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さらば! 思い出の赤プリ

                   赤プリ旧館

 連休は殆ど家に居たが三日目ともなると、㞍が落ち着かない。ふっと思い立って久し振りに都心へ出る。いささか旧聞に属するが、赤プリの愛称で親しまれた赤坂プリンスホテルが来年3月で廃業するという。殆どが取り壊されるが歴史的建造物である旧館だけは残されるというのが、せめてもの救いである。
嘘か本当かは判らないが四万十川の天然鰻を出すというので、以前はときどき新館の「紀尾井」に立ち寄ったことがある。ふっとというのは、そのことを思い出したのである。旧館に寄ってみたかったがバーは夜しかやっていないので、新館地下の紀尾井で昼食をとる。連休特別メニューだという紀尾井膳を頼む。待つ間に、子もち昆布のアテで軽く一杯。どうも、こうした場所で一人酒を飲むのは間が持てない。料理は牛とお造りをメインに12点、味はまあまあだが、味噌汁に赤だしを使っているのがいい。
 
               梨本宮方子

 ところで、ホテルにどうしてプリンスという名前が遣われたか、訳をご存知だろうか。理由は、此処が嘗て“皇太子”のお住まいだったからである。但し日本の皇太子ではない。赤坂プリンス旧館は、最後の朝鮮王朝の王世子(皇太子)である李垠(イ・ウン)殿下の邸宅だった。1910年(明治43年)の日韓併合により朝鮮の李王家は日本の皇室に組み込まれたから、プリンスとしたのであろう。此処は、その李垠親王と結婚された梨本宮方子さまが新婚生活を送られた場所。方子さまは当時の皇族・梨本宮守正殿下の長女で、皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)の后候補だったが、日韓併合に伴う政略で李垠殿下と結婚させられたもの。そのことが内定したとき方子さまは15歳、学習院中等部に在学中であった。大磯の別邸で朝日新聞の記事を見て初めてそのことを知り愕然としたと、後の回顧録に記されている。(写真:結婚直前の梨本宮方子さま)

            吉原幸子

 私事になるが、旧館は私にとっても忘れ難い思い出がある。もう半世紀以上昔のことになるが、旧館の中に「ネービー倶楽部」という会員制のバーがあった。ここは海軍予備学生で同期だった千宗室さん、佐治敬三さん、森下泰さんなどが起ち上げた倶楽部で、名前の通り原則として元海軍に縁のある者しか出入りできないことになっていた。ところが海軍に縁の無い私は自由に出入りし、そればかりか代金もまともに払った覚えが無い。というのはママ役が「歴程」同人の詩人・吉原幸子さんだったから。彼女は後に『幼年連祷』で第4回室生犀星詩人賞を)、『オンディーヌ』『昼顔』で第4回高見順賞を受賞。そして最後の詩集『発光』では第3回萩原朔太郎賞を受賞した大詩人だが、当時は気軽なお姉さんのように接してくれた。お兄さんがツバメ印レインコートで有名な三陽商会の社長という出自の良さもあって、性格がおっとりしている半面、感性は繊細。無垢で透明な眩しいような存在だった。思い出は尽きないが、その彼女も逝って10年になる。

             檀一雄

 赤プリ旧館と言えば、檀一雄先生のことも忘れられない。遺作となった『火宅の人』は完稿まで二十数年かかったがライフワークだけに遅々として筆が進まず、逃避するようにポルトガルに行く前の60年代後半はいちばん執筆に苦しまれていた時期だったようだ。当時は上石神井のご自宅のほか、冬は駿河台の山の上ホテル、夏は赤プリで執筆されていた。山の上ホテルでは歩いて10分ほどの私の事務所まで時どき出てこられ、気晴らしをされていた。夏に赤プリを使われたのはプールがあったからで、日中は殆どプールサイドで過ごされていた。そのころ執筆に行き詰まって苦しんでおられたとは後になって判ったことで、当時はそんな素振りは噯にも出されなかった。豪快に笑い、飲み且つ喰らわれた姿が忘れられない。
 赤プリよ さらば。思い出よ さようなら。



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by 杜の小径  at 18:30 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑
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