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古語で綴る掌編詩小説―雪をんな

               imageCATOAT1H.jpg

   ちろちろと 
   榾火(ほたび) 燃ゆ
   しんしんと 
   雪 降り積む
   かかる夜は 誰(た)ぞ 来むかふか

   然(さ)ればこそ
   夜ぶか
   枝折戸を押し開くる
   気配あり
   雪 さらに降り積む

   野分たつ
   さやめく音に
   ふりかへれば
   をんな
   もだして佇(た)てり

   白き肌付 裾長く曳き
   白き帯 胸高に締めて
   をんな
   をりはへて
   もだして佇てり

   吾は あやしみて問ひさく
   小夜衣 いかにせしや
   をんな あへしらふ
   小夜衣 雪に濡れしに
   外(と)の白樺に懸けおきぬ

   200px-Suuhi_Yuki-onna[1]  458px-SekienYukionna[1]

   吾は さらに問ひさく
   なぞ なれは髪のみ黒しや 
   いらひは なくて
   をんな
   さびしらに ほほゑむのみ
   
   熱き酒(ささ)を勧むに
   冷えしささを乞ふ
   酔ひしれて 女は啾けり
   この黒髪が憂し 
   と

   雪も止みし五更
   すすり泣く声に目覚む
   されど 炉端に人影なく
   暁闇のなかに
   虎落笛(もがリぶえ)を聞くのみ

   明くるあした
   をんなが衣を懸けしといふ
   白樺を訪ふに
   衣は無く
   白く輝く銀簪(ぎんかん)を得たり

   穂高より戻り 笈(きゅう)を開く
   一夜のかたみにと持ち帰りし
   簪は失せ
   包みおきし手巾に
   一抹の水痕を残すのみ

(画像は筆者の出会った雪女ではありません。写真上は船木裕 小学館版より、同下左は佐脇嵩之『百怪図巻』より、同下右(は鳥山石燕『画図百鬼夜行』より)
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by 杜の小径  at 03:54 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

叶 静游さんの「インド洋旅日記」

  前立腺腺癌と膀胱移行上皮癌都闘病中の叶 静游さんにつきましては、昨年このブログ(11月21日付)で作品をご紹介し沢山の方に大きな感銘を与えました。氏はアメリカのコロラド、ロッキー地方の御旅行の後、無事に再々種序つを終り、その後ヨーロッパでピアニストとしてご活躍中のお嬢さんの薦めでインド洋を旅されたとのことです。このほど、その旅のご様子を五行歌で綴って下さいました。以下に、その一部を紹介させて戴ます。

             2.png
           

  インド洋の旅日記【抄】
        
        叶  静游 詠歌
        和田 郁子 写真

  数え日に
  亡年の宴を断わり
  弧愁の旅に出る
  自然と対峙し
  先を見る

  八十の半ばに向う
  数え日に
  インド洋の貴婦人を訪う
  両腫瘍を抱えて
  美に浸る

  旅を重ね
  没我の境に
  浸る
  自然を友とし
  俗事を忘れる


  小さな存在の
  人間が
  大きな存在の
  宇宙を
  探る

              (3)

