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私の風の盆

            タイトル

   棚田にも神酒(みき)を供へて風の盆

   吊橋を渡れば聞こゆおわら節

   両袖に八尾の夜風風の盆

   ぼんぼりも手をつなぎあひ風の盆

   踊る手の波のごとしや風の盆

⑦    ⑧⑤       
      ⑨     ⑥

 越中八尾の風の盆は昨日で十一か町の前夜祭が全て終わった。前夜祭が十日間も行われるというのは例の無いことだが、それだけ人気が高いということなのであろう。前夜祭が行われるようになったのは、そんなに古いことではない。、昭和30年代までは近隣の人だけが知っているローカルな行事で、一部の好事家が独特の地方演奏、おわら節の嫋嫋とした節回し、更には優雅な手踊りに惹かれて集まっていた。私が初めて風の盆を訪れたのは学生時代だった。深夜宿で寝ていると遠くから胡弓を交えた地方の囃子が聞こえ、続いておわらの唄声に続き踊りの音が近づいてくる。飛び起きて二階の窓から遠ざかる流しの様子を眺めたものだ。そうした鄙びた雰囲気は、或ることを機に一変した。昭和60年、高橋治の『風の盆恋歌』が出版された。彼は金沢の旧制四高を卒業しているので八尾に土地カンはあったのだろうが東大卒業後小津安二郎の助監督をやっていた経験からか新潮社の社員と共に2年ものロケ・ハンを経て作品を書き上げた。小説はベストセラーになり、テレビドラマ・演劇化され、さらに平成元年に石川さゆりの同タイトルの歌が発表されると、「風の盆」は一躍ブームとなってしまった。それ以来、人口2万人そこそこの山間の町に、3日間で数十万人の観光客が押し寄せるようになり、已む無く前夜祭を行って観光客の分散を図るようになった。最近は前夜祭もたいへんな混雑ぶりだが、本祭と違って子どもを抱いて盆唄を歌ったり、踊り子さんが町内の子どもに踊りを教えながら流すなどの微笑ましいシーンも見られる。そうした光景をよすがに私は、昔静かな夜気の中で聞いた胡弓の響きを想い起こしている。それが私の風の盆である。観光用に整然と構成された風の盆は私には無縁である。そうしたわけで私は、本祭を前に取り敢えず明朝八尾を離れる。

①   ②

③ ④
   子を抱きて唄ふもありて前夜祭

   笠とれば未だ幼くて風の盆

   踊り子の帯より携帯電話鳴る

   笠と笠くっつけ密語風の盆

   両袖に恋の歌染め盆をどり

   惚れるなら命賭けよとおわら節

   笠とれば黒髪かほる風の盆

               
⑩

 宿のテレビを見ていたら、六本木を派手な衣装で踊り過ぎる若者を映していた。「スーパーよさこい」というイベントらしい。土・日の夜は高円寺と小金井で本場さながらの阿波踊りが行われたという。各地に伝わる民謡も次第に変質、変化しつつ生き残る。それが時代というのであろう。風の盆も、いつか同じ道を辿るのであろうか。

   一番星出てより弾み踊りの輪

   井田川の水音更けて風の盆

   踊り果て白山の端(は)に月のこる

     
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by 杜の小径  at 17:01 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

奥の寄道―那谷寺

                 200611-02-0800.jpg

 風の盆前夜祭も、残すところ三日となった。ここらでちょっと一服というわけではないが、加賀まで出て海のものを食し、昨夜は粟津温泉に泊まる。昨日の当番は今町だったが、この町は例年町流しより町内の聞名寺境内や新公民館前で輪踊りをすることが多い。それに地元以外の人の参加が多く素朴な雰囲気が薄いので一日パスさせて貰った。実は粟津温泉と山代温泉との中ほどにある、那谷寺(なたでら)を訪ねるという目的もあった。
 この寺は古くから奇岩珍石の寺として知られ、ご本尊の十一面千手観音は、石段を登った上にある岩窟中に安置されている。 
 寺伝に拠ると平安時代中期の寛和2年(986年)当寺を訪ねられた花山法皇は岩窟内で光り輝く観音三十三身の姿を感じられた。法皇は「私が求めている観音霊場三十三カ所はすべてこの山にある」と言われ、西国三十三カ所の第1番那智山の「那」と、第33番谷汲山の「谷」をとって「那谷寺」と寺名を改め、自ら中興の祖となられたという。(写真:那谷寺の奇岩)
              05natadera363.jpg
  先日のブログにも書いたが、この寺は『奥の細道』にも出てくる。山中温泉にしばらく逗留した芭蕉は、元禄2年(1689年)八月五日(陽暦9月18日)、弟子の河合曾良と別れ、数日前滞在した小松へ戻る道中で那谷寺に参詣する。芭蕉は境内の様子を「奇石さまざまに古松植ならべて、萱ぶきの小堂岩の上に造りかけて殊勝の地なり」と記している。意味は珍しい石がさまざまな形で重なり、その上に古い松が生え並び、萱葺きの小さなお堂が岩の上に懸け造りしてあって、いかにも尊く素晴らしい所であるとなろうか。そして、次の句を残している。境内には句碑もある。

   石山の石より白し秋の風 

 ところで一部に、この「石山」を大津の石山寺だとする説がある。私は予てからこの説には疑問を感じていた。芭蕉は確かに石山寺を度々訪れており、元禄三年(1690年)冬に訪れた時には「石山の石にたばしる霰かな」の句を残している。しかし、「石より白し」の句の記録はない。だいいち「石山」を固有名詞としては、句の趣が全く無くなる。例えば芭蕉は元禄2年(1689年)5月27日(新暦7月13日)、立石寺を訪ね有名な「閑さや岩にしみ入蝉の声」の句を残した際も、日記には「山形領に立石寺と云山寺あり」と記しても句中に寺名入れていない。
 それと今度実際に訪ねて判ったことだが、那谷寺の奇石は白色の凝灰石(ぎょうかいせき)で、石山寺の珪灰石よりもはるかに白い。芭蕉は、その際立った白さに着目いたことに間違いが無い。(写真:那谷寺境内の芭蕉句碑)

 風の盆は、今日から30日にかけて上新町、福島、諏訪町の前夜祭が行われる。その様子は、既に終わった町と一緒に稿を改めて紹介したい。






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by 杜の小径  at 04:12 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

色無き風を求めて

            ススキ

 昨夏は渥美半島・伊良湖岬に始まり、蓼科、天竜・伊那谷、福島・山形と八月の半分以上を旅で過ごした。一昨年も三宅島、天竜川、長野・山梨の美術館巡り、八尾の風の盆、安曇野と殆どを旅で過ごした。ところが今年の夏は、殆ど何処へも出掛けなかった。それだけ暑さが厳しかったということにしておこう。 
  
     無色風何処在 <色無キ風を探シニ行コウ>     杜詩夫 
溽暑燼余万慮忘<溽暑の燼余 万慮を忘る>アンマリ暑クテ思考停止ダ
聊不得眠凭淨几<聊か眠るを得ず 淨几に凭る>眠レナイノデ起キテ机ニ向カウ
机上詩稿向誰語<机上詩稿 誰に向かって語らん>然シ心開キ詩ヲ語ル友モイナイ
謂無色風何処在(思えらく色無き風何れの処にか在る>色無キ風を探シニ行コウ

     file5.jpg

   色の無き風を探して越中路

   坂多き八尾色無き風とほる

   踊り果て色無き風の吹き過ぎる

   白山の風しらじらと踊りの輪

 色の無い風がどんなものか、説明するのは難しい。古歌にも類歌を拾うことができるが、いずれも秋風の透明感、寂寥感、或いは悲傷感を表すものである。
  
   吹き来れば身にもしみける秋風を色なきものと思ひけるかな(紀友則)
  
