FC2ブログ
 

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





※ スパム対策の為、暫くの間コメントは承認制にさせていただいております。
  コメントを頂いてから表示までにお時間をいただく場合がございますが、
  何卒ご理解くださいますよう、お願い致します。(管理人)

by 杜の小径  at --:-- |  スポンサー広告 |   |   |  page top ↑

七月への挽歌

              ひので

 今日で七月が終わる。私は去りゆく君に向かって、王維のように喚び掛ける。「君に勧む更に尽くせ一杯の酒」と。さあ、今夜は心ゆくまで飲もうじゃないか。おや? 小声で呟くのは誰だ。― 1年は12か月、その月が終わる度に別れを惜しむなんて面倒で仕方が無い。ナンセンスだ。―そう思われる方は、続きを読まないほうがいい。そんなインセンシチブな人には、この酒の哀しみの味は解らないだろう。

 七月は、どんな月だろうか。1年で最も暑い月であることは、現に皆さんが体感している通りである。しかし、8月に入って1週間で立秋を迎える。陰陽道で謂えば、褻(ケ)に入る。ということは、7月は晴の期の最後の月である。望(もち)の月を眺めながら虧けて行く明日からを思う、祭の最中に祭の後を思う、命の最も盛んな時にこそ、その終焉を憂える。七月は、将に憂愁の月なのである。

漢詩
   梧桐樹下草虫集(梧桐の樹下に草虫すだく)
   蜻蛉舞処落陽斜(蜻蛉舞う処落陽斜めなり)
   一陣涼風吹鬢雪(一陣の涼風鬢雪を吹く)
   残蝉如咽送七月(残蝉咽ぶ如く七月を送る)

五行詩
   逃げ水を
   追いかけるような
   日々の果て
   無色の氷菓
   さくさくと食む

一行詩
   一握の熱砂を詩とし夭折す

   灼け石を積む鬼がゐて賽河原

   夕焼けへ草矢うつ子に夏寂し
スポンサーサイト





※ スパム対策の為、暫くの間コメントは承認制にさせていただいております。
  コメントを頂いてから表示までにお時間をいただく場合がございますが、
  何卒ご理解くださいますよう、お願い致します。(管理人)

by 杜の小径  at 23:13 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

アイコちゃん、盗られたぁ~

   sizen722.jpg
        昨年はビニル栽培で、かなりの量のジャガイモを収穫した。今年は連作障害を推みて休作したのだが、空鉢に紛れ込んだらしいジャガイモが芽を出した。一本だけだから頑張らなければと思ったのか肥料も遣らないのに花を付け、その後もすくすく育っている。(写真:ジャガイモの花)
 
02-IMGP2749.jpg

 昨年、肥料不足で失敗したタカノツメは腐葉土をたっぷり使ったので上々の出来。毎日数本ずつ採って、八丁味噌を付けて食べている。食欲の落ちる夏場には、必須の食材である。こんがり炙ってから食べるのだが、ちょっとしたコツが要る。炙る前に五ミリほどの切れ込みを入れる。こうしないと焼いているうちに膨張して爆発してしまう。焼網は裏返して鉄板側を使う。これなら転がしながら万遍なく炙れるし、網目から零れ落ちることもない。(写真:タカノツメ)

  01161538_49702b69a98c9.jpg 20090620152535.jpg


 旅が多くなりそうだったので今年は吾がヴェランダ・ファームは野菜部門を大幅に縮小(オオゲサ!)したのだが、ミニ・トマトだけは欠かさなかった。殊に今年は糖度12度という新品種の苗が手に入ったので期待が大きかった。千葉へゴルフに行った帰りに、勝浦で朝獲りのカツオを三本買った。それを入れてきた発泡スチロールの箱に、鹿沼土と腐葉土を混ぜてミニ・トマトを植えた。予想を上回る出来で、今週はじめから色づき始めた。完全なオーガニック栽培だから、毎朝起きぬけにヴェランダへ出て数粒を口に入れる。糖度が売りの新品種だけに、まるでフルーツのように甘い。ところが…、今朝は熟した実が一つも無い。犯人は直ぐに判った。鉢の縁に残された大きな糞は、ヒヨドリのものだった。彼はなかなかのグルメで、美味しい食べ物があるうちは不味いものは食べない。例えば味の悪いイイギリやアオキの実は、餌のなくなる冬までは見向きもしない。昨年のミニ・トマトには一度も寄り付かなかったのに、糖度の高い新品種と見るや早速やって来た。それにしても、どうやって味を識別しているのだろう。人間だって大昔はそうした本能を持っていたであろうに、いつの間にか失ってしまった。自ら霊長類を名乗るホモ・サピエンスは、進化どころか退化しているのではあるまいか。そう思うと、吾がミニ・トマトを失敬していったヒヨドリ君を恨む気持ちは湧いてこない。明日は彼より早く起きて、トマトに在り付こう。でも、少しは残しておいてやるからな。(写真:ミニ・トマト)

 えっ、「アイコちゃん、盗られたぁ~」というヘッドの話はどうなった? ですって。実は新品種のミニ・トマトの名前がアイコなんです。センセーショナルなヘッドラインですみませんデシタ。

 




※ スパム対策の為、暫くの間コメントは承認制にさせていただいております。
  コメントを頂いてから表示までにお時間をいただく場合がございますが、
  何卒ご理解くださいますよう、お願い致します。(管理人)

by 杜の小径  at 02:40 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

心に残る詩―麹町倶楽部例会より

               こうじ1

 夏休みシーズンのせいか欠席が目立ったが、その分じっくりと評釈を聞くことが出来て充実した例会だった。司会は、前回一席の渡邊加代子さん。今回も成績に関係なく、私の心に残った作品を紹介したい(敬称略)。なお、全作品及び互選の結果は麹町倶楽部ホームページに掲載。

(自由詠)
   初恋は
   クリームソーダとサンドイッチ
   ライブ・チケットと
   それから…
   雨の中のサヨナラ(史緒)

(評)初句と結句にサンドされたフレーズは、三つの名詞と接続詞だけという洒落た構成。それだけで、ビターな初恋の思い出が過不足なく語られている。内容、詩形共に秀逸。

   熱帯夜が明けても
   猛暑日との予報
   せめて言って欲しい
   トンガの夜とか
   フィジーの午後とか(酒井映子)

(評)誰しもが似たようなことを考えていても、ナンセンスだと思って口にしない。まして作品には…。ところが この作者は平然とタブーに挑戦する。素っ頓狂なことは作者自身がいちばん知っている。「言って欲しい」となってはいるが、本意は表現を変えろということではなくて、我慢できない暑さを表現することにある。ニュージーランドとかポリネシアでなく、敢てマイナーなトンガやフィジーを例示したことでも作者の真意が判る。私は江戸風のクォーリティーの高い洒落だと理解したい。

   吐くものを
   吐き出してしまったときの
   快感
   新たに進める
   という 喜びがある(町田道子)

評)この作品を一読して、哲学者・詩人 内村剛介の言葉を思い出した。彼は「私にとって詩は反吐だ。書くのではなく込み上げるもの。そしてそれを吐き尽くしてからでないと新しい詩は生まれない」―この作品は もちろん詩に限定したものではなく、心に蟠る種ぐさのものを吐き出した快感を謂うのであろう。1~3句のきっぱりとした詩形が、読む者を納得させる迫力を生んでいる。
  
   すっぱくて
   しょっぱくて
   これが 
   母の最後の手作りの梅干
   口いっぱいの切なさ(水野迷子)



(評)減塩食品が持て囃される昨今は、かちかちで白い塩の噴いた昔ながらの梅干しは敬遠されがちだ。しかし亡き母が最後に作ってくれた梅干となれば、作者にとっては何物にも代え難い宝物。冒頭の「すっぱくて/しょっぱくて」と結句の「口いっぱいの~」との
照応が効果を挙げている。

(以下、題詠)
   薄着の乙女らが
   笑います
   見とれて電柱に
   ぶつかります
   かあさん、夏が来ました(平井敬人)

(評)手紙形式、それも全部を現在形で構成したのが成功している。歌会での発言は夏の様子がユーモラスに描かれているといったものばかりだったが、夏を表す語彙は「薄着」だけ。夏の点景を描いたとするなら不十分だ。この作品の優れている最大のポイントは、こうした手紙を書く息子と、それを受け容れる母親の微笑ましい姿が自然に浮かび上がってくるところにある。強いて難を探せば初句の「乙女ら」の表現。「お嬢さん」か「娘たち」のほうが自然かも。2句の「笑います」も、このままでは唐突。題詠で已む無く入れたのだろうが、詩集などへの収録を考えると、いまのうちに推敲しておいたほうがいいね。  

   しづかに
   息を吐く4秒にも
   ゆかいに笑った
   11秒の間にも
   あの世はにじり寄る(ま のすけ)

(評)命あるものは必ず死ぬ―この命題を平然と受け容れる人が居ることが不思議でならない。文化とか芸術といった高尚なものも、所詮は死の恐怖を一時的に忘れる麻薬のようなものではないか。死の恐怖から逃れる唯一の手段は、自ら死ぬしかない。なぜならば、死への恐怖は生きているからであって、死の瞬間から「死」は無くなる―若い頃は、そんなことばかり思い患い、デカダンな生活に奔ったこともある。この作品の結句「あの世はにじり寄る」は、死への生々しい恐怖を甦らした。「息を吐く4秒」と「ゆかいに笑った11秒」という奇妙な対句さえ、呪文のように私を責める。将に忘れたい「心に残る詩」である。

   まだ
   七七日も過ぎてないのに
   落語で
   大笑いしてしまう
   人間って凄い(小杉淑子)

(評)この作品も命を主題にしている点で、上掲の作品と同類である。「楽しみ極まって哀れ生ず」という言葉がある反面、ノーベル賞を受賞したベルクソンは「人間は悲しみの極致に於いても笑う」と言っている。「意識の解放」という語彙で悲喜を同源と断ずるなど、難解な理屈を捏ねるつもりは無い。作者は最近、故郷の海で父親を不慮の事故で亡くされたばかりである。偶々、故郷の病院に勤めておられた弟さんはご遺体の検視に立ち会われたという。「大声で笑って」しまったのは、その弟さんだった。作者は決して弟さんを責めているのではない。結句の「人間って凄い」には、死って何? 悲しみって何? 果ては人間って何? といった作者の様ざまな想いが籠められている。笑う弟さんよりも、それを冷静に観察して一篇の詩に仕上げた作者のほうが、遥かに「凄い」。その意味で心に残る作品である。





※ スパム対策の為、暫くの間コメントは承認制にさせていただいております。
  コメントを頂いてから表示までにお時間をいただく場合がございますが、
  何卒ご理解くださいますよう、お願い致します。(管理人)

by 杜の小径  at 03:11 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

浮草の下の世界―批評ということ

ホテイアオイ1 ウキクサ
 
   浮き草に それぞれの茎 それぞれの花(杜詩夫)