  セイシェルに
  サファイヤのような
  星が青く煌く
  濃緑の椰子の林や
  紺碧の海が眠る

  小康を得た
  避寒療養の旅に
  インド洋の貴婦人、
  モーリシャスを選ぶ
  原始の自然美に浴す

  モーリシャスの
  遠浅の白波が
  旭日に映え
  美しい
  韻律が心地よい

  ヒンズーが多く住む
  モーリシャスが
  祭りで賑う
  古式を尊び
  信仰で貧困を払う

  モーリシャスの
  朝の海浜に
  名も知らぬ
  数多の小鳥がピイチク
  ヤシの木陰を渡る
             5.png
            
  ハイビカスが
  見事に彩る
  モーリシャスの砂浜に
  人懐こく
  小鳥の戯れる

  国土の50%余が
  沃野のモーリシャスに
  その80%余で
  砂糖黍を産む
  玄武岩の噴土が散ばる

  イル・オ・ヒルフの
  緑青の海を
  クルーズする
  イルカが
  戯れる

  火山岩に囲まれた
  小さな滝に
  観光客が群る
  水しぶきを浴び
  俗気を拭う

             4.png

  イル・オ・ヒルフの
  白砂を踏み
  緑の海を泳ぐ
  美女の肌が
  黒光る

  モーリシャスに
  白砂が照り返し
  紺碧の空に白雲が棚引き
  藍色の海が光る
  悠久の時が流れる

  アンタナナリボの初春に
  喪中の若水を汲む
  妹の笑顔が
  よぎり
  大切な人を弔う

  八十三才を頂点に
  下り坂に入った肉体を
  労り労り
  自然の楽園に遊ぶ
  旅は活力の源泉
   
             6.png

  アンタナナリボの
  朝市が賑う
  貧しさを象徴するように
  物乞いが
  袖を引く

  レミュレパークに
  キツネザルを追う
  珍奇な横飛び猿の親子が
  愛嬌を振り撒き
  南国の草木が簇生する

  マダカスカルで
  刈入れ後の土壌を
  赤煉瓦に焼く
  赤い田舍家と土塀が
  立ち並ぶ

  アンタナナリボの市場も
  中国製品が圧倒する
  安価な日常用品に
  人々は群り
  競い買う

             7).png

  アンタナナリボの
  国際空港のトイレでも
  チップを要求する
  朝市の子供のスリといい
  この国はまだ暗い

  「金曜日のモスク」は
  三五〇年を閲する
  男性信徒の祈りの場
  イスラムが国教の
  首都モロニのシンボル

  コモロ連合は
  三共和国の統一体
  紛争が
  絶えない
  若い国

             8.png

  ミラクルモスクの
  弧影が
  村人の
  信仰を集める
  バオバブに年輪がない

  緑に光る
  「塩の湖」が
  コバルトブルーの
  インド洋を背に
  聖水を湛える

  白い積雲が
  まるで氷河のように
  インド洋上にある
  遠くスコールが
  走り抜ける

  マダカスカルの
  大晦日は特別ではない
  六月二十五日の夜は
  革命記念行事で
  盛り上がる

  セイシェルは美しい島国だ
  一一五の島から成る
  混血の八万人が
  クレオール語を
  常用する

  世界遺産ヴアレ・ド・メに
  双子椰子の雄花が
  メス株に向って
  雄々しく咲く
  自然の摂理

  セイシェル共和国の
  プララン島の北端、
  アンセラジオ海岸で泳ぐ
  インド洋の荒波が踊り
  癌巣を砕く

  セイシェルに
  満天の星が輝く
  手にとるように
  鮮やかな
  道しるべ

             9.png

  モーリシャスに
  一瞬の暗雲がかかり
  スコールが走る
  アマゾン原産のオオオニバスが
  パチリと蕾を開く

  アンタナナリボの丘陵に
  クーデターで焼失した
  メリナ王朝宮の城址が光る
  寄付金が中々集らず
  再建が進まない

  インド洋の自然を
  堪能している間に
  病状が消えた
  いつとなく
  年が変わる

  プララン島の運転手
  デスピリ君が
  巨体で愛嬌を振り撒き
  日本名で刺青したいとせがむ
  「耀」と名づける

  退職金での
  住居買いをやめた
  一人暮しが
  毎月辺境を行く
  世界地図を塗り潰す女







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by 杜の小径  at 20:08 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

母の句 久女の句

               すぎた2

      待針の色は赤のみ久女の忌(とも女)
 
 これは、私の母の句である。母については以前にブログでも取り上げたことがあるが、豊川市に住んでいたころ富安 風生の生家が近かった縁で、確か風生のお兄さんが主宰する結社で俳句をやっていたと思う。作品についても疎覚えだが、この句だけは何故か鮮明に覚えているから まず間違いないと思う。
 後年になって思うに、母の待針の句は久女の次のような句に寄せた想いを詠んだのではなかっただろうか。
 
   足袋つぐや ノラともならず教師妻 (久女) 

 句中のノラは、言うまでもなくイブセンの戯曲『人形の家』のヒロインである。富裕な銀行家の妻として平和な日々を送っていたが、或る事件がきっかけとなって自分が人形のようにしか愛されていないことを知る。対等な人間として絶望や悩みを共有し、喜びを分かち合える存在として自分が見られていないことに絶望したノラは家を出る。このノラのように一人の人間として生きる決断もできぬまま、自分は平凡な教師の妻として今日も足袋の繕いをしているという久女の想いが切ない。

 杉田久女(1890―1946)は、鹿児島県生まれで、本名は赤堀久子。東京女高師(現・御茶ノ水大学)付属高女を卒業後、小倉中学美術教師 杉田宇内に嫁す。はじめは小説家を志すが兄の手ほどきで俳句を始める。
 1917年に初めて虚子が主宰する『ホトトギス』に投句。15年後に中村汀女らと共に同人となるが、2年後に理由も無く『ホトトギス』を除名される。女性だけの俳誌『花衣』を創刊したのが虚子の逆鱗に触れたとの説もあるが、その真相は謎のままである。このとき虚子は『ホトトギス』誌上に「従来の同人のうち、日野草城、吉岡禅寺洞、杉田久女を削除し…云々」と公告している。いずれも新進気鋭の俳人であるところから、虚子の門下への嫉妬によるという見方もある。いずれにしても、このことがあってから久女の創作意欲は急速に衰え、遂に精神を病むに至る。結社主宰の偏見と狭量が一人の天才を抹殺したのである。