   物思へば色なき風もなかりけり身にしむ秋の心ならひに(久我太政大臣雅実)

 紀友則の歌は『古今六条』に載るもの。中国で秋を白とする五行説から秋風を素風と呼んだことに拠るのであろう。久我雅実の歌は『新古今集』所載だが「堀川院を悼む」という前詞がある通り、悲傷感に満ちた歌である。
 話は跳ぶが北陸加賀の粟津温泉から山代温泉へ向かう途中に、那谷寺という古刹がある。この境内に芭蕉の句碑が建っている。
         
   石山の石より白し秋の風

 芭蕉は平泉を訪ねたとき杜甫の「国破山河在 城春草木深…」という詩を踏まえて『夏草や兵どもが夢のあと』と句を詠んでいるようの漢籍への知識が深い。この句も素風を踏んで作ったものであろう。往時の面影は無いだろうが、八尾の帰りに寄ってみたい。出来れば永平寺へ回って久し振りに福山諦法老師ともお会いしたい。
 
 例によって行き当たりばったりの一人旅ですが、できれば都塵に塗れた心をちょっとだけ洗い清めてこようと思っています。一応NPCは持参しますが、書きこみはできないでしょう。暫くのご無沙汰になります。みなさま、ご機嫌よう。





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by 杜の小径  at 00:40 |  日記 |  comment (2)  |   |  page top ↑

酔芙蓉(スイフヨウ)咲く

           スイフヨウ朝
   始まりに終わりがありて酔芙蓉(杜詩夫)
   
   愛増も薄暮のなかに酔芙蓉( 〃 )

酔芙蓉が咲いた。この花は芙蓉の園芸種で、季語では同類として扱われている。朝白く咲いた花が次第に桃色に変わり、夕刻には赤く色づいて凋む。その様子が微薫を帯びた佳人に似ているというので、酔芙蓉と名付けられたらしい。一度凋んだ花は翌朝に再び開くことはなく、俗に謂う一日花である。園芸種の花はあまり好きではないが、この花だけは例外だ。この時季に咲く花のなかでは、いちばん好きだ。どこが好きと問われても困る。好きな女性について理由を訊かれているようなもの。化粧っ気の無い素顔、襟足、さっぱりした性格などと数え挙げても、所詮は好きなところの一部に過ぎない。酔芙蓉の場合も一日花の儚さ、白、ピンク、赤と変化する花の色、縮緬のような花弁の質感など好きな点いろいろあるが、いずれも強いて挙げれば…である。一口では旨く言えないが、やっぱり寂しげな雰囲気であろうか。

           酔芙蓉

 ところが韓国では、ムクゲを儚い花とは見ていないようだ。次々に新しい花を咲かす点に注目して、「無窮花」(ムグンファ)と呼んで国花としている。朝鮮という国名は毎朝、新鮮な花を付けるムクゲの意味だとする説もある。
『和漢三才図会』には別名として舜英(しゅんえい)を挙げている。これは中国最古の詩集『詩経』に「女あり。車を同じくす。顔は舜華(舜英のこと)の如し」<車に同乗した女性は槿のように艶美だった>とあり、それに拠るもの。舜は瞬と同義で、開花時間の短い花の意である。
 諺に「槿一朝の栄」があり、栄華の虚しさ儚さを表すとされている。それはそれで良いとしても出典が白楽天の「松樹千年終是朽 槿花一日自為栄」<松樹千年終(つい)に是れ朽ち、槿花一日自ら栄を為す>とする説には疑問がある。この詩は儚さを詠嘆したものではない。松は千年の齢を保つというけれども、ついには朽ち果てる時がくる。一方、槿(むくげ)の花は儚い命だというけれども、槿は槿なりに一日の栄を楽しんでいると訳すべきで、他人の境遇を羨まず己の分に安んずべきであると解すべきであろう。一茶はさすがで、白楽天の意に沿った句を遺している。

   それがしも其の日暮らしぞ花木槿(はなむくげ)(一茶)

 昨年だったか、松本清張賞を受賞した梶よう子の小説に『一朝の夢』がある。主人公の中根某は六十近い八丁堀の同心。才覚も目立たず風采も上がらない男で、唯一趣味が朝顔の栽培。周囲から"朝顔同心"と陰口をたたかれているような男だが、趣味が縁で宗観という武家と知り合ってから思いもよらぬ形で幕末の政争に巻き込まれることになる。ところでタイトルの『一朝の夢』は、明らかに「槿花一朝の夢」に拠っているのだが、これは梶よう子の勘違いと思われる。『類聚名義抄』(るいじゅみょうぎしょう)―これは紫式部が『源氏物語』を書いた11世紀はじめ頃の漢字辞典だが、これにはアサガオをムクゲの別称と書いてある。即ちムクゲをアサガオと呼ぶことはあっても、アサガオとムクゲは違うのである。

      風8

 酔芙蓉が咲くと、なぜか越中八尾の風の盆を思い出す。くだくだしく蘊蓄を並べてきたが、書きたかったのは、酔芙蓉に触発されて旅心が萌したということ。恥ずかしいが最後に演歌調の五行詩を二篇―来週からしばらく東京を離れます。残者なお厳しい昨今、皆さま どうぞ ご自愛を。

   散る前に    
   せめて一夜と
   赤く咲く
   越中八尾の
   酔芙蓉

   明日は咲かない  
   酔芙蓉
   今宵限りの逢う瀬なら
   燃えて死にます
   風の盆






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by 杜の小径  at 23:29 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

「風立ちぬ、いざ生きめやも」の謎

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 先日、堀辰雄夫妻を偲ぶコンサートのことを書いた。そのときは気付かなかったが、今になって、気になることがある。それは、「風立ちぬ、いざ生きめやも」というフレーズである。堀辰雄の自伝的小説の冒頭部分で遣われてから人口に膾炙した有名な詩句で、詩句の一部「風立ちぬ」は作品のタイトルになっている。一般には<風が吹き始めた。さあ、私たちも気持ちを新たにして生きていこう>と解釈されている。―この解釈は本当に正しいのだろうか、というのが私の疑問である。

 詩歌のワークショップなどで文法的な誤りを指摘した場合 感謝されるのは五十人に一人くらいで、殆どが余計なことを言うなといった顔をされる。中には口に出して、詩歌は楽しければいいんで文法など関係無いと言う人さえいる。こっちは物識りぶるつもりは無い。まして教えてあげるといった僭越な気持ちがあるわけではない。間違った作品がその儘公表された場合、間違いを指摘しなかった分母の中に自分も含まれると見られるのが恥ずかしいから敢て発言しているに過ぎない。にも拘らず間違いが訂正されることなく公表されるのを見ると、虚しい想いに駆られる。というわけで、文法がお嫌いな方はこの先を読まないで戴きたい。(閑話休題)

image.jpg

 さて、このフレーズで問題となるのは最後の「生きめやも」である。語尾の「めやも」は推量の助動詞「む」の已然形「め」に、反語の終助詞「やも」がくっついて合成されており、意味は<どうして~するだろうか、そんなことはないだろう>となる。こういう遣い方は古語では一般的で、万葉集から有名な歌二首を挙げてみよう。
   