   萍(うきくさ)の下の世界を測りかね( 〃 )


 陽が落ちてから、国分寺跡近くの蕎麦屋へ出掛ける。このところ酷暑を避けて早朝にばかり歩いているので、「お鷹の道」辺りの風物が妙に新鮮に感じる。この時季は香りの強い花が少ないので、薄明のなかでは咲いている花々に気付くことも無く通り過ぎていた。樹間に見え隠れする野鳥たちの声も思い做しか、つれなく聞こえる。勿論こっちの僻目なんだが…。ご無沙汰していた酒場に、久し振りに顔を出したようだななどと思いながら歩く。

 池畔に、ホテイアオイが咲いていた。葉柄の根元がぷっくり膨らんでいるのを布袋様のお腹に見立てて名付けられたものだが、その姿態もなかなかユーモラスでいい。薄紫の花は、古刹跡の雰囲気にぴったりだ。ところが、この花はウォーター・ヒヤシンスの別名があるように日本の固有種ではなく、帰化植物である。…でも、古今集などには浮草を詠んだ歌があるよ、と仰りたいでしょ。

  侘びぬれば 身を浮き草の 根をたえて 誘ふ水あらば いなんとぞ思ふ(小野小町)
  水の面に 生ふる皐月の 浮草の うき事あれや 根をたえてこね(凡河内躬恒)
  浮き草の うへは茂れる 淵なれや 深き心を 知る人のなき (詠み人知らず)

 調べれば、未だまだあると思うが,ここで詠われた浮草は無性繁殖で殆ど花は咲かない。稀に咲いても極めて小さくて、とても鑑賞に耐えられるようなものではない。古歌では浮き草そのものを詠うというより、「憂き」の掛詞として遣われるケースが多かった。冒頭の一行詩で、浮草に異なる二つの表記を遣ったのは、このためであった。(写真:左から帰化植物のホテイアオイ、日本固有種のウキクサ)

 浮草を見ての帰途、私はぼんやりと文芸作品について考えていた。それが小説であろうが詩であろうが、作品と謂う花の下には作家それぞれの想いが秘められている。その茎や花を大雑把に掴むことはできても、正確に理解することは難しい。「浮草の下の世界は測りかねる」というのが正直な気持ちだ。測りかねることは口に出せない。だから私はよほど懇望されたとき以外、他人の作品に批評の筆を執ったことは無い。
 ただ、短詩形の様ざまなギャザリングに出席するようになってから、積極的に批評をするようになった。それが結社であれ同好会のようなものであれ、相互研磨の研究の場であるから、相互批評は出席者としての義務だと考えているからである。とは言っても他人の作品を批評するほどシンドイことはない。私の場合、自分の作品を産み出すより肉体的にも精神的にも遥かに重労働である。一首を解り兼ねて夜を徹することだってある。それでも批評するは、他の参加者も同じように真剣に私の作品を読んでくれていると信じるからである。これは一般論であるが、批評を挨拶と勘違いしている人が多い。作意が不明でも文法的な誤りがあっても、そんなことはどうでもいいい。当たり障りの無い褒め言葉を並べることが批評だと思っているようだ。だから真面な批評に出逢うと、まるで悪口でも言われたように委縮してしまう。好んで租(アラ)探しをしたり悪口を言う人が居るだろうか。そんな人が居ない。それは座禅を組みながら警策を憎しみの鞭と感じるようなものだ。
 また、他のブログを蝶のように飛び回って饒舌に語りながら、ギャザリングでは一語も発しない人が居る。これも残念だ。見栄を捨て虚心になれば、もっと坦懐に話し合える筈だ。私はいま、批評について絶望しつつある。
               
    ドクダミ
                  
 自分でも美味しいと思い、人にも薦めてきたSの蕎麦が、今日は水っぽくて旨くなかった。暑さで眠れぬ夜が続いたせいか、どうも思考が僻みっぽくなっていけない。自分だけが正しくて他人が間違っている―そんな考え方だけはしまいと思っていても、苦労して辿り着いた蕎麦屋の味が期待を裏切ると、つい愚痴も出る。振られた女に未練を残すようなものかな。ちょっと違うかもしれない。
一里塚の地蔵さまの叢に、どくだみがいっぱい咲いていた。匂いが強く名前も毒々しいが、僕は好きな花だ。楚々と真剣に生きている様子がいい。

   夕暮れて 信じたき白 どくだみ咲く(杜詩夫)
  
  




※ スパム対策の為、暫くの間コメントは承認制にさせていただいております。
  コメントを頂いてから表示までにお時間をいただく場合がございますが、
  何卒ご理解くださいますよう、お願い致します。(管理人)

by 杜の小径  at 05:12 |  日記 |  comment (4)  |   |  page top ↑

大暑偶感

         コピー ~ 2010_0723_211104-DSC_0479 
 このところ真夏日が続いているが、今日は暦のうえでも大暑と謂う。二十四節気の一つで本来は旧暦六月未(ひつじ)の月の中気で、新暦では今日が大暑に当たる。―てなこと書いてもつまんないな。とにかく、大いに暑い日だから大暑。このほうが解り易いか。後2週間ほどで立秋らしいが、こんなに暑くても秋が来るのかなぁ。JRみたいに線路直す車が線路壊しちゃったから電車来ませんなんちゃって、秋も延着するんじゃないの。

 くだらん話はこれくらいにして、真面目に話したいことがある。大暑で思い出す句がある、思い出す人がいる。

         2010_0723_211002-DSC_0475.jpg


   父の忌と母の忌の間の大暑かな(友田しげを)

 これは、平成4年にNHK全国俳句大会で入賞し、翌年同作品で文部大臣賞と毎日新聞俳壇賞を受賞した作品である。作者の友田氏は平成12年に俳人協会会員に推挙され、そえを記念して初句集『大暑』を上梓した。若い頃から友田氏の指導に当たってきた彦根伊波穂氏は、跋文の最初にこの句を取り上げている。―「これは数々の賞を戴いた作品である。当然のことながら、その感激はいつまでも しげを氏の心底に息づいていて、今回初句集を編むに当たっても、題名は躊躇無く「大暑」一本槍に選んだという。大暑の頃になると暑さも本格化、夏の土用もこの節気に在り、酷暑に苛まれる時期である。が、不撓不屈、芯の強いタイプの著者には まことに似遣わしい題名だと思う。彦根氏は跋文で三十数句を抽出して解説されているが、とても全部は紹介出来ない。後一句だけ抜き書きしてみよう。

   火の国へ入る一望の麦の秋

 しげを氏の生家は肥後熊本の田原村であり、西南戦争の折に薩軍と官軍が激闘した田原坂がある。その坂の上に立って眺望する村は一面の麦の秋。往時の回想を言外に置きながら、火の山と麦秋を取り入れたフレーミングがいい。

   一本の扇遺して父逝きぬ
   秋風や貝より軽き母の骨
   大阿蘇をしっぽで搏てり五月鯉
   熊本の西瓜どーんと届きけり

 友田しげをさんの作品は上掲のように、肥後もっこすらしい骨太の半面、故郷や父母に寄せる細やかな愛情に満ちている。
『大暑』が出版されたとき、私は五十句を選んで評釈させて戴いた。かなりの長文になったが、門外漢の私が書いたのだから内容は知れた事だ。それでもたいへん喜ばれて、コピーを知人に配られたと聞いてほっとした。
 以前は月に一、二回はお会いしていたのに、ここ三年ほどは疎遠に過ごしている。お元気で活躍されているだろうか。
 だいたい、私は人間関係を維持するのが下手なのかもしれない。奇縁を活かして関係を深めようという気持ちは、さらさら無い。また、ノミナルな人間関係を持続するのが嫌いだ。相手の気持ちを忖度し過ぎるのかもしれない。一昨年は mixi というIT交流組織で、半年間交流の無かった人は削除するという原則を勝手に作って実行したら、mixiメイトが三人になってしまったことがある。組織についても同じである。自分と肌合いの合わない組織の場合、それをリフォームしようとは全く思わない。ただ、黙ってフェードアウトする。
 
   人気無きところを選び 虹立てり(杜詩夫)







※ スパム対策の為、暫くの間コメントは承認制にさせていただいております。
  コメントを頂いてから表示までにお時間をいただく場合がございますが、
  何卒ご理解くださいますよう、お願い致します。(管理人)

by 杜の小径  at 01:21 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

不死男忌 再び

   1秋元不死男   鷹羽狩行

 昨日届いた某誌八月号に、鷹羽狩行(俳人協会会長)の「不死男忌」という小文が載っていた。冒頭の一行「七月二十五日は不死男忌である。」を見て、私は“大変なこと”に気付いた。先月25日のブログで、私は不死男忌を取り上げている。要するに一か月間違えていた。恥ずかしさに断筆も考えたが、一晩悩んだ末に取り敢えず率直にお詫びしたうえで改めて不死男を偲ぶ稿を起こそうというズルイ結論に落ち着いた。―(ここで、杜詩夫は深々と頭を下げる)―

 秋元不死男を語るとすれば、俳人の中で狩行を措いて適任者はいないだろう。不死男の主宰する「氷海」で、彼は上田五千石と共に双璧と謳われた。自宅も日吉の慶大野球場を挟んで直ぐという近さで、若い頃から「氷海」の編集を手伝っていた。不死男も日頃から「ゆきちゃん」と呼んで可愛がっていた(狩行の本名は高橋行雄)。さて某誌の中で狩行は、こんな思い出を書いている。(写真:左から秋元不死男、鷹羽狩行)

   2秋元不死男
            
 38年前のこと、不死男先生から氷海二十五周年記念の功労賞を戴いたが、記念品目録の中身は白紙だった。それには、こんな経緯がある。「何が欲しい?」と聞かれたので、「私の書斎に先生の牛午山房(ぎゅうごさんぼう)のような名前を付けて下さいと答えた。先生は牛齢生まれ、阿喜夫人は午齢生まれに因んで付けられた名前だった。先生は私が午齢、家内が牛齢だとご存知だったので咄嗟に、「午牛山房は駄目ですよ」と申し上げた。先生はにやりと笑われて、「じゃあ鶏頭山房はどうかね」と仰る。「鶏頭なんて私の庭には一本も生えていませんよ」と私。「植えればいいじゃないの十五本ばかり。「ケイトウとなるもギュウゴとなる勿れ」―そう言って先生は再びにやにやされた。結局,話は進まず目録は白紙のままである。(写真:牛午山房の扁額)

 狩行は不死男の十七回忌に「父の日の一句を黄泉の不死男宛」と詠んでいる。両者は師弟というより、親子のような関係であったようだ。そのほかに狩行は、年々の不死男忌に次のような句を詠んでいる。主な作品だけを挙げる。
   
   支那街にすする昼粥不死男の忌(昭和59)
   冷酒の人燗の人不死男の忌(〃63)
   寸借を「給油」と呼びし不死男の忌(平成元年)
   不死男忌や玉の地酒を舌の上(〃11)
   忌日また過客の一つ不死男の忌(〃13)
   「行ちゃんとわれを呼びにし不死男の忌(〃18)

 と、いうことで結局は鷹羽狩行さんのエッセイをお借りして「不死男忌 再び」を終えてしまった。やはり断筆の刑か…。

   もの書くは恥かくことか穴まどひ(杜詩夫)




                    




※ スパム対策の為、暫くの間コメントは承認制にさせていただいております。
  コメントを頂いてから表示までにお時間をいただく場合がございますが、
  何卒ご理解くださいますよう、お願い致します。(管理人)

by 杜の小径  at 07:42 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

秋櫻子先生からの贈物?