 今日1月21日は、彼女の祥月命日である。昭和21年のこの日、午前1時30分、太宰府・筑紫保養院で看取る人もなく57歳の生涯を閉じた。しかし彼女の人間主義と斬新な手法は、自ら虚子に絶縁状を叩きつけた水原秋桜子などに引き継がれ、新しい俳句運動が起きる端緒となった。私個人も若き日、母の蔵書で彼女の作品と出逢い、新しい詩境を拓くことができた。以下に久女の代表句を載せ、改めて薄幸の詩人の冥福を祷りたい。 (写真は杉田久女)

   花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ
   
    平凡の長寿願はずまむし酒

   紫陽花に秋冷いたる信濃かな

   谺して山ほととぎすほしいまま

   白妙の菊の枕をぬひ上げし

   鶴舞ふや日は金色の雲を得て

   風に落つ楊貴妃桜房のまま

   朝顔や濁り初めたる市の空

   ぬかづけばわれも善女や仏生会

       




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大寒雑感

               image[7]

   悠久は斯くの如しか寒の月(杜詩夫)
 
   大寒の足にまつはる跫の音( 〃 )

 きのうと同じように、月を見ながら歩く。大気が澄んでいるせいか月は大きく見え、輝きも強い。目を凝らせば満天の星なのだが、あまりに月の光が強いので目に入るのは南天の金星ぐらいだ。「月輪輝きを増して群星息を潜む」の詩句が浮かぶ。
 きょうは暦の上では大寒、字義では1年のうちで最も寒い日である。街路に零れた水が白く凍り付いているので地表の温度は今季いちばんの低さ、恐らく零下2℃くらいであろうか。だが、風が全く無いので、体感温度は意外に暖かだ。この日を俗に寒の底と謂う。あと半月で春、立春が来る。

   風寒霜白五更堤  風寒くして霜白し 五更の堤
   遊歩案詩不堪愁  遊歩して詩を案ずれば愁堪えず
   怱忙些事如流水  怱忙たる些事は流水の如し
   孤鴨一声大寒天  孤鴨一声 大寒の天

   DSC089~1  ps-shimobashira08-5[1]

 西北の空へ沈む月を追い掛けるように、今朝は鞍骨橋を渡って国分寺へ向かう。東経大の敷地で珍しいものを見つけた。シモバシラだ。地表にできる霜柱は珍しくもないが、これは植物のシモバシラ。シソ科の多年草で、夏に写真のような白い花をつける。茎は四角形(シソの茎を想像されたい)、厳冬期に或る条件が整うと写真のように根元に霜柱を生じる。茎は枯れても根は生きているので、根が吸い上げた水分は枯れた茎に上がってくるのだが、気温が下がるとそれが凍って白い霜柱となる。だが、いっぺんに気温が下がると根も凍るから茎に水分が上がらず霜柱はできない。草は見つけても、霜柱を付けた状態を見るのは珍しい。朝日が出て気温が上がれば忽ち消えてしまう。急いでカメラを取りに戻る。

   シモバシラてふ草を撮る霜の朝(杜詩夫)





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by 杜の小径  at 13:56 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

ウォーキング随想―いざ言問わん都鳥

              野川公園

 久しぶりに、大きく美しい月を見た。正確な月齢は判らないが、望月に近い。きのうは前夜遅くまでにサッカーの中継を観ていたため寝坊して、sタートが1時間ほど遅れてしまった。たぶん月は出ていたであろうが、野川河畔はやゝ低くなっているので午前5時を過ぎると、月は武蔵段丘に隠れて見えなってしまう。その代わり、野川に集う野鳥たちは具に観察できる。普段は時どき聞こえるけたたましい鳴き声デカルガモなどがいることは判るが、暁闇の中では姿は観ることができない。この辺りは野川も源流に近く、水源は湧水いに限られるから厳冬期出も凍結することが無い。水中の餌を獲りやすいし、猫などの天敵に襲われる危険も少ない。だから野鳥が集まるのであろう。

 ここに越してきた当初、幅数㍍の小さな川が一級河川杜いうので驚いた。土地の人に事情を聞くと、昔はたいへんな暴れ川で雨季には沿岸の農地がたびたび冠水したので、維持・管理を国が所管する一級河川にしていされたのだという。野川の最大の水源は、現在は日立製作所中央研究所になっている処である。現在も庭園の大池には毎分1万㍑の湧水が流れ込んでいるそうで、昔は国分寺村恋ヶ窪と呼ばれる湧水湿地帯であった。他の水源も自然のままに放置されていたので、雨季になると生活排水も併せて大きな水害を齎したようだ。