さざ波の志賀の大曲(わた)淀むとも 昔の人に また逢はめやも(柿本人麻呂)
  
紫草の匂へる妹(いも)を憎くあらば人妻ゆゑに われ恋ひめやも(大海人皇子)

 最初の歌の意味は<さざ波のたつ志賀の水の溜まった大曲が変わらずに淀んでいても、昔の あの人にもう一度会うことができようか。いや出来ないだろうな>である。二番目の歌は嘗ての恋人、現在は兄である天智天皇の妻となっている額田王(ぬかたのおほきみ)に贈った歌で、意味は<紫草のように香れる君がもし憎かったなら、今は兄の妻であるあなたを どうして恋い慕うことができるものか>で、二首とも歌末の「めやも」は否定語として遣われている。従って「風立ちぬ、いざ生きめやも」を文法的に正しく解釈すると、<風が吹き始めた。さあ、この風の中でどうして生きて行けるだろうか。とてもできない>となる。。

 実はこのフレーズはフランスの詩人、ポール・ヴァレリーの詩の一節で、『風立ちぬ』の扉裏に堀自身の手で「Le vent se lève, il faut tenter de vivre.」と明記されているもの。詳しく言うとヴァレリーのimetière Marin (Graveyard by the Sea)「海辺の墓標」という24聯に及ぶ長詩の最後の聯の一節に当たり、英語では The wind is rising: we must endeavor to live.となる。試しに筑摩書房から出ている『ヴァレリー全集』(鈴木信太郎訳)で、この部分を検証してみると、<風 吹き起こる……生きねばならぬ>と訳されていた。

 では、堀辰雄の誤訳だろうか。そんな筈は無い。彼は帝大国文科卒である。東大出でも弾みで入ったようなバカもいるが、彼の場合他の作品から推しても あり得ない。それに折口信夫から個人的日本の古典文学を学び、王朝文学に題材を得た『かげろふの日記』のような作品を書いている。誤訳は考えられない。

 私は改めて彼の作品を読み返してみた。堀辰雄は療養中の矢野綾子と軽井沢で知り合って、1934年に婚約する。この軽井沢でのひと夏の情景を描いたのが『美しい村』である。『美しい村』は「序曲」「美しい村」「夏」「暗い道」の4章からなる。バッハのフーガの印象から書かれたという これらの章は、軽井沢での生活を淡々とエッセイ風に描いて行く。「夏」の章で綾子(作品でが節子)との出会いが描かれ、終章の「暗い道」は帰りが遅くなってしまった夜、迷子になりかけた二人を描いたエピローグで、この後の『風立ちぬ』で描かれる二人の運命を暗示するかのような幕切れとなっている。
 実生活では綾子の肺結核が進み、意を決した堀は綾子を伴って八ヶ岳山麓の富士見高原療養所に入る。綾子はその年の暮れに死を迎えた。『風立ちぬ』では、「序曲」「春」「風立ちぬ」「冬」というふうに淡々と節子の死に向かって進行する様子が描かれる。謂わば『風立ちぬ』は絶望の書である。問題の「風立ちぬ、いざ生きめやも」というフレーズは、その「序曲」の冒頭の部分で初めて登場する。その部分を読み返してみよう。

(前略)草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を私達は耳にした。それは私達がそこに置きっぱなしにしてあった絵が、画架と共に、倒れた音らしかった。すぐ立ち上って行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。お前は私のするがままにさせていた。

  風立ちぬ、いざ生きめやも。

 ふと口を衝いて出て来たそんな詩句を、私は私に靠(もた)れているお前の肩に手をかけながら、口の裡(うち)で繰り返していた。

 最後の一行に注目して欲しい。「私」は声に出して「風立ちぬ、いざ生きめやも」と言っているのではない。「口の裡で繰り返して」いるのである。病が不治であることは節子自身も知っている。死を自覚した節子に向かって「「さあ、何とか生きてみよう」などと残酷な言葉を掛けられるだろうか。折から吹き起こった秋風に託して、「私」は節子に<よく ここまで生きてきたね。そんとはできないことなのに>と、密かに美しい絶望の詩句を贈ったのであろう。それに違いない。そう思って読むと二人の絶望と「私」の愛が胸に迫る。

「風立ちぬ、いざ生きめやも」は、堀辰雄が読者に仕掛けた謎であった。―これが私の結論である。(写真の書は寺本一川さん)






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by 杜の小径  at 15:19 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

堀辰雄夫妻に捧げる軽井沢コンサート

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 クーラーを「除湿」にしたうえで扇風機を回しているのだが、どうしても寝付かれない。暑苦しいというのではなく、環境を人工的に操作していることに自分自身が納得できないのである。なんとも厄介な性分ではある。起きだして机の前に座る。目の高さの壁に、一枚のリーフレットが貼ってある。落葉松とおぼしき数本の株立ちの根方に、ぽつんと白い麦藁帽子が置かれている。それらをバックに書家 一川さんの筆で「風立ちぬ いざ いきめやも」と書かれている。緑を主体に文字は白ぬきというデザインが洒落ている。何よりも一川さんの文字の美しさに惹かれて壁に貼ってみたところ、そこから軽井沢の清澄な風が吹き込んでくるような心地がして気に入っている。

main.jpg
                  
 リーフレットの表題は「堀多恵子さんを偲び 軽井沢を愛した堀辰雄に捧ぐジャズとクラシックのコンサート」。軽井沢をこよなく愛し、「風立ちぬ」「美しい村」「ルウベンスの偽画」「恢復期」など、清らかで余情あふれる作品を数多く残した堀辰雄。―その軽井沢で、堀辰雄に縁のある霧生トシ子さんはじめ東京やニューヨークで活躍するアーティストの仲間が集まって堀辰雄に捧げるジャズとクラシック曲で綴るコンサートが開かれる。
 東京からは、霧生トシ子とバップ・ピアノの実力派ピアニスト太田寛二、ニューヨークで学び東京で活躍するベースの増原巌、そして天才ドラマーといわれる横山和明ら。ニューヨークからは、ジャズの本場で認められたボーカリスト霧生ナブ子、デューク・エリントン楽団のレギュラーメンバーとして世界各国で活躍するジェームス・D・ゾラー、タップ界の形而上学者と評されたデビッド・ギルモアなどが参加する。(写真:堀辰雄旧居跡に建つ記念文学館)

堀多恵子

 この企画の発案者は、霧生トシ子さん。実は堀多恵子(本名。多恵)さんは、トシ子さんの叔母に当たる。このコンサートはかなり以前から企画され多恵子さんも楽しみにしていたのだが、世界で活躍中の出演者のスケジュール調整や会場のリザーブの関係で実現が遅れてしまった。多恵子さんは今年4月16日に亡くなられコンサートを聴くことはできないが、出演者は鎮魂の想いを籠めてステージに立たれるという。(写真:堀多恵子さん)














                  