   コスモス1    mizuhara2_150.jpg

   秋ざくら一りん咲きぬ風の道(杜詩夫)

 三本目のビールを開けようとしたとき―、あっ、これは熱中症すなわち塩分とミネラルの消耗による脱水症状予防のため已むなく飲んでいるものです。―したとき、エントランス・コールが宅急便を知らせた。中元の時期は過ぎたが、三日前に気候不順で出荷が遅れましたという詫状付きで岡山の白桃が届いた例もある。今度は夕張のメロンか、宮崎のマンゴーかなどと想像しながら腰をあげるが、そんな高価な果物を贈ってくれる知人は思い当たらない。ドアを開けた瞬間、メロントマンゴーへの期待は消えた。荷物は1㍍四方の平らなものだった。

  2010_0722_105855-DSC_0483.jpg  2010_0722_105813-DSC_0480.jpg

 差出人は水原亜矢子さん。暑中見舞に色紙を贈って戴いた。一枚は今春、都庁の展望室で開かれた「陽春俳句展」に展示された作品。当日、帰り際に「どれか、お気に入りの作品がございましたか」と聞かれ、「これ、いいですねぇ」とお答えしたのを覚えていて、わざわざ送って下さった。

    百合の香の
昂り
甘き
逢瀬かな 

亜矢子

 このほかに金泥の色紙に「花野来て 雲の流れの 定まりて」など四句を揮毫された色紙が同封されていた。お手紙によると展覧会の後、母上さまが肺炎に罹られ、ご自身も関節炎を患われたとのこと。

 水原亜矢子さんは秋櫻子の姪に当たり、俳誌『久珠』を主宰されている。知人の下平紀代子さん、松木淑子さんが同人だった関係で、2年前にパレスホテルで開かれた「水無月の俳句展」で初めてお会いした。私の勘違いで開会1時間前に会場を訪ねたのでギャラリーは未だ閉まっていた。出直そうと帰りかけたとき、ホテルの玄関で和服の婦人と擦れ違った。面識は無かったが思わず「水原先生ですか」と声を掛けてしまった。それが亜矢子先生だった。誘われるままに中に入れて戴き、開会までの間、秋櫻子先生のことなどをお聞きした。

 17日の秋櫻子忌に、このブログで秋櫻子に関する小文を書いた。このことは、亜矢子さんはご存知無い。全くの偶然である。だから亜矢子さんから素敵な色紙を贈って戴き、私としては秋櫻子先生からプレゼントを戴いたような嬉しい気持ちがしている。





※ スパム対策の為、暫くの間コメントは承認制にさせていただいております。
  コメントを頂いてから表示までにお時間をいただく場合がございますが、
  何卒ご理解くださいますよう、お願い致します。(管理人)

by 杜の小径  at 15:03 |  日記 |  comment (2)  |   |  page top ↑

暑中酔談

慶応 040

   生身より熱き御影の墓洗ふ(杜詩夫)

   根の国は涼しからむと盆の道( 〃 )

 19日―墓参。娘に電話すると、子どもを連れて海に来ていると言う。むっとして、「お盆の墓参りは行かないのか」と訊くと、「あれっ、毎年8月になってからでしょ」と、けろっとしている。仕方がないのでタクシーを呼ぶ。歩いても30分もあれば着くが、この暑さでは無理だ。いつもは東八道路から多磨霊園に入る交差点が混雑するのに、この日はすいすい抜けられた。墓の管理をお願いしている親戚の石材店に寄って、供花と線香を買う。店先が意外に閑散としている。「静かだねぇ」と声を掛けると、奥さんが「この辺では今日は静かなんです。ウチの忙しいのは8月1日と2日です」と言う。奥から主人が顔を出して「昔は今頃がナツゴ(夏蚕)のジョウゾク(上蔟)の時期だったんでね、盆は一段落した8月1日2日にやるんですよ」と説明した。私の家でも養蚕をやっていたので、事情は解る。上蔟というのは成長した蚕の体が透明になったのを見計らって、蔟(まぶし)という繭を作らせるための藁で編んだ簾へ移すことだ。いわば養蚕の最後の追い込み作業。これが終われば蚕にもう桑の葉を与えなくていいから、ずっと楽になる。それで、養蚕の盛んだった国分寺、府中、小金井辺りでは盆の行事を半月遅らせたのであろう。養蚕が廃れてから既に半世紀以上経つ。若い人たちは蚕はおろか、桑の木さえ見たことも無い。それなのに、「ずらし盆」の風習だけは厳然と残っている。伝統というのは不思議なものだ。それにしても土地っ子でもない娘が、土地の風習を口実に盆の墓参りをサボるのは納得できない。むしゃくしゃするので、夜は飲みに出る。

 20日―昨日、少し飲み過ぎた。昼過ぎまで寝ていて、夕方涼しくなってから買物に出る。ポストに、渋谷歌会の高橋章さんからの暑中見舞が届いていた。「最近はまっている蕎麦屋が立川にあります。ご無沙汰して居ります先輩と、そこで一杯やれたらいいなあと自分勝手に思っております」―思わず胸がじーんとする。高橋さんは白血病で闘病中。でも、逢うたびに笑顔で私の健康を気遣って下さる。明日、電話をしてぜひ蕎麦屋で一杯やろう。

  槇みちる
    
夜。何気なくNHKの「歌謡コンサート」を見る。最初は水谷豊。彼のワンパターンな演技は鼻持ちならないが、歌はもっと酷い。下手くそなくせに、オペラ歌手のような大仰なポーズが嫌味だねぇ。演歌歌手もヒドイよ。彼、彼女たちは、どうして歌い終わるとき視線を中空に泳がせながらうっとりとした表情をするのだろう。右手をやゝ斜め上にかざすポーズまで判で圧したように同じだ。「暴れん坊将軍」が「セイバイ!」と悪人どもをやっつけた後も、おんなじ目付をする。どちらも虫唾が走る。と言いながら、見ている俺は、もっと阿呆だ。などと思っていたら、とつぜん槙みちるというおばさん歌手が「若いってすばらしい」を歌い出した。これが良かった。60年代のアイドルだから相当な齢だろうに、声量もあって、だいいち音程が確りしている。思わず聞き惚れてしまった。
あれは、詩(安井かずみ)も曲(宮川 泰)もいいね。

   あなたが いつか言ってた 
   誰にでも 明日がある
   だから あの青い空を見るの
   若いって すばらしい

 安井、宮川コンビが30分くらいの打ち合わせでちょこちょこっと仕上げた作品らしいけど…。心に沁みる名曲だ。明日、CDを探しにいこう。♪♬「若いって すばらしい」♪♬…いいじゃん、老人が聴いたって…。文句あっか。(写真:槇みちる)


                                                     

                    




※ スパム対策の為、暫くの間コメントは承認制にさせていただいております。
  コメントを頂いてから表示までにお時間をいただく場合がございますが、
  何卒ご理解くださいますよう、お願い致します。(管理人)

by 杜の小径  at 23:40 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

良いことの前触れ―彩雲

       彩雲

 写真家の光川十洋さんこと、荒川 豊さんから珍しい写真が
送られてきました。祥事の前兆ということですから光川さんのコ
メントと一緒にご紹介します。

 彩雲は日光が雲の水滴で回析するために生じる現象だそうです。
 光川さんは僕のカメラの先生ですが、酒に関する造詣も深く、
いろいろ教えて貰っています。先月、博多で詩友雨夢さん夫妻、
画家つねちゃんたちと楽しい酒を戴いて以来のご無沙汰です。
 ぼつぼつ暑気払いをしませんか。

【光川十洋さんのコメント】
 良いことの前触れだそうです。彩雲、いい響きですね。
いろいろな所で淡いものは見ていますが、今回は色が濃く、
しかも青い色が出ていて、驚きました。
雲が三筋に色分けされた瞬間です。こうなる前は、きれいな雲が
出ているな、と3Dで撮影しました。
雲は、立体的に撮れないから、照明設備を配して撮った後、
にわかに色がつき始めました。





※ スパム対策の為、暫くの間コメントは承認制にさせていただいております。
  コメントを頂いてから表示までにお時間をいただく場合がございますが、
  何卒ご理解くださいますよう、お願い致します。(管理人)

by 杜の小径  at 17:52 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

季語「夜の秋」―つづき

               飛行機雲1

 長野在住の俳人 中村紫水さんから季語「夜の秋」について、お便りをいただきました。古典に詳しい方だけに、「夜の秋」は古今集などに詠われた日本人独特の季節感と同じではないだろうか、という ご感想でした。
 この季語が日本人独特の季節感という点では、小生も同感です。ただ、私は和歌に於ける季節感と、芭以降の俳諧に於ける季節感には微妙な違いがあるように思います。結論的に謂うと俳句のほうが繊細というか、もっと心理的要素が濃いように感じます。その違いを説明するのは、なかなか難しいことです。以下に「夜の秋」の俳句と、季節の移ろいを詠んだ古今集の歌を併記してみます。皆さんも、じっくりと味わってみて下さい。各作品に小生の寸感を添えましたが、目障りでしたら飛ばしてお読みください。
   
   西鶴の女みな死ぬ夜の秋(長谷川かな女)

 西鶴の女とは、一連の心中物に登場するお夏、おせん、おさん、お七、おまんである。
「みな死ぬ」というフレーズから、この句が直接芝居を詠んだものでないことが解る。心中を究極の愛の形と見るか、死を選ばざるを得なかった彼女たちを憐れむのか、読み手に様々な選択を迫る。私は生粋の江戸っ子だったかな女の、西鶴に対するシニカルな視線を感じる。
   
   卓に組む十指もの言ふ夜の秋(岡本 眸)
 
 卓を挟んで向き合う男女。思い沈黙の時間が流れている。作者が女性だから、十指を組んでいるのは男性のほうであろう。女は固く組んだ男の手を見詰めながら、明確に男の気持ちを読み取っている。

   梳く音の髪をはなれず夜の秋(鷹羽狩行)

 愛に悩む女の姿が想像される。それは、不倫の恋かもしれない。「髪をはなれず」に、断ち切れぬ女の想いが籠められている。上掲「卓に組む」の句と共に、無常感を遠くに匂わせ、移ろう季節に重ねるような背景である。

   攻窯に残す一灯夜の秋(林十九楼)
 