    日立   真姿の池

    殿ヶ谷戸庭園   貫井神社湧水

    滄浪泉園の池   野川公園の湧水

 この付近の主な湧水は前記の日立研究所の大池(写真上左)、国分寺真姿池(同右)、殿ヶ谷戸庭園(写真中左)貫井神社弁天洞(同右)、滄浪泉園(写真下左)、野川公園湧水(同右)などだが、いずれも誘水路が整備されている。

    imageCA5LT1U5.jpg   imageCAAFY0WQ.jpg

 汚水が入らないから湧水の流れ込み口には野生のクレソンが茂り、夏にはザリガニ、クチボソ、フナなどを獲る子どもたちの格好の遊び場となっている。市営水道の80%は湧水を汲み上げており、夏でも冷たい水を飲むことができる。

              16895191[1]

 前置きが長くなってしまったが、昨日はユリカモメを目撃した。初めは信じられなかったが、冬毛の白い頭、褐色の頸、赤い嘴と脚は間違いなくユリカモメだった。野川は野鳥のサンクチュアリもあるほどで、都内から野鳥観察に来る人も多いが、ユリカモメは初めて観た。この鳥は別名を都鳥と言い、海鳥である。在原業平が武蔵を旅した折、今の隅田川の畔で美しい鳥が群れているのを見掛けて名を尋ねた。お付きの者が都鳥と答えると、「名にし負はば いざ言問はむ都鳥 我が思ふ人は ありやなしやと」と詠んだ。都鳥というからには都のことには詳しいであろう。では聞くが、私が思い焦がれている方は今もご健在だろうかという意味である。この伝承から浅草待乳山から隅田公園に至る橋には言問橋という名が付けられたという。(閑話休題)
 
 そこで、ユリカモメに聞いてみた。「いざ、言問わんユリカモメ、おまえはカモメの仲間なのに、どうして海から遠い こんな処に棲んでいるんだ?」と。するとユリカモメ曰く。「棲んではいませんよ。わたし、東京湾から毎日通勤してるんです」だって…。まあ、これは冗談だが、通勤はまんざら嘘ではないらしい。野鳥に詳しい友人に電話したら、「野川にユリカモメがいても不思議じゃあないですよ。井の頭公園には毎日数十羽の群れが来てますよ。みんな東京湾から通勤です。ゆりかもめ線お台場海浜公園駅から中央線吉祥寺駅までの定期券持ってますよ」…もちろん、後半は嘘です。だが、朝早く東京湾を飛び立って、夕方日没前に帰って行くらしい。井の頭公園では餌をやる人もいるらしく、年々飛来数が増えているという。

 





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初釜

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   初釜の一扇固く帯に挿し(杜詩夫)

   2011_0112_114626-DSC_0476.jpg  2011_0112_120629-DSC_0477.jpg

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 昨年は脚を悪くして正坐できないので茶会を殆ど欠席したが、初釜だけはと達てのお誘いを戴き出席することにした。午後に国分寺で会食するというので、会場は市の南センターの茶室。藤井宗富宗匠から歌会始のお題「葉」の透かしの入った年賀の懐紙を戴く。掛軸は大徳寺管長の「松無古今色」、主菓子は初釜に合わせて「花びら餅」が用意されていた。
 これは正式には菱葩餅(ひしはなびらもち)と謂い、ごぼうと白味噌餡をピンク色の餅で包んだ和菓子である。平安時代の新年の宮中行事「歯固めの儀式」を簡略化したもので、600年にわたり宮中に伝わるお節料理を模したものという。

 茶会の様式も、今日は特別に「濃普」。普通の茶会は一椀ずつの「お薄」だが、濃茶では一椀の茶を回し飲む。茶葉も上等の物を使い、量も多い。薄茶は点てると言うが濃茶では練ると言う通り時間を掛けて練り上げる。従って数人で飲み終わったあと椀底に残った滓で薄茶が一服点てられると言われるほど濃い。椀底に袱紗を当てて飲むなど、作法も独特である。

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「成人の日」に思ったこと

    成人式男   成人式女

 今日は、どのテレビ局も各地の成人式の様子を放映していた。酒を飲んで騒ぐ男子、申し合わせたように白いラビットファーの襟巻をした着物姿の女性。何年間も変わらぬ風景である。和服姿の女性はともかく、酔って暴れる男子はごく一部にすぎないだろうに、なぜテレビはあんなショットばかりを拾うのだろう。

「僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない」―今朝の朝日新聞社説はフランスの作家ポール・ニザンの著書からこの一節を引用して、成人式を迎えた若者に呼び掛けていた。バブル崩壊の年に生まれ、政治と経済が混迷を極める中で育った若者に一応同情し、でも「君たちには仲間がいる。それと連帯して世の中を変えて欲しい」と結んでいる。
 なかなかの名文だったが、私は二つの点で納得できなかった。一つは、どんな時代に生きても青春は美しいのだ。君たちは不幸な時代に生まれたなどと甘やかす必要はない。また、現代の若者に本当の友達、仲間がいるとは到底思えない。デジタル機器で繋がった人間が世の中を変えるなど、できようはずもない。