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戦死やあわれ―ある特攻隊員の反戦詩

    竹内浩三   rakkasan.jpg

 戦時下の作家や詩人は何をしたか。その多くは日本文学報国会に入って、戦意高揚の片棒を担いだ。ある者は報道班員として戦場に赴き、大本営の謀略に協力した。戦後、彼らは何の罪に問われることもなく文壇に復帰した。軍部絶対という状況下で戦争協力を拒否することを彼らに期待するのは酷である―いわゆる期待可能性が無かったという理由で、その責任が阻却されてきた。これは法理論としては正しいだろう。しかし、文学者としての良心、魂に於いて忸怩たるものは無いのか。戦後65年、今さら彼らの戦争協力を責めるつもりは無い。ただ、そうした人たちにぜひ読ませたい、ある特攻隊員の詩がある。その人の名前は竹内浩三。(写真:軍服姿の竹内浩三と落下傘部隊の降下)
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 彼の存在を教えてくれたのは、藤波孝生さん(衆議院議員)だった。藤波さんとは大学は違うが、彼が委員長を務めた学生運動の全国組織で、一期後に私が委員長を務めたという関係。彼は代議士の傍ら明治神宮関係者で組織する俳句結社を主宰する俳人でもあった。そんなことから個人的にも親しく、彼の評論集『教育の周辺』も私がプロヂュースした。
 あるとき、『伊勢文学』という地元で出している同人誌を見せられた。そこに、竹内浩三の作品が載っていた。竹内浩三は藤波さんと同じ宇治山田市(現・伊勢市)出身で、旧制宇治山田中学(現宇治山田高校)の13年先輩に当たる。大学卒業後に入隊し、滑空部隊に配属された。この部隊は飛行機に曳航されたグライダーで敵陣に近付き、その真ん中にパラシュートで降下するという生還を期し難い特攻部隊だった。彼は軍務の中で小さな手帳に詩を綴り、それを他の本を刳り抜いた中に埋めて実家に送っていた。ここに紹介する作品は、1942年8月3日の作である。彼は戦争の終わる直前の1945年4月9日出撃、再び還ることはなかった。(写真:同人誌『伊勢文学』)

なお、次の作品「骨のうたう」を含む竹内浩三の反戦詩は、岩波現代文庫の『戦死やあわれ』(写真)で見ることができます。
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   ●骨のうたう

   戦死やあわれ
   兵隊の死ぬるやあわれ
   とおい他国で ひょんと死ぬるや
   だまって だれもいないところで
   ひょんと死ぬるや
   ふるさとの風や
   こいびとの眼や
   ひょんと消ゆるや

   国のため
   大君のため
   死んでしまうや
   その心や
   苔いじらしや あわれや兵隊の死ぬるや
   こらえきれないさびしさや
   なかず 咆えず ひたすら 銃を持つ
   白い箱にて 故国をながめる
   音もなく なにもない 骨
   帰っては きましたけれど

   故国の人のよそよそしさや
   自分の事務や 女のみだしなみが大切で
   骨を愛する人もなし
   骨は骨として 勲章をもらい
   高く崇められ ほまれは高し
   なれど 骨は骨 骨は聞きたかった
   絶大な愛情のひびきを 聞きたかった
   それはなかった

   がらがらどんどん事務と常識が流れていた
   骨は骨として崇められた
   骨はチンチン音を立てて粉になった

   故国の風は 骨を吹きとばした
   故国は発展にいそがしかった
   女は 化粧にいそがしかった
   なんにもないところで
   骨は なんにもなしになった。

                




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敗戦の日―ある日記から

                   高見順
   終戦日妻子入れむと風呂洗ふ(不死男)
   夫婦老ひ泪見せ合ふ終戦日(菟絲子)
   暮るるまで蝉鳴き通す終戦日(ひろし)
   飲食のおそき夜なる終戦日(麦丘人)
   裸寝の覚めて出歩く終戦日( 徹 )
   終戦日風の行方のくさかげろふ(籌子)
   古都の石垣隙まで乾き敗戦日(和子)
   草のこゑ石ころのこゑ敗戦忌(杜詩夫)

 アト・ランダムに八月十五日の句を挙げてみた。私以外は、著名な俳人の作品である。お気付きだろうか。殆どの人が「終戦日」という季語を遣っている。俳句に限らず、新聞、テレブなどまで、「終戦」の語を遣っている。
では、終戦とはどういう意味だろうか。広辞苑では「戦争が終わること。特に、太平洋戦争の終結を指すことが多い」となっている。前段は思わず噴き出してしまうほど明快な説明だが、後段は敢て間違いだと言っておこう。終戦とは交戦国が対等の立場で協議して、一定の条件で戦争の終結に合意することである。人的にも物資でも壊滅的な打撃を受け、原爆で致命傷を受けた日本は、連合国側のポツダム宣言を無条件で受諾した。国際法上も外交上も、こうした戦争終結を終戦とは言わない。明らかに敗戦である。『広辞苑』の後段は、語るに落ちた記述である。岩波書店の出版物自体が殆ど「終戦」を遣っているので、正確な定義付けを回避しているのである。大本営のウソを総括して新しい出発を誓う日に、早くも新しいウソが始まっていた。日本人は、よほど騙されることが好きな人種らしい。

 こんな中で堂々と「敗戦」を声高に叫んだ作家がいた。高見順である。彼にとって日記は作品であった。1941年から書き始められた日記は、没後に『高見順日記』として17巻にまとめられ勁草書房から出版されている。このうち敗戦の1945年分が『敗戦日記』として中央公論新社から出版されている。その中から8月15日前後の部分を紹介しておく。簡単な記述だが、当時の知識人の周辺が飾無く描かれている。何らかの意図を持って書かれた回顧録などより遥かに面白い。

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(8月7日)
新橋駅で義兄に「やあ、高見さん」と声をかけられた。
「大変な話・・・聞いた?」と義兄はいう。
「大変な話?」
 あたりの人をはばかって、義兄は歩廊に出るまで、黙っていた。人のいないところへと彼は私を引っ張っていって、
「原子爆弾の話・・・」
「・・・!」
「広島は原子爆弾でやられて大変らしい。畑俊六も死ぬし・・・」
「もう戦争はおしまいだ」
原子爆弾をいち早く発明した国が勝利を占める、原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ。そういう話はかねて聞いていた。その原子爆弾がついに出現したというのだ。・・・衝撃は強烈だった。私はふーんと言ったきり、口がきけなかった。対日共同宣言に日本が「黙殺」という態度に出たので、それに対する応答だと敵の放送は言っているという。

(8月9日)
4時過ぎごろ、林房雄が自転車に乗ってきて、
「えらいことになった。戦争はもうおしまいだな」という。新爆弾のことかと思ったら、
「まだ知らんのか。ソ連が宣戦布告だ」3時のラジオで報道されたという。
永井(龍男)君が来た。東京からの帰りに寄ったのである。緊張した表情である。長崎がまた原子爆弾に襲われ広島より惨害がひどいという。二人のものが、同盟と朝日と両方から聞いてきて、そう言ったから、うそではないらしい。
 避難の話になった。もうこうなったら避難すべきときだということはわかっているのだが、誰もしかし逃げる気がしない。億劫でありまた破れかぶれだ。
「仕方がない。死ぬんだな」

