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初雪に想う

                   のがわ 072

 読書をしている首筋が寒い。結露を防ぐために細く開けておいた小窓を閉め忘れていた。外は氷雨。予報では夜明けころから雪に変わるだろうという。寒いはずだ。
 雪が降ると、必ず思い起こすことがある。出版社をやっていたころ、社名に因んで初めて雪の降った日には全社員が集まり酒を飲んだ。「雪やこんの」が社歌のようなもので先ずそれを歌い、あとは雪に纏わる歌を皆で歌いまくった。
 毎年、正月が来ると元社員からの賀状を見るのが楽しみだが、今年は喪中だから来ない。それでも昨年暮には大作君から新刊の『ドラえもんひみつ道具百科』が送られてきた。正月には藤村君がメールで近況を知らせてくれた。何年経っても、元社員のことは忘れられない。

 小学館の相賀徹夫前社長の招誘を受けて雪書房を立ち上げたとき相談に乗ってくれたのが詩人・評論家・ロシア文学者の内村剛介さんで、雪書房という社名を付けてくれたのも内村さんだった。私が師と仰ぐ数少ない一人である。ジャーナリストから出版への転身を不安がる妻を、「私が付いていますから…」と説得してくれたのも内村さんだった。そのころ三省堂が新書をスタートさせる計画があり、内村さんにも執筆の依頼がきていた。彼は私の前に一冊のロシア語の原書を置いて言った。「これは三省堂新書のために用意したものだが、これを村瀬さんに回そう」。それはナチに抑留されたユダヤ人少女の手記だった。
その日から一ヶ月、彼が翻訳口述するのを私が速記し、日本語化するという作業が続いた。ゲットーに冬が訪れ雪が降った。ナチの軍靴の跡も鉄条網も真っ白な雪に埋もれ、少女マーシャは一瞬だけ悲惨な現状を忘れて平和だったころを回想する…翻訳がこの箇所にきたとき内村さんが突然言った。「社名は雪書房にしようよ」。社名は、こうして決まった。完成した『マーシャの日記』は、記録的なヒットとなり、図書館協会の選定図書、中学校の副読本にも採用された。ちなみに内村さんはこの本を私に回したため三省堂へは『生き急ぐ』を書き下ろした。これはソ連の文学・思想を自分の抑留体験から解読、また現代日本への批判も行なったもので、今なおロングセラーを続けるほどの名著となった。内村さんはソルジェニーツィンがノーベル文学賞を受賞したときフランスのテレビで対談したくらいでマスコミの表舞台にはあまり出ない。北海道大学、上智大学の教授を歴任されたあとは静かに思索と著作の生活を続けられている。

 書架に初版本が残っていた。帯の推薦者名に師の檀一雄、木俣修両先生と並んで女優の丹阿祢谷津子さんの名がある。これは妹の丹波子さんに装丁をお願いした縁からである。。訳者の「あとがき」に、次の記述がある。

「…『マーシャの日記』の原書がモスクワから届いたが、読めないでいる。著者マーシャの伏目がちな写真は栄養失調の痕跡をとどめている。それは空腹で四段の階段さえ上れなかった、かの地での私の十一年余の獄中生活を思い出させる。読むのが怖いのではない、言葉の、活字の欺きが怖いのだ。だが、読みたい人は多いだろう。また、読まなければならない。いずれ誰かが訳すだろう。…私がこう語ったとき、詩人 村瀬杜詩夫が「私も読みたいひとりだ」と応じた。「ホンヤク国ニッポンがこの本を放っておきわけがない。そのうち読めるよ。僕にはこれを翻訳する気はない」と言えば、村瀬はいっそう頑固に、こう言うのだ。「私はあなたの訳で、この本が読みたい。マーシャと同じ体験をしたあなた以外にこれを訳せる人はいない。あなたが口述して、それを私が速記して纏めるという形なら…」。「実感できるからやりたくないんだよ」。「出版も私がやります」。 押し問答のあげく、私は折れ、口述にかかった。この訳本が出来た由来、いわば私事も記録にとどめておきたい。 内村剛介」
 
 この「あとがき」は少し事実と異なる。私の立場を気遣って、このように書いてくださったのであろうが、真相は最初に書いた通りである。
 雪にまつわる思いは更に続く。私はなるべく降りたての雪のように真っ白い心で生きたいと努めてきた。それは時として頑固で偏屈な性格となって現れ、しばしば周囲との調和を欠くことも少なくなかった。そんな自分の性格を省みるにつけても、多くの師、先輩、友人、後輩たちに恵まれた幸せを思わずにはいられない。

            (写真は『マーシャの日記』初版本)
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by 杜の小径  at 06:59 |  日記 |  comment (2)  |   |  page top ↑
Comments

No title

『マーシャの日記』は中学生のとき、学校の推薦で読んだことがあります。
先生が翻訳されたとお聞きして、驚いています。ほんとうに不思議なご縁ですね。
 お体は大丈夫でしょうか。くれぐれも大事になさってくださいませ。
by 安藤ひかる 2009/01/09 14:55  URL [ 編集 ]

No title

 ひかるさん、お早う。あの本は図書館協会のほか
全国学校図書館協会、PTA全国協議会などの推薦
図書になっていましたから、かなり多くの人に読まれ
たと思います。私にとっても最も思い出深い作品です。
by 杜詩夫 2009/01/10 02:46  URL [ 編集 ]
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