               携帯 068

 私が成人式を迎えたとき、天竜川河畔の小さな小学校の助教諭をしていた。要するに代用教員である。自信満々で受けた大学受験に失敗した私の落ち込みようを見て、自殺でもするのではと心配した父が、故郷の村長に頼んでくれたのだった。故郷と言っても私は小学校3年の2学期で転校したので、ほぼ十年ぶりの帰郷だった。私が配属されたのは久根銅山の在る校区で、村内でもいちばん小さな小学校。全校児童は188名、その殆どが鉱山労働者の子どもだった。中学時代から短歌に親しんでいた私は、啄木を気取って着物姿で教壇に立った。(写真)授業も我流、黒板は子どもの届く高さまで下げて落書き自由。教壇は取り払って廊下に出し、そこに子どもたちが集めてきた石や木の実などを並べさせた。時間割は無く、晴れている限り子どもたちを連れて森に入り、そこで全科目を総合した授業をした。こんな生意気な新米教師を、伊藤明広校長はにこにこ笑って見守って下さった。成人式に出席するときも洋服などは持っていないから着物で出席しようとした。見兼ねた校長が前の日に自分の袴を貸して下さったのに、私は袴が恥ずかしくて着流しで出席した。私が老校長の偉大さを思い知ったのは、ずっと後年になってからである。私は師に恵まれていた。佐藤泰舜(印度哲学)、壇一雄(文学)、木俣修(短歌)、宮沢 俊義(憲法)、団藤 重光(刑法)、我妻栄(民法)各先生など、いずれも各界を代表する権威で、その中の何人かは自慢げにこのブログでも紹介してきた。これらの先生が私に大きな影響を与えて下さったことは間違いないが、今にして思えばこの伊藤校長のように、陰で私を支えて下さった方が他にもいた。例えば高校時代に数学担当されていた小山という先生。頑固な性格で生徒からゲジゲジという綽名で呼ばれていた。3年生のとき学校農園で採れた野菜を先生たちが生徒に黙って分配したというので、全校ストライキを行った。それを指揮したのが生徒会長だった私で、学校側の代表が生徒会顧問の小山先生だった。このとき間に入って下さったのが西牟田という先生。この方は海軍兵学校出のバリバリで、豊橋に新設された愛知大学で学び直そうと鹿児島から出て来られ、私の高校で講師のアルバイトをされていた。鹿児島を出るとき前任地の高校の生徒7人が先生を慕って付いてきて、先生と一緒に寮生活をしていた。その話に感激して、私は7人を時どき自宅に招いて酒を振舞ったりしていた。あるとき、放歌高吟しながら寮へ帰る道すがら、酔った一人が商店の看板を蹴飛ばした。どうやら尾行されていたらしく、間髪を入れず警官が現れ8人が一網打尽にされて交番に連れ込まれた。生徒会長が飲酒して乱暴したというので、あわや退学という事件になった。そのときも中に入って収めてくれたのが西牟田先生だった。謂わば学校にとって私は札付きの要注意人物だった。そんな私が卒業式のとき、特別賞という訳の判らない表彰を受けた。周りの同級生からウオーというどよめきが起こったほど、それは意外な出来事だった。数年後、西牟田先生から小山先生亡くなられたことを聞かされた。定年で退職された後、ご自宅で農業をされていたが最近急性されたということだった。「村瀬君、暇をみて墓参りに行ってくれないか」と切り出した先生は意外なことを話された。「実は口止めされていたので黙っていたんだが、あの交番事件のときも、卒業時の特別賞のときも全部、小山先生が動いて下さったんだ。特に特別賞は前例が無いと殆どの職員が反対する中で、このまま卒業させては村瀬は二度と母校に立ち寄らなくなると、泣かんばかりに校長にお願いしていたよ」―私は恥ずかしさで身が竦んだ。知らなかったとはいいながら、小山先生のことは思い出すこともなかった。ご配慮を戴きながら卒業以来、母校を訪ねることは一度もなかった。大袈裟に聞こえるかも知れないが、この二人の先生が私の人間観、人生観を変えて下さった。

 私は自分の人生を振り返って、後悔は無い。金が無くて、お湯に塩を溶かして何日も過ごしたこともある。栄養失調で髪の毛が真っ赤になってしまったこともある。でも、私の青春は人生でもっとも美しいときだったと断言できる。学生運動のさなかでも社会に出てからも、卑劣な裏切りに遭ったこともあった。でも、それは一握りの人で大部分の人は優しく誠実に接してくれた。心を許せる多くの友を得ることもできた。直情径行で融通の利かない欠陥だらけの私だったが、自分の信じる道を真っ直ぐに歩み、自分の利益のために他人を陥れるようなことは絶対にしなかった。