(8月10日)
 ソ連の宣戦はまったく寝耳に水だった。情報通は予感していたかもしれないが、私たちは何も知らない。むしろソ連が仲裁に出てくれることを密かに心頼みにしていた。誰もそうだった。新聞記事もソ連に対して阿諛的とも見られる態度だった。そこへいきなりソ連の宣戦。新聞にもさらに予示的な記事はなかった。
(鎌倉文庫の)表を閉じて計算していたところへ、中年客が入ってきて、今日、御前会議があって、休戦の申し入れをすることに決定したそうだと、そう言ったというのだ。明日発表があると、ひどく確信的な語調で言ったとか。あの話しぶりでは、まんざらでたらめではなさそうだと川端(康成)さんがいう。
 浴衣がけでしたけど、なんだか軍人さんのような人でしたよ」と久米(正雄)さんの奥さんはいう。
「休戦、ふーん。戦争はおしまいですか」
「おしまいですね」と川端さんはいう。
 あんなに戦争終結を望んでいたのに、いざとなると、なんだかポカンとした気持ちだった。どんなに嬉しいだろうとかねて思っていたのに、別に沸き立つ感情はなかった。その中年の客のことばというのを、信用していないからだろうか。―でも、おっつけ、戦争は終結するのだ。惨めな敗戦で終結―というので、心が沈んでいるのだろうか。

(注)鎌倉文庫は戦中、発表の場を失った作家が生計の助けにするため開いた貸本屋。川端康成や高見順らが、自ら店番に立った。戦後は出版界にも進出したが、インフレのあおりを受けて4年で倒産した。後年、川端は「悲惨な敗戦時に唯一開かれた美しい心の窓だった」と書いている。

(8月11日)
 対ソ連に関する会話、原子爆弾に関する会話を、外ではついに一つも聞かなかった。日本はどうなるのか―そういった会話は、憲兵などの耳を恐れて、外ではしないのが普通かもしれないが、外でしたってかまわないはずの対ソ連戦や新爆弾の話もついに一言も聞かなかった。民衆は黙して語らない。
大変な訓練のされ方、そういうことがしみじみと感じられる。同時に、民衆の表情にはどうなろうとかまわない、どうなろうとしようがないといったあきらめの色が濃い。絶望の暗さもないのだ。無表情だ。どうにかなるだろうといった、いわば無色無味無臭の表情だ。
  これではもうおしまいだ。その感が深い。とにかくもう疲れきっている。肉体にも精神的にも、もう参っている。肉体だけでなく精神もまたその日暮しになっている。

(8月12日)
「東条というのは、考えてみると、実にけしからんやつだ」
 どこでもそんな話になる。私もそうしたことをいう。しかし、日本を今日の状態にいたらしめた罪は私たちにもあるのだということを反省せねばならぬ。「文化界から一人でも佐倉宗五郎が出たか」と過日栗原少将は言った。むっとしたが、なるほど言論の自由のために死んだ文化人は一人もいないことを恥じねばならぬ。
 妥協的なものを書いてべんべんとして今日に至ったのである。恥じねばならぬ。他を咎める資格はないのであった。しかし・・・・・。 

(8月14日)
 警戒警報。一機の警戒警報は原子爆弾前は問題にしてなかったものだが、ちょうど警戒警報にまだ慣れなかった頃と同じように、真剣に警戒するようになった。
「一機が危ない」
 みんなこう言い出した。一機だから大丈夫、こういっていたのだが。
「巷の情報」ではアメリカは日本の申し入れに対して(国体護持を条件としての降伏申し入れ)―気持ちはわかる、しかし無条件降伏というのが当然だ、国体護持というが、天皇は事実戦争の最高指揮者ではないが、だのにそれに手を触れては困るというのはあつかましい、そういった返事だったという。そしてニミッツは原子爆弾による攻撃命令をさらに出したという、一方日本の陸軍は徹底抗戦をまだ主張しているらしいとのことだ。
思えば、敗戦に対しては新聞にだって責任がある。かん口的統制をのみ咎めることはできない。言論人、文化人にも責任はある。敗戦は原子爆弾の出現のみによって起こされたことではない。ずっと前から負けていたのだ。原子爆弾でただとどめを刺されたのである。
「おーい行かないか」
 二時半だ。東京へビールを飲みに行こうと約束したのである。
新田は白のズボンに白のシャツ、白いスポーツ帽と白ずくめ。万一原子爆弾に襲われたらと、その用心の白ずくめである。
 通称「角エビ」、銀座のエビスビアホール。どこかの職場に配ったビール券を持っていないと飲めないのだが、新田はここの「顔」だった。
 久しぶりのビール。うまいと思った。
 終戦の前日に東京ではビールが飲めたのは想像もできなかった。一般人がこれを聞いたら間違いなく怒ったことだろう。文士に常識がないといわれても仕方がない。

(8月15日)
 警報。
 ラジオが、正午重大発表があるという。天皇陛下御自ら御放送をなさるという。かかることは初めてだ。かつてなかったことだ。
「何事だろう」
 明日、戦争終結について発表があるといったが、天皇陛下がそのことで親しく国民におことばを賜るのだろうか。
 それとも、・・・あるいはその逆か。敵機来襲が変だった。休戦ならもう来ないだろうに。
 「ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおっしゃったら、みんな死ぬわね」
 と妻が言った。私もその気持ちだった。
12時、時報。
 君が代奏楽。
 詔書の御朗読。
 やはり戦争終結であった。
ついに負けたのだ。戦いに敗れたのだ。
 夏の太陽がカッカと燃えている。目に痛い光線。烈日の下に敗戦を知らされた。蝉がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ。
この日を境に戦後の日本がスタートした・・・。

(写真;上は敗戦日当時の高見順、下は中央公論版『敗戦日記』) 






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近事片々―曇のち晴

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 昨夜は六本木でRさんのコンサートだったが、体調不良を理由に欠席した。アメリカ留学から帰国したばかりの謂わば凱旋コンサート。お邪魔したかったが、どうしても行く気が起きなかった。欠席の本当の理由は体調ではない。あまり触れたくないことであるが、いつか一度は書かなければと思ったいたので、簡単に触れておく。
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    手にひとつ
    冷たき柿の
   朱を置きて
    心そかに
    人を憎めり

 数年前の作である。あることを契機に、人は本当に裏切ったり他人を陥れる生き物であることを知らされた。そのとき初めて、人を憎むことを経験した。それ以来、嫌なヤツに対しては、はっきり嫌だと言うことにした。

さてRさんのことだが、彼女もマネージャーのご主人も人柄が良くて楽しいのだが、取り巻きの中に嫌いなヤツがいる。有名人にはあらゆる手段を講じて接近し、反対に気に入らない人に対しては数種類のハンドル・ネームを使って執拗な攻撃を繰り返す。こうしたヤツに限って、不意に顔を合わせてしまうことが多い。そんなときは、数日間不愉快な気分が抜けない。彼に会いたくなかったのが、欠席の理由だった。
ついでに言うと、Xの場合はもっと質が悪い。表向きは進歩派を気取って体制批判を口にするが、これが大インチキ。権力者の前に出ると態度が一変して、奴隷のような卑屈な態度になる。これくらいなら許せるが、彼の仮面の下には許せない部分が隠されている。例えば或るボスを口を極めて批判するのでこっちも気を許して相槌を打っていると、翌日には話の内容が十倍くらいになってボスに筒抜けになっている。要するにイヌなのだ。こうなると、人間として許せない。こういう人間に出逢った日は、五回くらい手を洗ってもすっきりりしない。
『春秋公羊伝』に曰く、「君子危うきに近寄らず」と。これを危険な場所に近づくなという戒めと解している人が多いが、ちょっと違うのではないか。真意は心の peaceful を損なうものに近づくなということであろう。君子に於いて斯くの如くであれば、吾人のような凡夫はなおさら、危うきに近寄らずに如くは無い。

