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夜の秋

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   夜の秋 もの書かざるは餓えに似て(杜詩夫)

   髪を梳く 女のうなじ 夜の秋 ( 〃 )
 
 私は俳人ではないから俳句は創らない。創れない。読まれる方が俳句だと仰るのは一向に構わないが、自分としては一行の詩を創っているつもりである。したがって伝統的な俳句で謂う季語や音律も、私にとって必須のものではない。ただ、季語が作品と自分の内面を繋ぐ象徴語という意味でなら積極的に遣う場合もある。上掲2篇の作品に遣った「夜の秋」もそうした例で、私の好きなフレーズでもある。
「夜の秋」は「秋の夜」とは違う。今年の立秋は8月7日、秋までには、あと三旬ほど待たなくてはならない。上昇気流がつくる雲もまだ夏の形、道ばたに咲く月見草、紫蘭、十薬、著莪の花なども夏の花である。だが、夕方の野辺に早咲きのコスモスが風に揺れるのを見かけたとき、或いはヴェランダを吹き過ぎる風に、ふっと秋の気配を感じる夜―これが、「夜の秋」である。

 初めの句は、もの書きの業(ごう)について詠んだ(つもりである)。生計(たつき)のために原稿を書かなくなって久しいが、毎日なにがしかの原稿を書いている。時どき、何の為にと自問する。そんなとき思い出すのは、内村剛介の言葉だ。北海道大学、上智大学教授の傍ら『呪縛の構造』、『流亡と自存』、『愚図の系譜』、『信の飢餓』など膨大な作品を遺し、一昨年逝った。業績は哲学、文学、翻訳と多岐に亘ったが、私は内村剛介の本質は詩人だと思っていた。そこで、ある対談の折に「内村さんは何のために詩を創っているのですか」と尋ねてみた。「詩は、僕にとって反吐です」―それが、彼の答だった。彼は言葉を足して言った。本物の詩は rhetoric の範疇には無い。自分の内面に蓄積されたものが抑えようも無く噴き出すのだ、と。例えば、このブログにしてもギャラリーの居ない辺境の performance だとか、所詮はひとりよがりの masturbation だと嗤う人もいる。それを承知で、なお書かずにはいられない―そんな気持ちを籠めてみた。

 二番目では、女の業のようなものを表現してみたかった。以前、こんな五行詩を創ったことがある。

   この黒髪が憂し
   と
   女が啾く
   雪が
   雨にかわる宵

 私は男だから女性の奥底に潜む業を解る筈もないが、詩も創作である以上 男が女性の詩を創っても問題あるまい。井上靖が『額田女王』を書いても誰も不思議に思わないのに、詩の世界で作者の性別を云々するのはおかしい―というのが私の姿勢である。

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