 陶芸で、窯の火を最高温度に上げるのを攻窯と謂う。その一瞬のために、陶工は夜を徹して窯前に座り続ける。熱いはずの窯場に「夜の秋」という季語を配することで、緊迫した雰囲気と一芸に打ち込む陶工の気迫が伝わって来る。

   秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ おどろかれぬる(藤原敏行)古今

 詞書に「秋立日よめる」とあるように立秋の日の歌である。透明感のある歌であるが、風の音に驚くといった抽象的でオ^バーな表現は、いかにも古今集所載の歌らしい。

   夏と秋と行きかふ空の かよひぢは かたへ涼しき風や吹くらむ(凡河内躬恒)

 詞書にある「水無月の晦日の日」とは旧暦六月の末日のこと。往く夏と来る秋が行き交う空の路は、片方だけ涼しい風が吹いているのだろうという意味である。前掲の藤原敏行の歌以上に技巧的で、私はこうした歌は好きでない。

 以上のように季語「夜の秋」は夏に感じる秋の気配ということになっていて歳時記にも夏に分類されています。しかし実際の作品を見ると、涼しいといった皮膚感覚を詠んだものは少なく、殆どが複雑な心の襞を この季語に仮託しています。一方、古今集の歌では季節の変わり目を様式化して詠んでいる例が多いのです。時代を無視して、現代俳句と古今集の作品を比較するのは些か乱暴だ、と自分でも思います。今日は季語の持つ象徴性へのアプローチですので、お許し下さい。

【追記】Mixiメイトのパピィさんが、近く従来の範疇を超えた新季語の研究ミュニティを立ち上げられる予定だそうです。期待してお待ちしましょう。









※ スパム対策の為、暫くの間コメントは承認制にさせていただいております。
  コメントを頂いてから表示までにお時間をいただく場合がございますが、
  何卒ご理解くださいますよう、お願い致します。(管理人)

by 杜の小径  at 03:36 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

夜の秋

                     携帯  073

   夜の秋 もの書かざるは餓えに似て(杜詩夫)

   髪を梳く 女のうなじ 夜の秋 ( 〃 )
 
 私は俳人ではないから俳句は創らない。創れない。読まれる方が俳句だと仰るのは一向に構わないが、自分としては一行の詩を創っているつもりである。したがって伝統的な俳句で謂う季語や音律も、私にとって必須のものではない。ただ、季語が作品と自分の内面を繋ぐ象徴語という意味でなら積極的に遣う場合もある。上掲2篇の作品に遣った「夜の秋」もそうした例で、私の好きなフレーズでもある。
「夜の秋」は「秋の夜」とは違う。今年の立秋は8月7日、秋までには、あと三旬ほど待たなくてはならない。上昇気流がつくる雲もまだ夏の形、道ばたに咲く月見草、紫蘭、十薬、著莪の花なども夏の花である。だが、夕方の野辺に早咲きのコスモスが風に揺れるのを見かけたとき、或いはヴェランダを吹き過ぎる風に、ふっと秋の気配を感じる夜―これが、「夜の秋」である。

 初めの句は、もの書きの業(ごう)について詠んだ(つもりである)。生計(たつき)のために原稿を書かなくなって久しいが、毎日なにがしかの原稿を書いている。時どき、何の為にと自問する。そんなとき思い出すのは、内村剛介の言葉だ。北海道大学、上智大学教授の傍ら『呪縛の構造』、『流亡と自存』、『愚図の系譜』、『信の飢餓』など膨大な作品を遺し、一昨年逝った。業績は哲学、文学、翻訳と多岐に亘ったが、私は内村剛介の本質は詩人だと思っていた。そこで、ある対談の折に「内村さんは何のために詩を創っているのですか」と尋ねてみた。「詩は、僕にとって反吐です」―それが、彼の答だった。彼は言葉を足して言った。本物の詩は rhetoric の範疇には無い。自分の内面に蓄積されたものが抑えようも無く噴き出すのだ、と。例えば、このブログにしてもギャラリーの居ない辺境の performance だとか、所詮はひとりよがりの masturbation だと嗤う人もいる。それを承知で、なお書かずにはいられない―そんな気持ちを籠めてみた。

 二番目では、女の業のようなものを表現してみたかった。以前、こんな五行詩を創ったことがある。

   この黒髪が憂し
   と
   女が啾く
   雪が
   雨にかわる宵

 私は男だから女性の奥底に潜む業を解る筈もないが、詩も創作である以上 男が女性の詩を創っても問題あるまい。井上靖が『額田女王』を書いても誰も不思議に思わないのに、詩の世界で作者の性別を云々するのはおかしい―というのが私の姿勢である。






※ スパム対策の為、暫くの間コメントは承認制にさせていただいております。
  コメントを頂いてから表示までにお時間をいただく場合がございますが、
  何卒ご理解くださいますよう、お願い致します。(管理人)

by 杜の小径  at 23:24 |  日記 |  comment (4)  |   |  page top ↑

秋櫻子忌

水原秋櫻子

   早咲きのコスモスゆれて秋櫻子忌(杜詩夫)
   雲の無き七月の空 群青忌( 〃 )
   青き花卓上に置き紫陽花忌( 〃 )

 7月17日は、水原秋櫻子の忌日。群青忌、紫陽花忌、喜雨亭忌ともいうのは、次の句に因んでものであろう。

   瀧落ちて群青世界とどろけり
   紫陽花や水辺の夕餉早きかな
   碧天や喜雨亭蒲公英五百輪

 冒頭の瀧は、那智の滝である。昭和29年、62歳のときの作。この年、秋櫻子は鳥羽、南紀、小豆島を旅行しているので、そのときのものであろう。昭和6年、秋桜子は「馬酔木」に、「自然の真と文藝上の真」を発表し「ホトトギス」と訣別した。この句は彼の謂う「文藝上の真」を表現した象徴的な作品である。瀧は具体的に描かれていないし、それを取り巻く青葉の説明も群青世界という語だけである。虚子流の作句方法では決して充分とは言えない。しかし結句の「とどろけり」で、瀧の音に包まれた青葉、そして自分をも見事に描き切っている。これこそ、「文藝上の真」であろう。   
 二番目の句は紫陽花の様子よりも、水辺につつましく生きる庶民の暮らに焦点を当て
て詠んでいる。秋櫻子は「ひるがへる芭蕉の葉より家輕し」について、「当時戦災で焼失した家が続々復建され、八王子・東神奈川間の沿線でも、小さな家が沢山建てられ、その完成してゆく早さは驚くほどであった。戦後の人々の気力の回復などにともなうことで、そこに住んでいる人たちは、元気よく働いて、狭い庭にかかげられた干物には、秋日がさんさんと輝いていた」ちう自解の言葉をよせているが、この句にもおなじような気持ちが
籠められている。               

   ナイターのいみじき奇蹟現じけり
   ナイターのここが勝負や蚊喰鳥
   わがいのち菊にむかひてしずかなる
   天国の夕焼を見ずや地は枯れても
   消ゆる灯の命を惜しみ牡蛎を食ふ 

 秋櫻子は早くから俳句と短歌に親しみ、東大医学部在学中に「ホトトギス」に入会して高浜虚子に師事する。その短歌的な詩的世界の俳句で注目を浴び、阿波野青畝、山口誓子、高野素十とともに 「ホトトギス」 の4Sと謳われるようになる。しかし客観写生、花鳥風詠から一歩も出ない虚子の俳句に飽き足らず、「ホトトギス」を離脱する。当時の虚子は俳壇の天皇と謂われた存在で、それに叛旗を掲げることは大変なことであった。4Sの一人高野素十は東大医学部の後輩で秋櫻子の紹介で「ホトトギス」に入ったのだが、虚子を代弁して口を極めて秋櫻子を攻撃した。昔も今も、どこの世界にも、こうした権力べったりの男は居るものである。このため一時は俳壇で孤立することになるが、やがて「ホトトギス」の沈滞したムードを嫌った人たちが彼の創刊した「馬酔木」に集うようになる。先ず五十崎古郷と門弟の石田波郷、さらに加藤楸邨、山口誓子、中村草田男なども加わり、後に女流俳句の新境地を開いた橋本多佳子も参加する。このように新時代の俳句への意欲に燃えた俳人たちが次々に参集して、「馬酔木」は「ホトトギス」に対抗する一大勢力となる。プロ野球をこよなく愛し、野球の句もたくさん作った。晩年は「いのち」を凝視した珠玉の作品を多く遺した。1981年7月17日、急性心不全のため逝去。享年88歳だった。
 





※ スパム対策の為、暫くの間コメントは承認制にさせていただいております。
  コメントを頂いてから表示までにお時間をいただく場合がございますが、
  何卒ご理解くださいますよう、お願い致します。(管理人)

by 杜の小径  at 12:18 |  日記 |  comment (1)  |   |  page top ↑

鮓の話(5)― 神話の里の発酵技術

 酢は食べるにしても、ちょいと抓むもの。鮓の話も何回も続くと食傷ぎみ。ぼつぼつアガリにしようかと思っていたら、島根出身の詩人Kさんから電話が入った。― おい、出雲は酒、酢など発酵食品の発祥の地だ。忘れるなよ。― と。
『出雲風土記』―(有名な国引き神話も載っており、現存する各地の風土記の中では最も完本に近い)―には、こんな記述がある。「佐香郷(さかのさと)郡家(こおりのみやけ) の正東(うのかた)四里一百六十歩なり。佐香の河内に百八十神集い座して、御厨立て給いて、酒を醸させ給いき。即ち百八十日喜讌して解散坐(あらげま)しき。故、佐香と云う」―意味は、「河内に沢山の神々が集まって煮炊きする調理場を建て、酒を作られた。そして長い間、毎日酒宴を開いたあと去って行かれた。そこで酎みずき(酒宴)の「さか」に因んで佐香という」。これは、現在の平田市に鎮座している佐香神社で、今は松尾神社と呼ばれている。先年京都に遊んだとき、嵐山に同名の神社が在り社前の幾つもの酒樽が積み上げられていた。やはり酒の神で、帰化人の秦氏を祀っているのも出雲の松尾神社と同じである。日本書紀によると応神天皇の頃に弓月君(ゆづきのきみ:融通王)が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったという。私は、この秦氏の原点は出雲にあるような気がする。出雲神話に出てくる因幡の白兎の話は極めて象徴的で、白兎は白いチマチョゴリを着た渡来人、それを騙す鱶は海賊または悪質な渡来仲介人という説もある。

 出雲地方は、李白、豊の秋、金鳳、天祐,國暉などの銘酒の産地である。この酒造りを支えてきたのが、出雲杜氏(とうじ)と呼ばれる人々である。酒造りに携わる職人を蔵人といい、その頂点に立つ職人を杜氏という。杜氏は、酒蔵において醸造工程の総指揮を司る、いわば醸造の大黒柱なのだ。伝統ある出雲杜氏は、江戸時代後期ごろ、農家の冬場の出稼ぎ労働として、松江市や出雲市、平田市、大社町で酒造りを手伝うようになったのが始まりと謂われる。その丁寧で的確な仕事ぶりは、たちまち中国五県で評判を呼び、県外の酒蔵からは出雲杜氏と呼ばれるようになった。

