚篇に占と書くのはなぜだろう。殆どの語源辞典は神功皇后が、この魚で占いをしたからだと書いている。たしかに記紀には三韓遠征に当たって神功皇后が自分の裳裾の糸に曲げた針を付け、飯粒を餌にしてアユを釣り勝敗を占ったという記述がある。しかし、この話は眉ツバである。繊細な神経の鮎が着物を解いた糸で釣れるとは思われないし、前述のように鮎は珪藻類しか食しない。これに似たことがあったとすれば、摂餌に貪欲な岩魚(イワナ)の話であろう。だいいち記紀ではアユを年魚と表記しており、鮎の文字が遣われるのは平安期以後のことである。ちなみに中国では「鮎」はナマズのことで、アユには年魚、香魚の文字を当てている。「占」の字義には(同じ場所を動かない)(ねばねばする)があり、(うらなう)は派生的な字義である。そう思ってみると、中国でナマズを鮎と書くのも納得できる。
 ちなみに魚篇の文字の字義を挙げると、次のようになる。鱩(ハタハタ)=雷が鳴ろ浅瀬に集まる。鮃(ヒラメ)=魚体が平。鮭(サケ)=圭は三角形の意。頭が尖っている。鮹(タコ)=肖は細いの意。足の形から。鯖(サバ)=魚体の青色が目立つ。鱈(タラ)=寒い雪国で獲れるから。鮒(フナ)=餌付きの良い魚の意。鰆(サワラ)=春先に多く獲れる魚の意。

 俳句では「鮎」「鵜飼」はともに夏をあらわすが、春には「若鮎」、秋は「落ち鮎」、冬の季語は「氷魚(ヒオ、ヒウオ)」と、四季折々の季語に使用されている。



        




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つれづれの記

                     ライブ
 散歩の途中で行き交う人と言葉を交わすことは殆ど無いが、ただ一つの例外がある。男女を問わずミニチュア・シュナウザーを連れた方には、つい声を掛けてしまう。むかし、同じ種類の犬と一緒に暮らしたことがある。家内が桑田佳祐のファンで、ちょうど『愛しノエリー』をリリースしたときだったのでエリーと名付けた。18年連れ添ったが、家内が亡くなる1か月前に忽然と逝った。それ以来、生きものと同棲したことは無い。もちろん、人間も含めてだが…。

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 ここへ越して来てから、ヴェランダで植物を育てることにした。これが、なかなか難しい。前の家では薔薇などの花卉のほか白樺、梅、ソルダムなど、山椒やアケビまで育てていたが、世話は専ら家内がやってくれていた。さて自分がやってみると、旅が多いから水遣りがいちばんの苦労。大きな盆栽は姉の処に預け、石付きの眞柏、実生の欅などを持ってきたが1年ほどで全部枯らしてしまった。そんなことで暫く園芸から遠ざかっていたが、昨年バラ展に行った際、白い花が気にいって買ってしまった。それが一輪花を付けたので友人に自慢したら、株を太らせるためには3年くらいは花を咲かせては駄目だ直ぐに花を剪れ、鉢も口径40㌢以上の大鉢なら水遣りも少なくて済むと言われた。さっそく大鉢を求めて植え替える。だんだん面倒になってきた。

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 九州へ行く前にTV通販を見ていたら「形状記憶の散水ホース」というのを紹介していた。使い終わるとくるくると元のコイル状に戻る。延ばすと12㍍あるというから、キチンの水道から直接引けるし水勢も5段階に調整できるという。これなら植えたばかりの野菜類の水遣りに便利だろう。それが昨日届いたが、未だ使ってはいない。先日、回転式洋服掛の組み立てに失敗して苦労した。来週小塩君とゴルフの約束が在るから、帰りに寄ってもらおう。

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 薔薇、蜜柑、サザンクロスを剪定したので、いま花を付けているのは馬鈴薯だけ。植えたわけではないが空鉢から芽を出していたので大き目の鉢に植え替えたら薄紫の花を付けた。先月、ゴルフ帰りに魚介を入れてきた発泡スチロールの箱にミニトマト、タカノツメを植えおいたら、もう小さな莟を付けている。植えておいた根ミツバの根の部分からも新芽が伸びてきた。 会津名物の「ニシンの山椒漬け」を食べたくなって山椒を探したが何処にも売っていない。やっとMデパートで「木の芽」として売っているのを見つけたが、綿を敷いた小箱に入れたものが2枚で500円。まるで宝石並みだ。こんなんで山椒漬けを作ったら何万円もかかる。花屋に電話して山椒の苗を注文した。届いたのが寄植えのミニ盆栽。しようがないので3本にバラして植え替えた。こいつで山椒漬けを作るには数年はかかるだろう。ま、いいか。       (写真:上からミニトマト、タカノツメ、ミツバ、山椒)
 
 上品に纏めようと思ったが、結局 食い物の話で終わってしまった。

    水貝や宵からあける越の酒(杜)







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by 杜の小径  at 07:19 |  日記 |  comment (2)  |   |  page top ↑