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 昨日、仏像彫刻師のKさんから連絡があり,私的なパーティーに招待された。共通の知人Aさんを励ます会をうという趣旨だった。Aさんは銀座の日動画廊脇で手広く美容室を経営されていたが高齢のお母さんが病気になら遣ろうれ、店を畳んで介護に当たられていた。そのお母さんが、看病の甲斐なく三月に亡くなられた。それから半年近く経ったこの辺で励ます会をしてあげようというわけ。集まったのはKさんと小生以外は女性ばかりだが、なかなか異色の人が多かった。陶芸家のDさんは自宅の庭に窯を持ち、二十㌔を超える大作を焼かれる。Oさんはル・モンドフラワーアカデミー会長、日本パンフラワー協会理事長で、パンを材料に様々な花をデザインするアートを開発された方。余技でバーテンダーの資格も持っているとかで、即席でいろいろなカクテルを作ってくださった。寺本一川さんの「墨遊び会」もそうだが、各界で途を極めた人たちと話すのは楽しい。北海道直送の生ウニや皆さん持ちよりの美食珍味が並んで小生の出番が無かったのは心残りだが、心地良い一刻を過ごすことができた。来客を玄関まで送りに出られたAさんの笑顔が、何よりもみんなの気持ちを明るくした。

      




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秋立つ日の詩

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  秋立つ日は
  原爆が落とされた日
  幾万の人間が焦げになって
  天に昇った
  残された みんな 
  日本人みんなの腹を 大きな火の玉が貫いた

  あの日から六十五回目の
  秋立つ日
  腹の中の火の玉は だんだん萎んで
  みんなは
  美しい声で讃美歌を歌っている

  わたしは
  テレビの前で一分間の黙祷を捧げたあと
  髪を洗っていた
  腹の奥に燠のように残る火の玉の残滓を
  洗い流しているように見えたかもしれない

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   【秋立つ日の一行詩】

   竹林の道まっすぐに涼新た

   今朝の秋 稿起こさむと髪洗う

   秋立つや白足袋ひたす洗い桶

   手に慣れしペンの走りや今朝の秋

   行きずりの犬に声かけ今朝の秋

   新涼や雪駄で踏みぬ塔の翳

   今朝秋の国分寺跡去り難く

   吸ひ殻の皿に余りて秋暑し
    




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詩歌で偲ぶ原爆忌

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   草に こゑ
   石ころに こゑ
   太田川 滾り咽ぶ
   ヒロシマ
   〇八・〇六・〇八・一五 (杜詩夫)

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 広島の平和記念公園の中には、数十基の慰霊の像や碑が建てられている。それぞれから、原子爆弾という残虐な兵器で殺戮された無辜の人たちの声無き声が聞こえてくる。それらの中で、特に目を惹く像がある。太田川に架かる西平和大橋の近くに建つ「教師と子ども」の像だ。爆風で衣服を剥ぎ取られた若い女性教師が、幼い教え子の遺体を抱いて空を睨んでいる。その台座には、次の歌が刻まれている。(写真:広島平和公園の「教師と子ども」像)

   大き骨は先生ならむ そのそばに 小さき あたまの骨 あつまれり(正田篠枝)
 
 歌の作者 正田篠枝(しょうだ しのえ)は35歳のとき、爆心地より1.7キロの広島市内の自宅で被爆。53歳のとき原爆症による乳がんと診断され、2年後の1965年6月15日、自宅で死去した。享年54歳。
 篠枝は原爆体験を短歌で綴った。はじめ彼女の師 杉浦翠子が主宰する『不死鳥』に39首が掲載され、後に私家版の歌集『ざんげ』に纏められた。この歌集は占領軍の厳しい監視・検閲の目をくぐり、広島刑務所でひそかに印刷、百部だけが発行された。この歌集には前掲の教師とこどもの歌のはかに、次のような作品が含まれていた。

   筏木の如くに浮かぶ死骸を 竿に鉤をつけ プスッとさしぬ
   炎なか くぐりぬけきて川に浮く 死骸に乗つかり 夜の明けを待つ
   ズロースもつけず黒焦の人は女(をみな)か 乳房たらして 泣きわめき行く
   酒あふり 酒あふりて死骸焼く    男のまなこ 涙に光る
   可憐なる学徒はいとし 瀕死のきはに名前を呼べば ハイッと答へぬ

 原爆忌が来るたびに鎮魂の、また平和希求の夥しい数の作品が発表される。例えば『短歌』八月号には、今春亡くなった竹山宏の作品が特集されている。彼は長崎原爆を体験し、兄を失っている。

   一分ときめてぬか俯す黙禱の「終り」といへば みな終るなり
   人に語ることならねども 混葬の火中に ひらきゆきしてのひら
   くろぐろと水満ち 水にうち合へる 死者満ちてわがとこしへの川

 原爆に関する詩歌ということになると、短歌がいちばん多いかもしれない。印象に残る有名歌人の作品を挙げてみる。

   原爆忌昏れて空地に干されゐし洋傘(こふもり)が風に ころがりま回る(塚本邦雄)
   アトミック・ボムの爆心地点にて はだかで石鹼剝いている夜(穂村 弘)
   燃え残り原爆ドームと呼ばれるもの残らなかった あまたを見せる(谷村はるか)

 俳句には原爆忌、長崎忌などの季語があり、多くの原爆関連作品が作られている。印象に残っている作品をアト・ランダムに挙げてみる。

   原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ(金子兜太)
   絵日記に幼な手の藍原爆忌(佐藤鬼房)
   広島や卵食ふ時口ひらく(西東三鬼)
   一房のぶだう浸せり原爆忌(原 裕)
   帆といふ帆沖にあつめて原爆忌(鷹羽狩行)

 ここに挙げたのは夥しい数の原爆関連作品のうちの、ほんの一部に過ぎない。しかし五行詩の村瀬以外は、いずれも当代を代表する歌人、俳人ばかり。作品のクォーリティーの高さは、さすがである。ただ、ここで正直な私の感想を述べると、各大家の作品よりも冒頭の正田篠枝の作品のほうが心の琴線に強く響いてくる。筏のように浮かぶ死体を竿の先に付けた鉤でプスッと刺して掻き集める―このような体験者にしか表現できない赤裸々な写実は、技巧的な心境描写、お手軽な原爆体験の風化論を寄せ付けない迫力で私に迫ってきた。偶々ではあるが、詩歌の本質を垣間見たような気がする。ポエジーの欠片も無い作品の横行にうんざりしていたときだけに、特にそうした想いが強いのかもしれないが…。






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by 杜の小径  at 00:23 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