 今日、成人になった人たちに言いたい。自分に嘘をつかない、他人を欺かない―このことさえ守っていれば、人は自分の人生を美しく振り返ることができるのだ、と。周りをよく見ることも大切なことだ。甘言をもって近づく人より寡黙か或いは辛口で近寄りにくい人の中に、意外に信ずるに足る人間が多いものだ。友達や仲間についても、ネットや携帯機器で匿名で繋がる人間を友達と錯覚しないことだ。そんな世界に真の友情は育たない。それから大志を抱く必要は無いよ。世の中を変えるなどという大それたことを考えなくていい。西瓜作りは西瓜を、鍛冶屋は金物を一生懸命作るだけでいい。皆が自分の持ち分を一生懸命にやれば、世の中は自然に良くなるのだ。そういう意味で、頑張って下さい。






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by 杜の小径  at 00:09 |  日記 |  comment (2)  |   |  page top ↑

バクさんを悼む

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 ダークダックスのバクさんこと、高見澤 宏(たかみざわ ひろむ)さんが、7日午後1時53分、心不全のため神奈川県藤沢市の自宅で亡くなられた。享年77歳。心からご冥福を祈る。(写真左端が高見沢さん)

               コピー ~ マーシャ
 
 私事になるが、バクさんとは忘れられない思い出がある。もう40年も昔になるが、内村剛介さんと共訳でユダヤ少女の手記『マーシャの日記』(雪書房・集英社刊)(写真)を上梓した。共訳と言っても私はロシア語はできないから、内村さんが口述する直訳を私が速記して日本語訳としたものである。実は『マーシャの日記』は創刊する三省堂文庫で出版が予定されていた。内村さんはそれを『生き急ぐ』という書き下ろしに差し替えてくれたもので、私としては何としてもヒットさせたかった。宣伝の一つとして主題歌を作ろうということになり、最初は加藤登紀子さんに依頼した。これは登紀子さんのお父さんが内村さんと大学が同期で親交があったからだっただが、多忙を理由に断られてしまった。その代わりに白羽の矢を立てたのがダークダックスだった。どういう繋がりだったか忘れたが、たぶん内村さんの人脈だったと思う。当時の金井事務所に何回も足を運んでいるうちにメンバーとも親しくなり、特にバクさんとは同県人で同じ山男ということもあって話が合った。しかも奥さんの兄さんに当たる萬屋錦之介さんが、私の親戚が経営する射撃場付きペンションの常連客であることが判りいっそう親しくなった。

               3732s[1]

 やがて歌詞は私、曲は佐々木勉というコンビでA面「マーシャの日記」B面「旅立つ人」(キングレコード)の発売が決まった。(写真)作詞はともかく佐々木さんは百恵ちゃんや郁恵ちゃんなどに楽曲を提供している売れっ子のシンガーソングライターで、編曲も熊坂明さんが担当するという豪華な顔ぶれだった。これが話題を呼び、人気番組の「小川宏シュー」などでも特番を組んでくれた。そのせいもあってか本は全国学校図書館協会の推薦図書に指定され、中学校社会科の副読本にも採用された。佐々木勉さんは既に亡くなり、内村さんも2年前に他界、今またバクさんが逝ってしまった。心からご冥福をお祈りする。
今後のダークのことが心配で、関係者に尋ねてみた。実は昨年2月にバクさんが倒れてから、ダークと縁が深くステージ競演も多いしゅう・さえこさんををゲストボーカルに招き「ダークダックスwithしゅう・さえこ」というユニットを結成し活動しており(さえこさんがバクさんのパートを担当)、今後もこの形を続けるのではないかということだった。ちなみにしゅう・さえこさんは、本名が村田佐枝子。歌手、作詞・作曲家で、東京芸大卒。NHKテレビで「うたのおねえさん」として長く活躍されていた。






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by 杜の小径  at 18:39 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑






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by 杜の小径  at 02:43 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

近事片々―小寒・七日粥異聞 

                 竹

    晩節の竹青々と寒に入る
   
    りし水差の釉に寒の色

    寒の夜まだ生きてゐる海老喰らふ

    来し方を木々の閉ざして寒の入り

 今日は小寒。これも季語だが、俳句の世界では「寒の入り」として詠むことが多い。この日から2月始めの「寒明け」までの凡そ1ヶ月間を「寒中」もしくは「寒の内」と謂う。
 寒の入りとはよくも言ったもので、今朝の寒さは今期いちばん。おそらく2℃近くまで下がっていただろう。そんな寒さの中でも、竹は健気にはを茂らせている。自分に護るべき晩節があると自惚れてはいないが、頓に気力の衰えた自分が叱咤されているような気持ちになる。何とかしなくては…。余談になるが、竹も落葉する。但し、それは秋ではなく春。だから「竹の秋」は春の季語である。麦の刈り入れをする初夏を「麦の秋」「麦秋」と呼ぶのと同じである。