 松江の神魂(かもす)神社は最古の大社造建造物で、国宝に指定されている。この神社で毎年正月に行われる「祷人(とうじん)渡し」の行事で参詣者にふるまわれるエノハ(別名・ギンダイ)の発酵ずしを「御鮓」と謂う。宮司の秋上家が作るのが慣わしとなっており、製法は秘伝。出来上がりは、ご飯は極端に少なく塩気が極めて強い。生のほか、火で炙っても食べるが、火を近づけると忽ち塩気が白く固まりだす。この酢を桶に収め、さらに特有の〆縄で巻き付けて棒に縛り付けたのが「御鮓御輿」で、神事の前に、これを担った氏子連中が町内を練り歩く。これは出雲地方の熟れ鮓の元とみられ、優れた発酵技術を持つ出雲杜氏が深く関わっていたとみられる。






※ スパム対策の為、暫くの間コメントは承認制にさせていただいております。
  コメントを頂いてから表示までにお時間をいただく場合がございますが、
  何卒ご理解くださいますよう、お願い致します。(管理人)

by 杜の小径  at 23:59 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

鮓の話(4)―思い出の田舎酢

 東南アジアから米作が伝えられた頃に熟れ鮓の製法も伝わったと見られ、魚と塩が入手し易い沿岸部で最初に作られ始めた。やがて次第に内陸部にも広がり、土地の特性を生かした鮎鮓、鱒鮓、鮭鮓など様々な熟れ鮓が生まれた。それらの中には秋刀魚、鰺、穴子、鮎、鱒などを使った鮓のほか、各種バラ鮓とか柿、笹などの葉で腐敗を防いだ鮓などがある。
 旅が多いので、各地で様々な酢を食べる機会があった。記憶に残るものをアト・ランダムに挙げると、次のようなものが思い浮かぶ。たらば寿し(釧路) 、蝦夷海鮮ちらしすし(旭川)、笹巻きえんがわずし(仙台)、吾左衛門酢(米子)、山菜笹すし(糸魚川)、鱒の寿し(富山)、鯵の押寿し(大船)、あぶりさんまの棒寿司(下田)、手桶ちらし寿司(美濃太田)、小鯛雀寿し(和歌山)、鯖めはりすし(新宮)、瀬戸内鯛寿司(姫路)、吾左衛門鮓(米子)、鮎ずし(人吉)、ふく寿司(下関)、穴子ずし(松山)、瀬戸の押寿司(今治)、鯖の姿寿し(高知)、あなごちらし箱寿し(小倉)…etc。その全部は紹介できないが…。(写真:左笹巻きすし、鱒のすし、鮎ずし)…etc。

 鳥取県米子の吾左衛門酢は、全国に名の知られた銘品。美保湾で獲れた鯖を使った熟れ鮓だが、他と違うのは外側に北海道産の真昆布を巻いてあるところ。鯖に昆布の旨味が沁み込み、同時に酢の乾燥を防いでいる。初代は江戸時代に千石船を所有する廻船問屋を営む一方、米問屋として年貢米などの取り扱いに当たっていた。従って酢に適した米が容易に調達でき、北前船を使って必要な真昆布を仕入れることができた。(写真:左から吾左衛門酢と江戸時代の盛業ぶりを伝える古文書)

 吉野の柿の葉酢は鯖の押し酢を柿の葉で包んだもので、素朴な美しさが印象的だ。吉野は大峯登山の起点となる処で、壬申の乱の大海人皇子(天武天皇)が隠棲したり、頼朝の追討を受けた義経が逃げ込んだりした秘境。海から遠い吉野で鯖酢が作られるようになったのには訳がある。むかし伊勢や紀州の漁師たちは、漁網に虫や貝がつかないように柿渋を塗った。その渋柿を求めて吉野へ来るついでに、鯖を持ち込んだ。鯖が腐らないようにと腹に大量の塩が詰め込んだから、吉野に着く頃には程よく塩が回っていた。これを薄く削いでご飯に載せたのが柿の葉鮓の始まりと謂われている。最近は鯖のほかに、鰺、鮭、エビなどを使ったものもある。それぞれの店が老舗、本舗を名乗っているが、私は中谷本舗のものを食べている。というのは、JR信濃町駅構内に売店があって、手軽に手に入るからである。改札を入って突き当たり、花屋の横の間口1間足らずの小さな店。ついでがあったら立寄ってごらんなさい。(写真:二つとも柿の葉酢)

 鳥取を旅したとき、賀露(かろ)という漁港で出逢ったシロハタ酢も忘れ難い。シロハタとは鰰(はたはた)のことである。変わっているのは、酢飯の代わりに酢で味付けした卯の花(オカラ)を使うところ。主に冬場に作られる家庭料理らしい。麻の実を混ぜてあって、爽やかな酸味の味を更に引き締めていた。画家で詩人のKさんに聞いた話では、島根の石見地方にも酢飯の代わりにオカラを使った酢があり、「おまん鮓」と呼ばれているそうだ。こっちは鰰でなく、鯖や鰯を使った握り酢らしい。調べてみると、オカラを使った酢は山陰地方でかなり広く作られているようだ。その標準的な作り方は、次の通り。
【オカラ酢の作り方】オカラを出汁、みりん、塩で調味し、卵の白身を加え、絶えず掻き混ぜながら炒りつけ、少量の酢を合わせてよく冷やす。別にイワシ、小アジ、コハダなどを普通のスネタのように作り、塩をふりかけて酢につけ、肉が白くはぜるころ引き上げて酢をきり、オカラを普通の握り鮨のように握り、上に酢魚を載せ、刻みショウガなどを添える。
 オカラ酢で思い出す人物がある。俳優の上吉こと上田吉二郎さんだ。新国劇出身の名脇役で、黒澤映画の常連のほか小津安二郎監督の『浮草』では主演の京マチ子に殺陣の指導もした。私より二回りも年長だったが、妙に気があって一緒に飲み歩いた。たしか脚本家の野田高梧さんの紹介だったと思う。上吉さんの話ではオカラ酢は自分の発明で、戦時中に馴染みの鮓屋に教えたら東京中の鮓屋が真似するようになったという。その原点が山陰の田舎にあったとは…。(写真:左からシロハタ酢、上田吉二郎さん)


*「鮓の話」は折をみながら、その歴史、地方の鮓、鮓用語などについて書いています。皆さんの故郷とか旅先で見聞された珍しい鮓をご存知でしたら、ぜひお知らせ下さい。

*小生の個人サイト「杜の小径」は、いま調子が悪くて写真がアップできません。写真をご覧になりたい方は、 mixiのブログをご覧下さい





※ スパム対策の為、暫くの間コメントは承認制にさせていただいております。
  コメントを頂いてから表示までにお時間をいただく場合がございますが、
  何卒ご理解くださいますよう、お願い致します。(管理人)

by 杜の小径  at 07:28 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

参院選終わる

 参議院選挙の結果はほぼ予想通りで、改めて特別な感想は無い。日本の政治担当者には、おしなべて政治家としての見識が無い。国家の在り方とか進むべき方向について定見が無く、支持母体への利益誘導に汲々とする者ばかり。言うなれば、真のステーツマンが居なくてポール(POL)ばかりである。じゃあ、それを選ぶ側の意識はどうなんだろう。
 大企業が、保守党を支持するのは解る。信者が、その宗教団体の政党を支持したり、労働者が自分の所属する労組が支持する政党に投票するのも已むを得ないだろう。どうしても理解できないのは、浮動層といわれる庶民票の動向である。前回の衆院選で雪崩を打つように民主党を支持した連中が、1年も経っていないのに今度は掌を反すようにアンチ民主に変わった。評論家のセンセイ方は、口を揃えて「政治と金」「沖縄の米軍基地問題」「消費税」が原因だと言う。バカなことを言うな! そんなこと、枝葉末節の問題だ。原因は民衆がバカなんだ。自分がどの階級に属しているかをきちんと自覚していたら、その程度のことで180度態度を変えるようなことはしない。日本の現状は衆愚なのである。
 民主党が政権を獲って以来、NHKを含めたテレビ各局の世論誘導は目に余るものがあった。テレビも新聞も、大企業の広告に支えられている。だから現在のマスコミは、本質的に保守なのである。田原総一郎が御払箱になり、彼が司会していた「サンデープロジェクト」はいつの間にか消えてしまった。残った司会者やコメンテーターの無能ぶりは、目を覆うばかりである。いや、巧みに世論を誘導する彼らは、無能どころか有能と言うべきだろう。こうしたことに、誰も気づかない。或は気付いていても誰も発言しなかった。

 話は跳ぶが、最近アメリカ連邦最高裁判所が、銃規制は違憲だとする判決を下した。この裏に全米ライフル教会の圧力があったことは、殆どの人が知っている。このライフル教会は政府や軍と取引の多い銃、武器メーカーからの潤沢な援助を受けているほか、政府への献金も行っており、共和党の保守層を中心に有力な政治家の会員も多く、間接的ではあるが政治的な発言力は強い。これらのことにより、歴代のアメリカ大統領の多くが会員や名誉会員になっているほどである。
 なぜ突然こんな話を持ち出したかというと、同じような構図が日本の政治にも見られるからである。例えば日本では軍事費(防衛関係費)は聖域とされて、削減を口にする政党は少ない。今度の事業仕分けの結果、平成22年度予算案は概算要求から約168億円減というが、防衛関係費の総額は4兆7000万円。168億円なんて屁みたいな数字だ。軍事費の総額は、公共事業関係費や文教及び科学振興関係費とほぼ同じくらいである。減らすどころか自民党の一部には、防衛費を増額して軍需産業を振興すべしと声高に叫ぶグループもある。
 
 自民党、公明党は今回の勝利によって、一気に衆議院解散を要求するだろう。愚かな民衆が、また今度のようなプロパガンダに乗せられると、日本はとんでもいない方向へ舵を切ることになるだろう。





※ スパム対策の為、暫くの間コメントは承認制にさせていただいております。
  コメントを頂いてから表示までにお時間をいただく場合がございますが、
  何卒ご理解くださいますよう、お願い致します。(管理人)

by 杜の小径  at 03:18 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

鮓の話(3)― 古代の鮓

   醤酢(ひしほす)に蒜(ひる)搗き合てて鯛願ふ吾にな見せそ水葱(なぎ)の羹

 これは、万葉集に載っている長意吉麻呂の歌である。意味は「わたしゃ、ヒシオと酢を混ぜたものに、蒜を搗きこんだ鯛を和えて食いたいんだ。水葱のスープみたいなつまらん食い物なんぞ見たくもないよ」、つまり「鯛の鮓が食いタイ」と言っている。鮓という語は出ていないが、私は冒頭の「醤酢」が魚の酢漬けではないかと思う。醤(ひしほ)は魚を塩漬けにして発酵させた魚醤のこと。前回も鮓の原形は東南アジアから米作が伝来したとき一緒に伝わったのではないかと書き、タイのプラ・ソームという魚の保存料理を紹介した。同じように醤はベトナムのニョクマムに似ていたのではないか。魚醤は現代でも秋田地方のショッツルをはじめ、鰯醤油、イカナゴ醤油などの名で各地に伝わっている。昨日紹介した松山鮓は「にごり酢」という速成の魚醤を使う。これは酢に瀬戸内海特産のトラハゼ、エソなどの小魚を焼いて入れて煮出したものである。(写真:平城京木簡と百年前の鮒鮓の仕込み)