九州への旅

                あきづき6
 詩のグループによる「風の大会」に出席のため、九州へ。前々日に博多入り、16日の花逢忌に訪ねたばかりだが最初に能古島を再訪。あとは市内をぶらつく。印象に残ったのは西公園の「黒田節像」。これは「酒は飲め飲め 飲むならば日の本一の(ひのもといちの) この槍を飲み取るほどに 飲むならばこれぞまことの黒田武士」の歌詞で知られる黒田節のモデルとなった母里太兵衛(ボリタヘエ、姓はモリと読む場合あり。本名は友信)の像だ。
 母里太兵衛は福島正則の許へ黒田長政の使者として遣わされたとき、正則から酒を勧められる。友信は家中でも「フカ」と言われるほどの酒豪であったが、使者である手前それを固辞した。しかし本人も酒豪の正則は「これを飲み干せたならば好きな褒美をとらす」としつこく勧め、更には黒田武士は酒に弱い、酔えば何の役にも立たないからだなどと家名を貶める発言をした。そこで母里は大盃になみなみと注がれた数杯の酒を一気に呑み干すと、褒美として、正則が秀吉から拝領した名槍「日本号」を所望する。この快挙を雅楽・越天楽に似せた筑前今様の節でうたったのが「黒田節」のルーツという。(写真は博多西公園の母里太兵衛)

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 翌朝、書家・一川さんから「珍しい人が来ているから来ないか」とメールが入る。風雅亭を訪ねると有山ゆきこさんと下平紀代子さんが居られた。有山さんは信州小海の高原美術館内でレストラン「花豆」をやっておられる歌人。下平さんは麹町倶楽部でご一緒している方。銘菓「水無月」で一服ご馳走になりながら歓談。車でホテルまで送って戴く。
 夜は前夜到着した参会者の歓迎会ということだったが、なぜか小生の分の料理が用意されてなく、深夜に街に出て夕食を摂る。

 翌日は大会の始まる前に一川さんの案内で、前記の皆さんと一緒に着物市へ。それぞれが掘出物を買うことができてニコノコ顔。小生も紬の着物のほか浴衣2点、博多帯2点を求めて宅急便で送る。

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 大会は最長老(93歳)の佐藤孝二郎さんが最高点。小生が3点を入れた4作品はいずれも選外で、評価の違いを痛感する。(写真は優勝した佐藤孝二郎さんと会場スナップ)

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  あきづき1  あきづき
  あきづき2  あきづき3
 大会の翌日、バスで朝倉市の秋月城跡を訪ねる。と言っても此処に城が在ったわけではない。秋月城は、この辺りで最も大きな山、古処山々頂に在った。鎌倉時代に秋月氏の始祖・種雄が築城したものだが、17代のとき豊臣秀吉に降伏する。かくして種雄以来385年間続いた筑前の秋月氏は滅びる。その後、黒田藩(黒田長政・52万石)の3男・長興が5万石を分知され立藩するが城は持たず、陣屋を城代わりとした。我々が散策したのはその跡だが、菩提寺への急峻な石段と搦手門を移築したという門に僅かにその面影を偲ぶのみ。500㍍に及ぶ櫻並木を渡る薫風も平和そのもので、生臭い戦国の歴史を語ってはくれなかった。パンフレットには“九州の小京都といわれる城下町”とあったが、町と言うより静かな農村といった佇まいだった。ただ往時の武家屋敷として保存されている久野家は次席家老(150石)の居宅で、萱葺き屋根の母屋、長い渡り廊下で繋がる離れ座敷、秋月の山並みを借景とした庭園、書院造りの2階・・・そして白壁の蔵、つるべ井戸、土で固められた竃、五右衛門風呂などには・質朴剛健の武家屋敷の雰囲気が息づいていた。(写真は木洩れ日の中の散策及び久野家の様子と屋敷内のつるべ井戸、竈、五右衛門風呂)

              あきづき5
 キリンビール工場見学のため時間が無いというので甘木の太刀洗陸軍飛行学校址の見学はパスとなった。ここで養成された幹部候補生が知覧はじめ全国の特攻基地から片道燃料で飛び立って行った。昨年、知覧を訪ねたときの感動をエッセイと8篇の五行詩に纏めて『南の風』に発表したが、その際、太刀洗陸軍飛行学校のことを知り一度訪ねたいと思っていただけに、ビール試飲のためにパスされたのは残念だった。バスの窓から瞥見する「零戦(零式艦上戦闘機三二型)」に黙祷しながら通り過ぎる。(写真は展示中の零戦)

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 キリンビール工場では、見学のあと構内の広大なポピー畑で時間を過ごす。雲雀の鳴く青空の下、全員がしばし童心に戻る。

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 最後は大宰府。5時の飛行機に乗る人が二人いるというので肝腎の政庁跡には行かず、手前の水城跡を短時間見る。663年、日本は百済に味方して朝鮮半島で唐・新羅連合軍と戦ったが白村江の戦(はくすきのえのたたかい)で大敗した。日本は唐・新羅がさらに博多湾から大宰府に攻め込むことを想定し、亡命百済人の憶礼福留(おくらいふくる)、四比福夫(しひふくふ)の指導で各地に水城を築く。大宰府の水城は、土塁の高さ10メートル以上、幅80メートル、長さ1.2キロメートルあり、高さは馬の越えられない高さ、幅は矢の届く距離という合理的なものである。

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                (写真:空港でバイバイ)
 
 空港で皆と別れたあと天神へ戻り、6月1日から個展を開く川崎常子さんの激励会を開く。
参加者は川崎さん、雨夢さん夫妻、夢湖さん、荒川豊さん、小生の6人。
 最終の「のぞみ」で岡山に出て、友人宅に泊まる。予て依頼されていた詩集の構成・装丁見本を渡し、翌日は彼の案内で岡山城、後楽園、吉備津神社などを回る。はじめは博多へ引き返して川崎さんの個展に顔を出したあと高千穂の夜神楽を観る予定だったが、「いま宮崎は口蹄疫で大変ですよ」という友人の言葉で思い止まる。個室寝台車で帰京。

              
                         




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