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 昨夕、陶芸家の小笠原晃悦さんが年賀にみえた。客臘、知人のコンサートに招待した返礼だと水指(写真)を造って下さった。胴の膨らみ、蓋の形、釉の垂れ具合が上品で一目で気に入った。彼は仏像彫刻が本職で陶芸は余技と仰るが、一芸を極めた人は何をやっても心に響くものを創られる。七草粥が近いからと、赤蕪と五穀米も持参して下さった。

 このところ凝った調理をしていないので、久しぶりに厨房に立った。作るのは七草粥。N HKの「あさいち」で作り方を放映したのだが、最初のほうを見逃した。ダシに裂きイカを使うのがミソで、ゲストガ「フカヒレみたい」というのを聞いて「よし、やってみよう」と思い立った。だからレシピの90%は我流、我夢流である。その概要は、以下の通り。
 ①地鶏1羽を10分間煮て、最初の煮汁は捨てる。②水を換えてトロ火で2時間煮る。
③米をとぎ、お湯炊き10分後に取り出して水でヌメリを除る。④それを木綿の袋に入れてスリコギで叩く。⑤再び水洗いしてから②のダシ汁に醤油、酒を加え、トロ火で40分炊く。この時3㌢大に刻んだ裂きイカを加える。⑥七草は軽く塩茹でして刻んでおき、食べる寸前に薬味のように粥に混ぜる。決して一緒に煮込まないこと。ダシを取った後の地鶏は、辛子醤油で食べると美味しい。

 今回は米2合で作ったのだが、出来上がってみると驚くほどの量に増え、5合炊きの炊飯器一杯になってしまった。大体私は粥とか雑炊などの柔らかいものは嫌いだから作ったことが無い。一瞬、娘の顔が浮かんだが電話する気にならない。実を言うと、最近娘とは良好な関係に無い。暮に怪我をしたとき見舞いにも来ない薄情ぶりに腹が立って、年末恒例の会食も断って穂高へ行ってしまった。30分経過。捨てるわけにもいかないから、思い切って電話する。「明日は七草粥だけど、用意した?」「しないよ」「じゃあ、作ってあげるから取りにおいで」「いらない。ウチはお粥は嫌いだから」「・・・・」一瞬の沈黙の間に、テキはこっちの事情を察したらしい。「じゃあ、1時間くらい待って。貰いに行く。少しだけにしてね」―こっちの腹を見透かしたような口振りが癪に障るが、ここは隠忍自重のしどころだ。考えた末に、惜しいが秘蔵ノカラスミを使うことにした。丸々1本を小口切りして釜の表面が隠れるほどぎっしり並べた。渡すときの台詞も考えておいた。「これは、損所其処らの七草粥と違うぞ。清朝の宮廷料理だ。西太后が食べてたんだ」―とにかく娘に渡すことには成功した。
 一時間後、娘から電話。(少し抑えた声で…)「オ イ シ カ ッ タ ヨ !」此処で終われば気が済んだのに…。最後の一言が気に喰わない。「カラスミいっぱい使ったんだねぇ。できることならカラスミのまま戴きたかったワ」…ホントにアイツは癪に障る。どんな親に育てられたんだ! イケネェ。親はオレだった。
 
    嫁がせし娘(こ)にも頒ちて七日粥





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by 杜の小径  at 00:56 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑

去年今年(こぞことし)―穂高への旅

              穂高連峰

 客臘28日 
 盟友酒井清の墓参のため戸塚へ。祥月命日は明日だが、旅に出るので一日早めた。例年のことである。酒井の第一秘書だった高橋さん、第二秘書の浜田さんが付き合って下さった。酒好きだった故人に大吟醸を献じた後、三人で墓前の乾杯。帰途、中華街で会食。高橋さんはフラメンコを卒業し、今は小唄をやっているとのこと。浜田さんは息子さんが司法試験に合格されたという。修習後は判事任官をお勧めする。今更ながら十年という歳月の長さを感じる。

     有明山   登頂像

   客臘29日
   騒がしい何かが
   近づいて来る
   そいつを遣り過ごそうと
   今年も
   穂高を目指す

 そんな想いから、立川発9:27の「あずさ9号」で信州へ向かう。昼過ぎに穂高着。霧が深く常念岳は見えないが、手前の有明山が美しい。(写真左)駅前の「登頂」像が迎えてくれる。(写真右)田舎生まれの私には、この雰囲気がぴったりだ。故郷に帰ったような気持ちにしてくれる。恒例通り、先ず穂高神社に参詣し、「田舎家」で蕎麦と馬刺しの昼食。ここまでのスケジュールは、ここ10年殆ど変わらない。