 万葉人は鯛を好んだようだ。魚介類の加工を示す名称は鮑が最も多く、鰹や鯛がそれに続く。「平城京木簡」や「長屋王木簡」には、諸国から天皇や皇族に送られた御贄(貢物)として、大多比(鯛)の鮮魚や鯛醤(鯛の醤漬け)、鯛鮓、鯛腊(鯛の身を薄切りにして干したもの)、鯛楚割(塩干し鯛を細かく切ったもの)、多比荒腊(蒸した鯛を薄切りにして干したもの)などと書かれたものがあり、さまざまに調理したタイが都に搬入されている。注目されるのは平城京跡から出土した木簡「若狭国遠敷郡 青里御贄多比鮓壱カク」。(わかさのくに おにふぐん あおのさとの みにえ たひのすし いっカク)と読む。(*注・最後の「カク」は土偏に鬲という字で、作字しないと表記できないので片仮名で書きました。素焼きの土器と思われます)
この木簡は上と下に刻みが入っており、荷物にくくりつけられていたことが判る。地名の「青里」は福井県の高浜町のことで、平安時代ころの地名を記した『倭名類聚抄』には阿遠郷とあり、現在も青の地名が残っている。この地から御贄」として「多比鮓」が都まで運送されたのである。私はこの多比鮓が、熟れ鮓ではないかと思う。「多比」は言うまでもなく鯛のこと「鮓」は塩と米で漬けこんだ熟れ鮓のこと。これを「カク」に入れ、4日ほどかけて奈良まで運んだと思われる。鮓は鯛に限らずさまざまな魚が使われた。福井から京都・奈良への道を鯖街道と呼ぶところから、庶民用には鯖の熟れ鮓が運ばれた。
 私事だが私は若狭の「へしこ」が好きで、時どき取り寄せている。これは簡単に説明すると鯖の糠漬けである。糠を落としてから薄く削いでそのまま食べたり、糠の付いたまま軽く炙って糠ごと食べたりする。一昨年、若狭へ旅したとき「へしこ」の製造元を訪ねて新しい発見をした。「へしこ」は、鯖の熟れ鮓の中間工程なのである。馴れ鮓は「へしこ」を「けだし」(塩出し)して、ご飯に麹を混ぜたものを、背を開いた鯖の中に入れて閉じて仕込む。その時期は晩秋から春先までが最適とされてている。(写真:左から「へしこ」、鯖の熟れ鮓)

 内陸部の奈良の皇族・貴族たち蛋白源を補うには鯛だけでは足りず、鯖鮓も運ばれたことであろう。それでも若狭の魚だけでは足りず、近くの琵琶湖の鮒に着目し、若狭の製法を応用して作られたのが琵琶湖の鮒鮓だったと推測される。
 大宝令の注釈書である『古記』は、鮨について『音義』という書を引用して解説している。曰く、「蜀の人、魚を取り鱗を去らず、腸を破りて塩を以て飯酒と合わせ喫わす、碑を其の上に重くし、熟せば之を食う、名づけて鮨肉とす」。中国の蜀の人は魚の鱗を取らず、臓物は取り去り塩を付け、酒と飯とを合わせたものを中に詰め重しをし、発酵したものを食べるという意味である。若狭の熟れ鮓はこの方法で作られているが、同じ方法で鮒を塩と米飯で漬けて重石をして発酵させたものが鮒鮓である。この場合、一緒に入れる炊いた米は発酵させるためで食べるためではなかった。現在でも鮒鮓は魚だけ食べて、発酵した米は食べない人もいる。

 琵琶湖畔で400年近い暖簾を誇る老舗「喜多品」を例に、鮒鮓の工程を紹介しよう。
【塩漬け】3月中旬~5月中旬、産卵期前の卵の詰まったニゴロフナを生きているうちに処理する。①庖丁で一気に鱗を取り、エラと内臓を取り除く。②鮒を井戸水でよく洗い、水切り。③エラぶたから塩を腹いっぱいに詰める。④桶に隙間のできないように万遍なく並べ、漬け込む。⑤落し蓋をして、重石を載せる。この塩漬けの状態で最低二年は置く。
【1年後…本漬け】①夏前、鮒を桶から出し水洗いする。②飯を炊き、冷ましてから塩を混ぜ合わせ鮒と飯を一段ずつ交互に漬け、最後に落し蓋をして重石を載せる。③桶や部屋についている乳酸菌などで自然発酵が進む。④この状態で1年以上は熟成させる。
【2年後…】①約1年間乳酸発酵させたものを取り出す。②もう一度新しい飯に漬け替えて3~4ヶ月更に漬ける。(写真:左から塩漬けと本漬け
【3年3か月後…】芳醇な発酵香と適度な酸味、奥深い旨みを備えた鮒鮓が完成。(写真:見事に完成した鮒鮓)


*「鮓の話」は折をみながら、その歴史、地方の鮓、鮓用語などについて書いています。皆さんの故郷とか旅先で見聞された珍しい鮓をご存知でしたら、ぜひお知らせ下さい。

*小生の個人サイト「杜の小径」は、いま調子が悪くて写真がアップできません。写真をご覧になりたい方は、 mixiのブログをご覧下さい。








※ スパム対策の為、暫くの間コメントは承認制にさせていただいております。
  コメントを頂いてから表示までにお時間をいただく場合がございますが、
  何卒ご理解くださいますよう、お願い致します。(管理人)

by 杜の小径  at 01:57 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

鮓の話(2)― 俳句の中の鮓


   鮒ずしや彦根の城に雲かかる(蕪村)
   鮓をおす石上に詩を題すべく( 〃 )
   すし桶を洗へば浅き游魚かな( 〃 )
   寂寞と昼間を鮓のなれ加減( 〃 )

 萩原朔太郎は、最初の鮒ずしの句を次のように評している。「夏草の茂る野道の向うに、遠く彦根の城をながめ、鮒鮓のヴィジョンを浮べたのである。鮒鮓を食ったのではなく、鮒鮓の聯想から、心の隅の侘しい旅愁を感じたのである。「鮒鮓」という言葉、その特殊なイメージが、夏の日の雲と対照して不思議に寂しい旅愁を感じさせるところに、この句の秀れた技巧を見るべきである。」
 ここに出てくる鮒鮓は、彦根との関連から琵琶湖辺のものだろう。後の句も、「おす石」「すし桶」「なれ加減」から鮒鮓を詠んだと思われる。鮒鮓はニゴロブナという琵琶湖特産の鮒を塩漬けにしたうえで、ご飯も一緒に密封して1年、2年と漬けた馴鮓(なれずし)である。私は大好きで、時どき伏見の「納屋孫」から取り寄せている。しかし匂いが強烈で、独特の匂いはクサヤの数倍はあるので、思わず顔を背ける人も多い。稲作と共に東南アジアから伝わったものと見られ、タイにもプラ・ソームという似たような魚の保存食がある。

   磯山や さくらのかげの みさご鮓(暁台) 
 
 下五の「みさご鮓」は解説を要する。鮓屋の屋号ではない。「みさご」は鳥の名前である。鶚(ミサゴ)はは海岸の岩の上に枯れ枝を積んで皿型の巣を作り、獲った魚は巣に運んで
岩陰に貯えておく。その間塩水を被り「なれ寿司」のようになるという。これが美味らしく、昔から漁師や美食家が密かに獲っていたようだ。これが現在の鮓の始まりとする説もある。(暁台は江戸中期の俳人、姓は加藤または久村。主に名古屋を中心に活躍した。(写真:巣を守るミサゴ)

   ふるさとや親すこやかに鮓の味(子規)
   われ愛す わが豫州 松山の鮓( 〃 )
   垣ごしや隣へくばる小鯵鮓( 〃 )
   鯛鮓や一門三十五六人( 〃 )
   早鮓や東海の魚背戸の蓼 ( 〃 )
   野の店や鮓に掛けたる赤木綿( 〃 )

 子規は鮓好きだったらしくて、鮓の句を多く遺している。また子規編の季語集を見ると、次のような様ざまな鮓が出てくる。―鮓 すもじ握り鮓 箱鮓  圧鮓 ちらし鮨 五目鮓 稲荷鮓 巻鮓 なれ鮓 飯鮓(いいずし) 早鮓 一夜鮓 柿鮓 鮎鮓 釣瓶鮓 雀鮓 はたはた鮓 蛇(じゃ)の鮓 宇治丸鮓 信田鮓 笹巻鮓 毛抜鮓 松の鮓 鮎の姿鮓 鮒鮓 鯖の馴鮓 鯖鮓 昆布巻鮓 松前鮓 鱧鮓 鱒鮓 大阪鮓 ばら鮓 あられ鮓。

   花合歓にに四山曇るや鮓熟る(石鼎)
   南風にほや焦したる鮓の宿( 〃 )
   涛声に簀戸堪へてあり鮓の桶( 〃 )

 石原石鼎は出雲生まれの俳人。鮓の句が多いのも頷ける。この地で有名なのは吾左衛門鮓。これは、鳥取藩の廻船問屋 米屋吾左衛門が考案した船子の弁当を起源とする鮓。酢で締めた天然の鯖、酢飯、北海道産真昆布が三位一体となった馴れ鮓である。

   鮓おすや貧窮間答口吟み(しづの女)

 竹下しづの女46歳、「四月三日長女澄子結婚」の前書のある一連中の作。「山ををなす用愉しゝも母の春」「子を思ふ憶良の歌や蓬餅」も同時作。蓬餅も押し鮓も、歓びの象徴であ

   蕪鮓一箸つまみ廓町(欣一)

 北陸は発酵食品の宝庫だが、なかでも有名なのが金沢の蕪鮓(かぶらずし)。塩漬にした蕪に鰤の薄切りを挟み、麹に漬けたものである。蕪の漬物でもあるけれど、鰤の方に注目すれば熟れ鮨の一種ということになる。季語で言うと鮓は夏のものだが、蕪と鰤は冬で、当然蕪鮓は冬季である。(故・沢木欣一は俳人、東京芸術大学名誉教授)

 俳句ではないが、最後に川柳で取り上げた鮓を紹介しておく。鮓の歴史が覗かれてなかなか面白い。

   あじのすふ こはだのすふと にぎやかさ(『柳樽』)
   鮓のめし 妖術といふ 身でにぎり( 〃 )

