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『縛り首の木』

        しばりくび      しばり

 昨日から始まった裁判員制度による殺人事件の裁判―あれを見ていたら、半世紀ほど前に公開された『The Hanging Tree』(縛り首の木)というアメリカ映画を思い出した。粗筋は新興の金鉱地にやって来た暗い過去を持つ医師(ゲイリー・クーパー)が、小さな女性山主(マリア・シェル)を襲おうとした町の顔役を射殺する。このため医師は、町の人々に丘の上へ追い詰められる。そこには、縛り首の木が立っている。今まで何人がこの木に吊るされただろう。医師も…あわや…。

 米国西部の開拓が始まった頃は一種の無法時代で、酒場で飲んだくれた男たちにより簡単に死刑が決められた。刑は殆どが絞り首で、見せしめとして公開で縛り首が行われた。今度の陪審員制度も本質的にはこれと変わらない。一歩誤ると衆愚裁判になりかねない。これが、明治以来続いてきた牢固とした司法制度に新しい風穴を開けたことは間違いない。しかし問題点もたくさんあるようだ。日本は一応、立法、司法、行政の三権が分立している建前にはなっているが、実態では行政が突出した権力を持っている。これは総理官房の中枢に入った元警察庁長官が野党々首の献金事件をでっちあげた最近の事例でも明らかだ。こんな国では、将来“民主的司法”を口実に何をするか判らないという不安がある。一口に民主的と言うが、それは衆愚的という側面を持っている。今から六十数年前、我々は全国民挙げて戦争を賛美し、もし一人でもそれに反する者が居れば非国民として“縛り首”にしてきた。あの西部劇の中の民衆と同じだった。

 第一回裁判で、陪審員から証人に対する質問が一度も出なかったことが気になった。検察官の証人質問が終わった直後に裁判官が休憩を宣し、再開後に陪審員から特に質問が無いようだからと、そのまま閉廷したという。休憩中に裁判長から「今日はお疲れでしょうから質問は止めましょう。それでいいですね」みたいな働き掛けがあったかどうかは判らない。しかし、やろうと思えば出来たはずだ。裁判長はそれだけ大きな指揮権、影響力を持っている。陪審員制の導入で司法が民主化されたなどと喜ぶの早い。

 関係者は法律用語を日常語で話していたのが良かったと手放しで喜んでいたが、果たしてそうだろうか。裁判用語には多くの研究や判例が凝縮されたものが多い。それを難解というだけで簡単に捨て去ってよいだろうか。それと例えば「未必の殺意」は法律関係者なら直ぐ解るが、一般市民には「石を群衆に向かって投げるとき、もしかしたら死ぬ人が出るかもしれないと思って投げるような殺意」などと、いちいち説明しなければならない。恐らく従来の数倍の時間が掛ることになるだろう。一方、裁判に不慣れな陪審員の疲労を考えれば一刻も早く裁判を終わらせる必要がある。その結果、裁判の内容が拙速主義に陥り、雑になる危険が大きい。この制度は3年後に見直すというが、民主的という美名に釣られて問題点を見落とさないで欲しい。
 結論的に言えば、司法への名目的な参加より司法へのオブザベーションこそ必要なのである。


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by 杜の小径  at 13:05 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑
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