              武田菱

 第一夜は、白馬のペンションに決めてある。珍しく霧が霽れていて、白馬駅前から仰ぐ五龍岳に「武田菱」がくっきりと遠望できた。(写真左)戦国時代、信州が武田信玄の支配下に置かれると、この峰に現れる雪形(岩形)が武田家の家紋である武田菱に似ていることから、御領地の意をこめて「御菱岳(ごりょうだけ)」と呼ばれるようになった。五龍岳と言われるようになつたのは比較的新しく、明治41年からだという。

              おびなたの湯
 白馬に宿をとったのは、「小日向の湯」に入るため。ここは3年前に見つけた秘湯で、松川の上流、白馬岳大雪渓へ向かう途中にある。場所は不便だが野趣に富んだ雰囲気が気に入っている。もちろん宿に内湯はあるが、いつもペンションの親父さんに頼んで山の湯までジープで送り迎えしてもらう。バラックのような粗末な造りでロッカーなどは無く、脱いだ衣服は風呂の脇に積み上げておく。巨大な岩から源泉が流れ落ち、この巨岩が女湯との境界になっている。(写真左)もっとも女性客は殆ど無く、白馬に登った山男たちが下山の途中に訪れるくらいである。眺望が素晴らしく、風呂の中から雄大な白馬連峰を眺めることができる。

              
新穂高温泉

 客臘30日
 松本まで戻り、高速バスで新穂高温泉へ出る。宿は深山荘。蒲田川に沿った露天風呂が珍しい。(写真)明日に備え、一日中温泉で休養。

              赤い目印

    西穂山荘到着   巨大雪だるま

 大晦日
 西穂高口から西穂高山荘に向かう。積雪季にラッセルしながら登ると数時間かかるが、年末は登山者が多いのでトレース(踏み跡)を辿って歩くことができる。それでも新雪で道に迷うこともあるので、赤い布切れを付けた目印の棒を頼りに歩く。(写真上)約2時間で西穂山荘が見えてきた。(写真下左)玄関先に3㍍を超える巨大な雪ダルマが出来かかっていた。(写真下右)

   西穂山荘内部  西穂ラーメン

 ここは、北アルプスでは唯一つ通年開いている山小屋。特に大晦日は山上で初日の出を見ようという登山客で賑わう。小屋の内部もそれなりに清潔で、サロンでは地デジのテレビで紅白歌合戦も見られた。(写真左)豪華とは言えないがお節料理が出たし、左党には地酒が用意されていた。私は食べなかったが別メニューの「西穂ラーメン」は、ここの名物になっている。(写真右)


    西穂山荘の朝日(1)  西穂山荘朝日(2)

 元日
 6:40 起床。外へ出てみると前夜来の雪は止んでいたが、霧が深い。ビバークしているテント群に人影が見えるのは、独標か西穂へ向かう連中だろうか。(写真左)風が強いので霧が霽レるかもしれないと思い、30分ほどして表に出て見ると小さな太陽が雲の間から顔を出していた。(写真右)
 
              nisiho_05[1]

 朝食後、アイゼンを付けて丸山の稜線へ出てみる。新雪が朝日に染まって美しい。(写真上)晴れていれば正面に独標から西穂高岳山頂、その右手には前穂高岳・明神岳が連なり、更に六百山・霞沢岳の麓には帝国ホテルや大正池など上高地の展望を見下ろせるが、今朝は近い山のピークを確認するのがやっとだ。相変わらず風が強く単独行で稜線を歩くのは危険なので、前進は諦める。

    海老の尻尾   シュカブラ

 北西の強風で新雪による海老の尻尾やシュカブラが美しい。海老の尻尾とは、強風で岩や樹木に雪が吹き付けられて海老の尻尾状になる霧氷である。(写真左)シュカブラは強風によって雪面に波状にできるクラスト(波状雪殻)のことである。(写真右)
 
 帰途、白馬山麓で温泉に浸かながら野鳥でも観ようと思っていたが、『南の風』の高原さんと出稿の約束をしていたのを思い出し、慌ただしく帰京する。異端者にはなかなか発言の場所が無いので、彼の友情にはどんなことがあっても応えなければならない。と、いうわけで、これから原稿を纏めます。高原さん、一両日待って下さいね。

   駆け下りし思ひに仰ぐ雪の嶺(杜詩夫) 
   信濃路はみな山の中雪の中 ( 〃 )
   安曇野や雪も夕陽の色に映え ( 〃 )
   雪信濃焚火のほかに色は無く ( 〃 )
   旅寂し道祖神さへ爺と婆 ( 〃 )
   遅筆癖なほらぬままに稿始め ( 〃 )







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