 最初の句は、江戸時代の鮓の担ぎ売りを詠んだもので、握り鮓が川柳に登場したのは これが最初である。担ぎ売りは出稼人が多いので、「すし」を「すふ」と訛っている処が面白い。秋田藩士で狂歌師でもあった平沢常富の『後はむかし物語』という江戸見聞録に「鮓売りといふは、丸き桶の薄きに古き傘の紙を蓋にして幾つも重ね、コハダの鮓、鯛の鮓とて売り歩きしは、数日漬けたる古鮓なり」とある。
 2番目の句は鮓を握る様子が、忍術使いが印を結ぶ様子に似ていると言う意味。目の前で鮓を握る屋台が現れはじめた頃の川柳だろう。『嬉遊笑覧』に、「松鮓出来て世上すし風一変し」とあることから、本所にあった松鮓が握り鮓の元祖とする説があるが、両国東小路の与兵衛鮓とする説もある。この二店の鮓は非常に高価だったので、これに先行してファースト・フード的な屋台売りの鮓があったと考えられる。
 前記の両国の与兵衛鮓は、大正12年の関東大震災で廃業したが、その間、店の暖簾に疵がつくといって鮪の鮓だけは売らなかったという。これには訳がある。当時の江戸では保存の関係で近く(江戸前)で獲れる魚しか食べなかった。それに鯛や鮃(ひらめ)のような白身の魚は珍重したが、赤身の魚は下等なものとして貧乏人しか口にしなかった。特に鮪は遠海の魚で馴染みが薄く、江戸時代初期に書かれた『慶長見聞集』には「鮪は地下(じげ=低い身分)の者も食わず」とある。(写真:屋台風の鮓屋 ―『江戸図会』より)


*「鮓の話」は折をみて、その歴史、地方の鮓、鮓用語などについて書いていきたいと思っています。皆さんの故郷とか旅先で見聞された珍しい鮓をご存知でしたら、ぜひお知らせ下さい。

*小生の個人サイト「杜の小径」は、いま調子が悪くて写真がアップできません。写真をご覧になりたい方は、 mixiのブログをご覧下さい。









※ スパム対策の為、暫くの間コメントは承認制にさせていただいております。
  コメントを頂いてから表示までにお時間をいただく場合がございますが、
  何卒ご理解くださいますよう、お願い致します。(管理人)

by 杜の小径  at 13:43 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

鮓の話(1)―「つまむ」ということ


 俳句の世界で、鮓(すし)は夏の季語である。鮓を食べるのに季節は問わないはずだが、むかし馴れ鮓しか無かった頃は気温の高い夏のほうが熟成が早かったからだろうか。余談だが、甘酒も夏の季語である。熱い甘酒は冬のものだと思っていたのに、こっちのほうががもっと解らない。むかしは暑さ凌ぎに真夏に甘酒を飲んで、汗を出したんだそうだ。そうかと思うと、先日ブログで取り上げた七夕は秋の季語。ことほどさように現代生活と懸け離れた季語を墨守している伝統俳句には、些か問題があるようだ。
とはいうものの俳句には、廃れてしまった伝統や習慣を知るヒントになるものも多い。今日は、俳句を手掛かりに鮓の世界を覗いてみよう
 
  鮓つまむ床几の下は蝉の渓(青陽)
  
  鮓一つ つまんで神楽面つける(旭)

 今日は句の解釈は暫く措くとして、「つまむ」という語に注目して欲しい。鮓は「食べる」のではなく、「つまむ」ものなのだ。「つまむ」は、広辞苑によると「指先で鋏み持つこと」とある。これは江戸前と呼ばれる東京の握り鮓に限る話だが…、鮓はもともと腹一杯食べるものではなく、宴会などの帰りに口直しにちょっと「つまむ」ものなのである。「口直し」には、雰囲気を変えるという意味もある。改まった会食や洋式パーティーのあと馴染みの店で、好みの酒を軽く一杯。そんなとき、鮓屋は格好の場所だろう。
 はじめに断っておくが私がこれから書こうとするのは、鮓屋はこうある可きだとか、鮓は斯く食べる可しといった不遜なことではない。あくまでも鮓の歴史的考察とステータス・クオにつて、恐る恐る筆を執っているのである。(とても、そうは見えないが)…例えば どんな鮓屋を選ぶかについても、軽々には言えない。北大路魯山人や志賀直、吉田茂などが愛したという鮓屋の頂点に立つ銀座・久兵衛にしても今や鮓屋というより高級料亭で、店主との会話を楽しんだりする雰囲気は皆無である。一方、いわゆる鮓通から外道と見られている回転鮓もまんざら捨てたものでもない。家族連れ、それも子ども連れなどの場合は、むしろ普通の鮓屋より こっちをお薦めする。最近は名の通ったチェーン店なら、文字通り回転が早いからネタも新鮮なようだ。スイーツ類まであるから家族団欒には適している。結論的に言えば、自分の嗜好に従って懐具合と相談しながら自由に決めればいいことである。(写真:左から銀座・久兵衛、回転鮓)

 さて、「つまむ」とは本来食べ方のことである。最近は何処の鮓屋でも箸が用意されていて、客も当然のようにそれを使っている。が、本来は人差指、親指、中指で軽く持ち上げる。これが「つまむ」である。手順は①出された鮓を横にする。②シャリに中指を軽く当て、親指と人差指で持ち上げる。③ネタの先にムラサキ(醤油)を少し付ける。④ネタがシャリより先に舌につくように下側にして一口で食べる。こうすると先ずネタの味が口に広がりシャリは自然にほどけ、鮓の旨さを充分に味わうことができる。最近は職人も箸で挟んでもほどけないようにシャリを固目に握っているが、「つまむ」客には軽く握ってくれる。ネタがコバシラ、ウニ、イクラなどの場合はシャリの周りに細く切った海苔を巻いてネタがこぼれないようにする。これを軍艦巻と呼ぶが、この場合はネタを下にして食べることができない。ガリ(甘酢ショウガ)を刷毛代わりにしてネタにムラサキを軽く付けてから、ネタを上にして食べる。軍艦巻は、戦時中に前記の銀座・久兵衛の先代が考案したと謂われる。馴染み客の海軍将校が北海道土産のウニを持ちこんで「これで握ってくれ」と言われ、それに応じた苦心の作だから軍艦巻は海苔巻ではなく握り鮓の一種なのである。(写真。左から軍艦巻、コハダの職人技)

 食べる順序についても、昔は「玉(ギョク)で始めてカッパ(胡瓜)で〆る」と謂われた。ナマものは新鮮さだけが取り柄で職人の腕の振るいようが無い。そこで最初に玉子焼を食べて職人の腕前を見るという訳である。ところが最近は玉子焼も市場で仕入れるから、職人の腕は関係無い。これに代わるのはコハダである。これはコノシロの幼魚で酢〆の加減と皮の細工が難しい。これが完璧なら店構えは粗末でも一流と言える。コノシロは出世魚で、体調5㌢程度までをシンコ、7~10㌢をコハダ、12㌢以上はナカズミ、15㌢以上をコノシロと呼ぶ。コノシロになると骨が硬くて鮓ネタには向かない。丁寧に骨を抜いてから酢味噌和えにするくらい。カッパを〆とするのは、口中をさっぱりさせるのと、これで終わりという暗黙の意思表示とするため。この食べ方についても、あんまり拘るとイヤミになるから程々がいい。シンコ巻から始めても大トロで〆ても一向に構わないと思う。ただ、時によって良い気分になることもある。むかし、浅草で一見(イチゲン)の店へ入ったとき、はじめは若い職人が握っていたが途中でさりげなく親父に代わった。訳を訊くと「こいつは息子ですがね、お客さんのように鮓を知ってる方にゃぁ未だ任せられないんですよ」ということだった。べつに勘定を負けてくれたわけではないが、そのときはちょっといい気分だった。しかし冷静に考えると鮓屋にとって、こうした客は嫌な客かもしれない。口に出して蘊蓄をひけらかしたわけではないが、そうした感じを与えたことに冷汗三斗の思いだった。それ以来、鮓屋に入ったときは、むしろ「普通に食べる」ように努めている。皆さんも、この件(クダリ)は“生兵法は大怪我の元”の教材としてお読みいただきたい。(写真:左からギョクの握り、カッパ巻)

              ―お知らせ―

*「鮓の話」は折をみて、その歴史、地方の鮓、鮓用語などについて書いていきたいと思っています。皆さんの故郷とか旅先で見聞された珍しい鮓をご存知でしたら、ぜひお知らせ下さい。

*小生の個人サイト「杜の小径」は、いま調子が悪くて写真がアップできません。写真をご覧になりたい方は、 mixiのブログをご覧下さい。






※ スパム対策の為、暫くの間コメントは承認制にさせていただいております。
  コメントを頂いてから表示までにお時間をいただく場合がございますが、
  何卒ご理解くださいますよう、お願い致します。(管理人)

by 杜の小径  at 07:40 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

七夕有情

    七夕や別れに永久と仮初と(杜詩夫)
 
 一昨日、平塚七夕祭の俳句の選をされている酒井芙美子さんから、遊びにいらっしゃいませんかと お誘いを受けた。ご主人の故 清君とは刎頸の朋、客臘の命日以来墓参をしてないのでちょっと心が動いたが、他用と重なって行きそびれた。所沢の義兄が新築する家の設計ができたので見てほしいという。しばらく姉の墓にも詣でていないので、こっちを優先した。
 
 所沢の家でTVを見ていたら、ローカルニュースで市役所が大きな七夕飾りを作っっていると報じていた。甥の車で墓参の帰途、途中の市庁舎に寄ってみた。1階の市民ホールに10㍍もある七夕を準備中だった。さっそく近くの幼稚園児が駆け付け、短冊に願いごとを書きこんでいた。係の方に「どうぞ」と促され、甥の息子たちが何か書き込んでいた。9日の午後7時まで、訪れる市民が自由に書き込むんだそうだ。竹は巨大だが本物の竹で、用意してある短冊も色紙に棕櫚の葉を割いた紐を付けた素朴なもの。平塚の七夕祭の話を聞いた直後だったので豪華に飾りたてた七夕を想像していたが、意外だった。

 関東では平塚が有名だが、最近はどこの商店街も豪華さを競うように七夕の飾り付けをやっている。ビニル製のキンキラには星祭の情緒などは求めるべきもなく、寒々とした気持ちにさせられる。実は平塚行きを止めた一般の理由は、そういうところにもあった。

 1.ささの葉 サラサラ
   のきばに ゆれる
   お星さま キラキラ
   金銀砂子(すなご)

 2.五色の たんざく
   わたしが 書いた
   お星さま キラキラ
   空から 見てる

  この歌を知っているのは、何人くらいいるだろうか。私たちが子どものころは、兄弟が集まって笹竹に短冊を結んだものだが、今では街を歩いても手作りの七夕は殆ど見かけない。アナクロと言われるかもしれないが、私にとっての七夕は軒端に揺れる笹の葉サラサラ以外に無い。

