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by 杜の小径  at --:-- |  スポンサー広告 |   |   |  page top ↑

花逢忌

                   だん5

 能古島で開かれた花逢忌に出席するため博多へ。檀一雄が逝った翌年から始まった花逢忌も、今年で34回を数える。いつもの九州大学男性合唱団・chor-akademie に新しく中村学園大合唱団の学生が加わり、故人が好きだった「茶摘」「我は海の子」「ミカンの咲く丘」などの献歌が行われた。檀はポルトガルが好きで1970年11月より72年2月までサンタ・クルスに滞在したことがり、海を見下ろす高台には「落日を拾ひに行かむ海の果」という句碑も建っている。今年はオンが同じだというので故人が愛飲したというポルトガル・ワイン「ダン」で乾杯し、長男で料理研究家の太郎さんと女優・エッセイストのふみさんが碑にワインをかけた。
 会場の文学碑前に集まる顔触れも大きく変わり、檀先生を直接識る人の数は年ごとに少なくなっていく。晩年を過ごした旧宅 月壺堂も昨年取り壊され、その跡に長男の太郎さんが新しく家を建てて移り住んでおられる。
 月壺堂は無くなり集まる人も変わったが、能古島から見渡す景色は昔のままだ。檀は竟の住処を能古島に定めたことについて、次のように述懐している。

「能古島の展望台から四顧すると、私の一生のそれぞれの時期がほとんど一望のうちに、アリアリと見えてくる。南には、青春時代を送った博多の町並みが、横に長く伸びている。西には、律子を死なせた小田の浜が、太郎を肩車にして歩いた長い道がすぐそこに見えている。つまり、能古の山頂から、四方を眺め回すと、私の生涯のほとんど全部の出来事が、はっきりと指差しながら点検できる」

 幼い太郎さんを肩車して歩いた檀の思い出を、作家・俳人で『評伝 火宅の人-檀一雄』の著作がある眞鍋呉夫さんは、次のように語っている。

 初めて会ったときのことが忘れられないんです。昭和21年の5月、福岡のわが家を訪て来てくれたときには、国民服にいがぐり頭で、幼い太郎ちゃんを肩車したまま、
「これが太郎。ぼくの首枷です」
と僕に言った。すると幼い太郎さんが
「なーん? チチ。いまなんち言うたと?」
檀さんは間髪を入れず、
「眞鍋のおじちゃんにね、太郎は父の首飾りですってそげん言うたとたい」
と答えていた。

 花逢忌を檀の命日と思っている人もいるが、それは違う。檀は1976年1月2日に九州大学付属病院で亡くなった。花逢忌は檀の辞世の句「モガリ笛いく夜もがらせ花ニ逢はん」に因んで、毎年5月の第二日曜日に、能古島の文学碑前で開かれる檀一雄を偲ぶ会である。
 この文学碑自体、檀自身は建立を渋っていたようだ。前記の眞鍋さんによると、晩年に友人たちが文学碑のことを話しているとき、黙って聞いていた檀が突然「そんなに文学碑を建てたいなら雲の上か氷山に建てろ」と怒鳴ったそうだ。檀の突然の怒りが単なるシャイな気持ちだけとは思われない。これは想像だが…『火宅の人』のヒロイン入江杏子との馴初めは太宰治の文学碑だった。昭和31年、青森で開かれたその除幕式に入江と同行し、二人は男女の仲になった。ふっと、そのことが頭をよぎったのではあるまいか。
 
 今月27日には「風の大会」で博多を訪れる。まさかそれまで居続けるわけにはいくまいが、花逢忌のあとは二、三日温泉にでも泊まって高千穂辺りをぶらつくつもりでいた。ところが月曜の午後大事な要件があるのを、すっかり忘れていた。已む無く大嫌いな飛行機で慌ただしく帰京する羽目となった。小人にも閑居の許されないときがある。嗚呼…。

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