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九州への旅

                あきづき6
 詩のグループによる「風の大会」に出席のため、九州へ。前々日に博多入り、16日の花逢忌に訪ねたばかりだが最初に能古島を再訪。あとは市内をぶらつく。印象に残ったのは西公園の「黒田節像」。これは「酒は飲め飲め 飲むならば日の本一の(ひのもといちの) この槍を飲み取るほどに 飲むならばこれぞまことの黒田武士」の歌詞で知られる黒田節のモデルとなった母里太兵衛(ボリタヘエ、姓はモリと読む場合あり。本名は友信)の像だ。
 母里太兵衛は福島正則の許へ黒田長政の使者として遣わされたとき、正則から酒を勧められる。友信は家中でも「フカ」と言われるほどの酒豪であったが、使者である手前それを固辞した。しかし本人も酒豪の正則は「これを飲み干せたならば好きな褒美をとらす」としつこく勧め、更には黒田武士は酒に弱い、酔えば何の役にも立たないからだなどと家名を貶める発言をした。そこで母里は大盃になみなみと注がれた数杯の酒を一気に呑み干すと、褒美として、正則が秀吉から拝領した名槍「日本号」を所望する。この快挙を雅楽・越天楽に似せた筑前今様の節でうたったのが「黒田節」のルーツという。(写真は博多西公園の母里太兵衛)

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 翌朝、書家・一川さんから「珍しい人が来ているから来ないか」とメールが入る。風雅亭を訪ねると有山ゆきこさんと下平紀代子さんが居られた。有山さんは信州小海の高原美術館内でレストラン「花豆」をやっておられる歌人。下平さんは麹町倶楽部でご一緒している方。銘菓「水無月」で一服ご馳走になりながら歓談。車でホテルまで送って戴く。
 夜は前夜到着した参会者の歓迎会ということだったが、なぜか小生の分の料理が用意されてなく、深夜に街に出て夕食を摂る。

 翌日は大会の始まる前に一川さんの案内で、前記の皆さんと一緒に着物市へ。それぞれが掘出物を買うことができてニコノコ顔。小生も紬の着物のほか浴衣2点、博多帯2点を求めて宅急便で送る。

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 大会は最長老(93歳)の佐藤孝二郎さんが最高点。小生が3点を入れた4作品はいずれも選外で、評価の違いを痛感する。(写真は優勝した佐藤孝二郎さんと会場スナップ)

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  あきづき1  あきづき
  あきづき2  あきづき3
 大会の翌日、バスで朝倉市の秋月城跡を訪ねる。と言っても此処に城が在ったわけではない。秋月城は、この辺りで最も大きな山、古処山々頂に在った。鎌倉時代に秋月氏の始祖・種雄が築城したものだが、17代のとき豊臣秀吉に降伏する。かくして種雄以来385年間続いた筑前の秋月氏は滅びる。その後、黒田藩(黒田長政・52万石)の3男・長興が5万石を分知され立藩するが城は持たず、陣屋を城代わりとした。我々が散策したのはその跡だが、菩提寺への急峻な石段と搦手門を移築したという門に僅かにその面影を偲ぶのみ。500㍍に及ぶ櫻並木を渡る薫風も平和そのもので、生臭い戦国の歴史を語ってはくれなかった。パンフレットには“九州の小京都といわれる城下町”とあったが、町と言うより静かな農村といった佇まいだった。ただ往時の武家屋敷として保存されている久野家は次席家老(150石)の居宅で、萱葺き屋根の母屋、長い渡り廊下で繋がる離れ座敷、秋月の山並みを借景とした庭園、書院造りの2階・・・そして白壁の蔵、つるべ井戸、土で固められた竃、五右衛門風呂などには・質朴剛健の武家屋敷の雰囲気が息づいていた。(写真は木洩れ日の中の散策及び久野家の様子と屋敷内のつるべ井戸、竈、五右衛門風呂)

              あきづき5
 キリンビール工場見学のため時間が無いというので甘木の太刀洗陸軍飛行学校址の見学はパスとなった。ここで養成された幹部候補生が知覧はじめ全国の特攻基地から片道燃料で飛び立って行った。昨年、知覧を訪ねたときの感動をエッセイと8篇の五行詩に纏めて『南の風』に発表したが、その際、太刀洗陸軍飛行学校のことを知り一度訪ねたいと思っていただけに、ビール試飲のためにパスされたのは残念だった。バスの窓から瞥見する「零戦(零式艦上戦闘機三二型)」に黙祷しながら通り過ぎる。(写真は展示中の零戦)

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 キリンビール工場では、見学のあと構内の広大なポピー畑で時間を過ごす。雲雀の鳴く青空の下、全員がしばし童心に戻る。

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 最後は大宰府。5時の飛行機に乗る人が二人いるというので肝腎の政庁跡には行かず、手前の水城跡を短時間見る。663年、日本は百済に味方して朝鮮半島で唐・新羅連合軍と戦ったが白村江の戦(はくすきのえのたたかい)で大敗した。日本は唐・新羅がさらに博多湾から大宰府に攻め込むことを想定し、亡命百済人の憶礼福留(おくらいふくる)、四比福夫(しひふくふ)の指導で各地に水城を築く。大宰府の水城は、土塁の高さ10メートル以上、幅80メートル、長さ1.2キロメートルあり、高さは馬の越えられない高さ、幅は矢の届く距離という合理的なものである。

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                (写真:空港でバイバイ)
 
 空港で皆と別れたあと天神へ戻り、6月1日から個展を開く川崎常子さんの激励会を開く。
参加者は川崎さん、雨夢さん夫妻、夢湖さん、荒川豊さん、小生の6人。
 最終の「のぞみ」で岡山に出て、友人宅に泊まる。予て依頼されていた詩集の構成・装丁見本を渡し、翌日は彼の案内で岡山城、後楽園、吉備津神社などを回る。はじめは博多へ引き返して川崎さんの個展に顔を出したあと高千穂の夜神楽を観る予定だったが、「いま宮崎は口蹄疫で大変ですよ」という友人の言葉で思い止まる。個室寝台車で帰京。

              
                         
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