   七夕竹 惜命の文字隠れなし(波郷)
 
 大相撲のニュースを聞いていたら、波郷の句が浮かんできた。句の中の「惜命」とは「不惜身命」(ふしゃくしんみょう)のことである。この言葉でにご記憶は無いだろうか。平成6年、横綱昇進を伝える使者に貴乃花は「不惜身命を貫く所存でございます」と答えた。幸い彼は野球賭博には無関係だったが、相撲協会の理事として一半の責任はある。話は些か飛躍するが、現在の相撲協会はビニル製の七夕を飾りたてる商店街が七夕の本義を忘れているのと同じで、相撲の原点を見失っている。有望な外人に巨費を投じてスカウトし、一方、幕下力士は無給で、番付上位になれば数千万円を与えて私生活は放任といった状態。昔のこどもは、棒切れで地べたに○を描いて相撲を取った。どこの村、町にも手作りの土俵があって、草相撲が行われていた。だから相撲は国技だったのだ。この機会に大相撲は、国技という名称を変の返納したほうがいい。相撲はもはやスポーツでも国技でも無い。たんなるショービジネスに堕ちてしまったのだ。

*お知らせ―PCの具合が悪くて写真がアップできません。写真をご覧になりたい方は、mixi のブログをご覧ください。 





※ スパム対策の為、暫くの間コメントは承認制にさせていただいております。
  コメントを頂いてから表示までにお時間をいただく場合がございますが、
  何卒ご理解くださいますよう、お願い致します。(管理人)

by 杜の小径  at 18:30 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

さらば! オグリキャップ

   日高に生まれた
   葦毛の野生が
   一条の光芒を遺して
   朔北の原野に消えた
   さらば! オグリキャップ
 
 2010年7月3日午後3時、北海道新冠町の優駿スタリオンステーション
 いつものように午後の放牧を終えたオグリキャップは、馬房に戻ろうとしていた。
 夜来の雨で濡れた芝の感覚が、彼に有馬記念の重馬場の記憶を呼び覚ました。
 思わず両脚に力を込めた。その瞬間、ガキッと不気味な音が低く響く。
 老いたオグリキャップには、もはや500㌔を超える体重を支える力は無かった。
 右後肢が無慙に折れ曲がっていた。
 骨折したサラブレットの運命は、彼自身がいちばんよく知っていた。
 搬送車の中、獣医がかざす太い注射器が午後の光で鈍く光った。
 薄れゆくオグリの意識の中で、栄光と挫折の25年が浮かんでは消えていく。

 1985年3月27日の午前2時、日高の牧場で1頭の仔馬が生まれた。
 仔馬は立とうとして大きくよろめき、前へ倒れた。前脚が大きく外向していた。
 調教師は健康に育つように「ハツラツ」と名付け、必死で矯正削蹄をした。
 何とか歩けるようになったが母馬の乳が足りず、2歳までは痩せ馬だった。
 岐阜県美山町の育成牧場で過ごすころには、見違えるように元気になる。

 1987年5月19日、岐阜県笠松競馬場から「オグリキャップ」の名前でデビュー。
 初戦こそ2着だったが、その後は重賞を含めて連勝を続ける。

 地方競馬で12戦して優勝10回、2着2回という戦績を引っ提げ中央競馬へ移籍。
 初戦のベガサスステークスでは、第4コーナーからスパートをかけて優勝。
 続く毎日杯も、第3コーナーで最後方から捲り優勝。
 地方競馬出身の馬が連勝を続けたので、オグリ人気は一気に高まった。
 それまで競馬には無縁だった主婦やOLまでが、ターフに詰めかけた。
 彼女たちは「オグリギャル」と呼ばれ、一つの社会現象となる。
 オグリのぬいぐるみは1年間で160万個、60億円を売り上げ、競馬グッズの嚆矢となった。

 ところが、オグリはクラシック登録をしていなかった。
 これが無いと、どんなに強くても皐月賞、ダービー、菊花賞に出場できない。
 “幻の三冠馬”に世間の同情が集まり、中央競馬会も規約を改正する。
 しかし、5歳時の酷使が祟って次第に成績が振るわなくなる。
 天皇賞では6着、ジャパンカップでは11着と惨敗し、周囲も引退を決断する。
 引退レースは、有馬記念と決まる。

 1990年12月23日 有馬記念。中山競馬場は177、792人の観衆で埋まる。
 オグリは前々年の有馬記念を制しているが前年は5着、下馬評は低かった。
 鞍上に武豊を置いてスタート。直線一気の追い込みで優勝。有終の美を飾る。

 新冠の広大な放牧場に、一陣の夕風が吹き過ぎた。
 名馬オグリキャップが再び嘶くことはなかった。

 悲報が伝えられると、岐阜県笠松競馬場のオグリの銅像前に献花台が設けられた。
 4日には、名馬の死を悼む大勢のファンが訪れ、花束や人参を供えた。
 
   オグリキャップよ
   北天の馭者座に憩え
   主星カペラの輝くとき
   わたしは
   きみを思って哭く

 
*お知らせ―PCの具合が悪くて写真がアップできません。写真をご覧になりたい方は、mixi のブログをご覧ください。 





※ スパム対策の為、暫くの間コメントは承認制にさせていただいております。
  コメントを頂いてから表示までにお時間をいただく場合がございますが、
  何卒ご理解くださいますよう、お願い致します。(管理人)

by 杜の小径  at 02:36 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

人間探求の俳人 加藤楸邨

 7月3日は楸邨忌、俳人加藤楸邨 の忌日である。戒名の智楸院達谷宙遊居士から達谷忌ともいう。
 楸邨が俳句を始めたのは比較的晩く、25歳を過ぎてから。最初からホトトギス派の写生主義を嫌って『馬酔木』を主宰する水原秋桜子の門を敲く。37歳のときに『寒雷』を創刊、主宰となる。楸邨は「真実感合」を唱え、人の内面心理を詠むことを追求してきたことから中村草田男、石田波郷らと共に「人間探求派」と呼ばれる。その名付親は山本健吉である。
 昭和14年、『俳句研究』が行った加藤楸邨、中村草田男、石田波郷、篠原梵の「新しい俳句の課題」という座談会で、司会の山本健吉の問いに楸邨は「俳句における人間の探求」が四人共通の傾向であると答えた。このこと以来「人間探求派」と呼ばれ、彼らも「人間的存在の真実」の表現を追求していくことになる。
『寒雷』からは前日のブログでも触れた金子兜太をはじめ、森澄雄、藤村多加夫、古沢太穂、田川飛旅子、石寒太、今井聖など多彩な俳人が育った。その多さから、門下を楸邨山脈という。

 私事になるが、私が「日本の短詩形の中で最もポエジーを持ち、現代詩に近いのは俳句」と感じたのは、次のような楸邨の作品に触れたときである(カッコ内は掲載句集)。特に、冒頭の鰯雲の句にショックを受けた。当時の私はデカルト以来の近代的自我というものに疑問を持ち始めていた。理性とか文明というものでは救い得えない人間の魂―その中心に「ひとに告ぐべきことならず」が在るのではないかと、このフレーズに啓示のようなものを感じた。それは私が短歌と訣別した一因ともなったが、結局、私が俳人の道を歩むことはなかった。

   鰯雲人に告ぐべきことならず (『寒雷』)

   寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃 ( 〃 )

   長き長き春暁の貨車なつかしき (『穂高』)

   隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな (『雪後の天』)

   雉子の眸のかうかうとして売られけり (『野哭』)

   鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる (『起伏』)

   木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ ( 〃 )

   落葉松はいつめざめても雪降りをり (『山脈』)

 楸邨は、東京世田谷区九品佛の浄真寺にある「加藤家之墓」に、妻で俳人の知世子と共に眠っている。何の飾りも無い普通の墓だが、傍らに「落葉松はいつめざめても雪降りをり 楸邨」「紅の花枯れし赤さはもうかれず 知世子」と刻まれた句碑が建つ。

*お知らせ―PCの具合が悪くて写真がアップできません。写真をご覧になりたい方は、mixi のブログをご覧ください。






※ スパム対策の為、暫くの間コメントは承認制にさせていただいております。
  コメントを頂いてから表示までにお時間をいただく場合がございますが、
  何卒ご理解くださいますよう、お願い致します。(管理人)

by 杜の小径  at 19:46 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

雨が好きになる詩

   酒飲めど長梅雨の鬱払ひかね (杜詩夫)

 今日で六月が終わる。一年のちょうど半分が過ぎるからだろうか、或いは間も無く梅雨が終わるからだろうか、六月尽には他の月を送るのとは違う感慨がある。などと思いながら飲む酒である。
 
   梅雨湿るもののひとつに文の束 (杜詩夫)

 東京はさほどでもなかったが、九州は記録的な荒梅雨だったようだ。彼の地には友人も多く、その安否が気にかかる。古い来信で住所を調べ、見舞いでも書こうと思ったが通り一遍の文句しか浮かばない。何かあれば知らせてくれるだろうと、見舞状は止めにした。

   梅雨の晴間
   何を祈るのか
   捨てられた
   ビニル傘は
   十字架(クロス)の形(杜詩夫)

 バス停などに、未だ新しいビニル傘が無造作に捨てられている。1本280で買えるビニル傘を、わざわざ車内へ持ち込むことはないということなんだろう。番傘を修理して使った世代には、捨てられたビニル傘の啜り泣きが聞こえる。この詩は、それに応えるリクイエムのつもりだが、若い世代には何も聞こえないらしい。

 そういう人たちには無縁だろうが、最後に心に残る詩を紹介させて戴く。『帆翔』同人、坂本絢世さんの作品「待つ」です。

   待つということをしなくなってしまったので
   立ち止まると
   どちらの足から先に踏み出したらいいのか
   わからない
   風に聴いてみようか
 
   ああ 雨

   あの日
   閉じた傘の先端のとがった部分から
   こぼれ落ちた雨の雫が
   私の靴の中を濡らしたとき
   温かくて
   
   空のどこかで
   何かの都合が雨となり
   私の靴に入り込んできた雫が
   春の雨のせいだったとしても
   あまりの温かさに
   ひそかに泣いた

   それから 私は雨が好きになった
   体のどこかで いつも共鳴している
   ひび割れた白い陶器にも
   あの日
   靴の中を温かく濡らしたような雨が
   どこからか滑り込んでこないかと
   待つということを
   少しだけ思い出している

 (*「杜の小径」は、ただいま調子が悪くて写真をアップできません。mixi のブログは写真いりです。)




※ スパム対策の為、暫くの間コメントは承認制にさせていただいております。
  コメントを頂いてから表示までにお時間をいただく場合がございますが、
  何卒ご理解くださいますよう、お願い致します。(管理人)

by 杜の小径  at 03:38 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑
プロフィール

杜の小径

Author:杜の小径

杜のMENU
最近の記事
最近のコメント
月別アーカイブ
カテゴリー
カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。