思無邪―藤森さんへ

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 昨日のブログ「詩人たちの愚痴」の中で引用した「詩三百、一言以て之を蔽う、曰く、思い邪なし」について質問がありました。詩作のうえでたいへ大切なことを言っていますので、ここで返事を書きます。藤森さんも読んで下さい。
 これは孔子の教えをまとめた『論語』の為政篇に載っている言葉で、原文は「詩三百、一言以蔽之、曰思無邪」で、読み方は「し さんびゃく、いちげん もって これを おおう、いわく、おもい よこしまなし」です。意味は、『詩経』という本には三百篇ほどの詩が載っているが、これを一言でまとめることができる。それは、どの詩を作るときも心が清く澄んでいて邪悪さが無いということだ、ということです。

『詩経』は中国の周の時代の民謡とか宮廷に伝わる詩歌などから、正確に言いますと三百十一篇を選んで編纂したもので、す。『『史記』という本には孔子が自ら編纂したと書いてありますが、これは当てになりません。古代の中国には編著の明らかでない書物を悉く孔子の手になるものとする風潮があり、『詩経』についても、果たして孔子がやったかどうか疑わしいという説もあるのです。
 内容は、十五の国と地域の民謡を採集した「風」、貴族や朝廷の公事・宴席などで奏した音楽の歌詞である「雅」、周・魯・商の朝廷において祭祀に用いられた廟歌の詞を収める「頌」に分けられています。このうち大半は「風」、すなわち民謡・民衆詩が占めており、その作風は極めて直截且素朴です。そうしたところから、わが国の『万葉集』は、これを模倣したのではないかとの見方もあります。
 
 いずれれにしても、この中で述べられた「思無邪」(思いに邪無し)ということは、「詩人にとって最も大切なことは真っ直ぐな心である」ということで、現代にも通じる大切なことです。
 最近は詩の大衆化ということで今まで詩歌とは縁の無かった人が、詩を作るようになりました。無季俳句、自由律口語短歌、五行歌などがこれに入ります。それ自体は結構なことですが、経験の無い人が指導者もいないまま手探りでやっても進歩は期待できません。しっかりとした理念を持ち、指導体制のできている結社を選ぶようにしましょう。





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by 杜の小径  at 13:03 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

草田男忌

中村草田男


 今日は俳人 中村草田男の忌日。水原秋櫻子の薫陶を受け、敗戦直後の昭和21年(1946年)より月刊俳誌『萬緑(万緑)』を主宰。俳句の現代化を推進して、加藤楸邨、石田波郷らと共に人間の内面心理を詠むことを追求し人間探求派と称せられた。しかし社会性俳句、前衛俳句を批判して、終生彼らとは一線を画した。昭和58年(1983年)8月5日)急性肺炎のため死去。享年82歳。

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   万緑の中や吾子の歯生え初むる
 
 これは、草田男の代表句の一つ。個人的なことだが、小生の散歩コースの深大寺境内に句碑がある。此処には子規、虚子など多くの俳人の句碑があるが、深大寺の緑には、この句がいちばん相応しい感じがする。彼は長く吉祥寺の成蹊大学の教授をしていたので、深大寺には何度も杖を曳いたことであろう。王安石の「咏柘榴詩」と題する詩「「万緑叢中紅一点、動人春色不須多」(万緑叢中(そうちゅう)紅一点、人を動かす春色多きを須(もち)いず)を踏まえた作品である。原詩は万緑と柘榴の紅い花を対照させているが、この句でいは万緑と、ちらり覗いた幼児の白い歯を対照させている。万緑という季語は、この句で定着したもので、草田男も気に入っていたらしく自分が主宰する俳誌のタイトルにしている。

   降る雪や明治は遠くなりにけり

 これも草田男の代表句の一つ。彼は父が外交官だった関係で中国で生まれるが、4歳のとき父の故郷 四国・松山へ帰国する。しかし小学校は東京で、赤坂区青南尋常小学校に通った。これは、彼が東大に入ってから久し振りに西南小学校を訪ねたときの作品である。現在、同校にこの句碑が建っている。

【私の好きな草田男の句】

   秋風や脛で薪を折る嫗ている。
   秋風や脛で薪を折る嫗
   雁渡る菓子と煙草を買ひに出て
   秋雨や線路の多き駅につく
   鰯雲この時空のまろからず
   秋晴や橋よりつづく山の道





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詩人たちの愚痴

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 毎夏、蓼科で開いていた短詩形ジャンルのワークショップが、昨年に続き中止になった。中心的存在だった内村剛介さんの急逝が直接的な原因だが、詩人連中に活力が無くなったのが本当の原因だ。今後のことを相談するために横浜中華街の北京飯店に有志が集まったが、出るのは愚痴ばかりで稔りの少ない会合に終わった。

 集まった16名のうち、プロの詩人は一人もいなかった。プロというのは原稿料と印税で生活しているという意味である。参会者の中に短歌と俳句の結社の主宰が数名いたが、これは詩で食っているとは言えないだろう。これは需給の原則からも当然のことだ。いま東京でも相当大きな書店でなければ詩のコーナーは無い。全国の書店数をかりに2万店とすると、詩のコーナーを設置している店はおそらく300店程度だろう。詩は商品となり得ない現状である。
 文学賞でも詩はマイナーで、詩の芥川賞と呼ばれる「H詩賞」をはじめ「高見順賞」「中原中也賞」「小野十三郎賞」などがあるが、一般の人には殆ど知られていない。当然ながら詩を発表する機会も少ない。小説を発表する場は、ちょっと数えても「オール読物」「文学界」「群像」「すばる」「小説現代」「SFマガジン」「ミステリマガジン」「小説推理」「鳩よ!」「週刊小説」などなど。ところが詩の場合は「現代詩手帖」「ウエイストランド」「詩学」「ユリイカ」程度で、この狭い門を潜れる人は極めて少ない。

 現在、詩を志す人の殆どはアマチュアで、所属結社に会費を払って作品を発表している。
その数はむしろ増加しており、表面的には活性化しているが、クォリティーの上ではかなりでベル・ダウンしているというのが参加者たちの多数意見だった。伝統的な短歌、俳句の場合は主宰の人物や作品を敬愛して弟子が集まるケースが多く、指導体制もそれなりに出来あがっている。ひどいのは新興短詩形、例えば五行歌などで、実作経験も理論も無い人間が支部の代表やワークショップの講師を務めている。五行歌関係者の話だと技巧的に未熟でも朴訥に心情を吐露するのは救いがあるが、最近は訳の判らない奇矯な、 insane な作品を作る輩が目につくという。しかも、そうした駄作を(なんだか解らないが素敵だ)などと持ち上げるバカがいる。彼は数年前、某地方美術館で3年間もピカソの絵を逆さまに展示したと謂う例を挙げ、日本人は訳の解らないものを有難がる人種なんだよね、と苦笑していた。長老のK氏がぽつりと言った。「詩三百、一言以て之を蔽う、曰く、思い邪なしは既に死語。詩は死、deathじゃよ」―洒落を言ったつもりらしいが、誰も笑わなかった。







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by 杜の小径  at 22:03 |  日記 |  comment (4)  |   |  page top ↑

百歳の句集―つづき

                  岸原さん

 俳人 岸原猷子さんが百歳になられたのを記念して、4人のお嬢さんが協力して句集『初鏡』を上梓された話を昨日のブログで紹介した。そのブログをご覧になったお嬢さんの一人からお電話があって、「母がたいへん喜んでいました。母は村瀬さんのファンですから、繰り返し読んでいますよ」ということだった。そのとき、猷子さんが室内で転倒され、目下入院中であることを初めて知った。昨日のブログでは私の好きな句を挙げるにとどめた。それを喜んで読んで下さったことを知り、改めて作品に対する感想を書くことにした。この拙文が病中の猷子さんに幾らかでも慰めになれば幸いである。

☆顔中の皺喜んでゐる 初鏡

 初鏡は女性が正月に初めて覗く鏡のことで、初化粧と同じ意味です。
普通なら一本の小皺さえ気にするところですが、今朝の初鏡は、深く刻まれた皺が長寿を喜んでくれているように見える。ユーモラスな表現のなかに達観した人生観を籠めた名吟です。この場合「初の鏡」とは人生を映す鏡の比喩とも受け取ることができて、記念句集のタイトルに相応しい句と言えましよう。

☆百年の旅の一こま 初の夢

 初の夢は初夢、正月二日に初めて見る夢です。昔はその内容で吉凶を占い、一喜一憂したものです。しかし百年という長い人生の旅路から見ると、そうしたことは一こまの夢に過ぎない、という句意でしょう。   
私はこの句から、中国の古い説話「盧生の夢」を連想しました。盧生という貧しい書生が邯鄲という街の茶店で主人から枕を借りてまどろむと、立身出世して栄華を極める。ところが目覚めてみると茶店の主人が炊いていた高粱が、未だ煮えきらないほどの短い間であった。人生の儚さを教えるこの説話は「邯鄲の夢」「一炊の夢」とも呼ばれています。この初夢の句には、中国説話と共通した人生を達観したような禅味が感じられます。
 
☆つつましく生きて今あり 花八つ手

 八つ手は庭の片隅に植えられることが多く、花も全ての花が終わった初冬にひっそりと咲きます。花木としては、どちらかと言えば地味な存在です。作者は派手で目立つようなことは無かったが、四人の子どもを育てあげた自分の人生に満足し、その幸せをしみじみと噛み締めています。その心境を花八つ手に仮託することで、作者のお気持ちが切々と伝わってきます。 

☆憂きことも嬉しきことも 年終わる

 上二は述部が省略されていますが、結句「年終わる」と掛詞になっています。一年を顧みると辛かったこと楽しかったこと、いろいろあるが大晦日を機に全てにピリオドを打って、新しい気持ちで新年を迎えようという句意でしょう。歳末を表す季語は「年の瀬」「年迫る」「年逝く」など百近くありますが、「年終わる」を遣うことで、掛詞が成立しています。また、この句は一応年末の感慨を表していますが、人生という長いスパンを詠んだ句とも見ることが出来てたいへん味わい深いです。

☆今聞いた言の葉忘れ そぞろ寒

「そぞろ寒」という季語の遣い方が見事です。「そぞろ」は「漫ろ」と書き、何となくという意味。秋の深まった日に、ふっと感じる寒さのことですね。ここでは気象的な季語を遣って、見事に心理上の陰影を表現しています。私にも経験のあることですが、聞いたばかりの言葉を忘れたり、人名を思い出せないことなどは、よくあること。その度に己の加齢を考えてドキッとします。将に「そぞろ寒」です。   

☆秋愁や 長寿めでたしと 云はれても

「いのち」は有限直線を歩むようなもので、必ず畢があります。人間はそうした根源的な悲しみを持ち、命の盛んな春にそれを感じれば春愁、万物が衰える秋に感じれば秋愁、秋思と謂います。「長寿めでたしと 云はれても」というシニカルな表現で人生の根源的な悲しみ、寂しさを見事に描き切っています。

☆ほろ苦き 来し方ありき 土筆摘む
 
土筆摘みという長閑な行為と対比することで、今までに経験したほろ苦い思い出が見事に活写されています。また思い出のほろ苦さと土筆のほろ苦い味が掛詞のなっていて、句趣を高めています。

☆亡き夫の遺影淋しく 春の雨

 遺影の表情は年中変わる筈がないのに、見る人の気持ち次第で笑っているように見えたり、淋しそうに見えたりします。歓楽極まりて哀れ生ずというように、花や人に浮かれる春は、却って人を物想いに沈ませることがあります。まして、春の雨が煙るような日は亡き人への想いも深くなります。そうした想いが淡々と表現されていて、共感を呼ぶ句です。






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by 杜の小径  at 15:00 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

百歳の句集

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   顔中の皺喜んでゐる 初鏡
   百年の旅の一こま 初の夢
   つつましく生きて今あり 花八つ手
   憂きことも嬉しきことも 年終わる
   今聞いた言の葉忘れ そぞろ寒
   秋愁や 長寿めでたしと 云はれても
   ほろ苦き 来し方ありき 土筆摘む
   亡き夫の遺影淋しく 春の雨

 夕がた玄関に下りてみると、ポストに大型の封筒が入っていた。中身は美しい装丁の句集『初鏡』だった。著者は岸原猷子さん。お嬢さんの正子さんの手紙が添えられていた。それによると、この5月27日で満百歳を迎えた母のために、4人の娘が話し合って上梓されたという。上掲の句は、恵贈された句集からの抜粋である。(写真:句集『初鏡』。右端は著者手製のちぎり絵の栞)
                    
岸原さん

 猷子さんとは地元の句会で、猷子さん、正子さんとはお茶の会でご一緒した御縁で親しくしていただいている。時どきに明石産小女子の釘煮などに一句を添えて、ポストに入れて下さる。猷子さんは、ご両親が牧水の『創作』の同人というご家庭で育っただけに俳句のほかにエッセイなどを市の広報紙に投稿されている。また絵画、ちぎり絵、書などを嗜まれ、戴いた句集にもお手製のちぎり絵の栞が添えられていた。最近は異常な暑さで外出を控えておられるようだが、昨年まではゲートボールなどもなさっていたようだ。更に矍鑠たる人生を歩まれることを祈って乾杯! (写真:岸原猷子さん)

   朝涼や百壽記念の句集賜(た)ぶ(杜詩夫)

                   




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by 杜の小径  at 22:19 |  日記 |  comment (2)  |   |  page top ↑

留学送別会

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 早稲田の法学部に在学中の孫 旬平が、北京大学へ短期留学することになった。娘の車で吉祥寺へ出て買い物。普段は服装などに無頓着だから、準備が大変だ。ジャケット、靴、カメラ、ノート・パソコン、眼鏡、それにモンゴルに行ってゲル(パオ)も体験するというので、防寒衣まで用意する。その間、約3時間。疲れた。

 旬平が肉を食べたいというので、ちゃんこの「若」に寄って簡単な送別会。横綱 若の花が創業した店だが、現在は名義だけで経営にはタッチしていないらしい。牛ちゃんこ、塩味ちゃんこのほか、さくら肉のカルパッチョ風を頼む。さくら肉がいちばん好評で、追加注文。

 北京大の学生とのデスカッションもあるというので、中国の古諺「法の目的は法無き社会をつくるにある」と、論語の一節「心の欲するところに従って矩(のり)を踰(こ)えず」をメモして渡す。

 真由子は、体調不良ということで留守番。食欲が無いというので、タンドーリ・チキンを土産に持たせる。





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