FC2ブログ
 

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





※ スパム対策の為、暫くの間コメントは承認制にさせていただいております。
  コメントを頂いてから表示までにお時間をいただく場合がございますが、
  何卒ご理解くださいますよう、お願い致します。(管理人)

by 杜の小径  at --:-- |  スポンサー広告 |   |   |  page top ↑

桜桃忌(太宰忌) sequel

               田部シメ子
 心中事件の処理にあたって太宰側のとった態度については、昨日のブログで述べた。豊島与志雄の「せめて一緒に火葬を」という提案を拒否したばかりか、冨栄の遺体を長時間コモを被せたまま放置した。加えて心中が冨栄による無理心中であるという根拠のない風評を流して、太宰の名誉を守ることに躍起となった。こうした一連の動きを見ていると、太宰の最初の心中事件の処理を思い起こさせる。太宰は東大在学中の昭和5年11月28日、それまで三度しか会ったことがなかった女給 田部シメ子と共にカルモチンを購入して鎌倉に向かう。同日夜半から払暁にかけて七里ヶ浜海岸の小動神社裏海岸にて、大量のカルモチンを飲んで心中を図る。その結果、田部のみ死亡し太宰は生き残る。太宰は自殺幇助罪の容疑で逮捕され取調を受けたが、鎌倉署の担当刑事村田義道が金木村の出身で津島家の小作の息子だったこと、担当の宇野検事が太宰の父の実家である松木家の親類だったことなどが太宰にとって有利に作用したという偶然もあって、起訴猶予となった。その蔭に貴族院議員だった津島家の名誉を守るため、兄 文治たちの奔走があったことは言うまでもない。のちに太宰は、この心中事件をモデルに短編『道化の華』を書き上げる。この中でシメ子は「園」として登場する。小説の中で園(シメ子)の最期は次のように書かれている。
「僕はこの手もて、園を水にしづめた。僕は惡魔の傲慢さもて、われよみがへるとも園は死ね、と願つたのだ」―このことなどを挙げて、この事件が太宰による計画的な殺人だったとする説を唱える者もあるが、憶測の域を出ない。(写真:田部シメ子)

      b846dcba-s.jpg   小館善四郎
 昭和12年、太宰は内妻 小山初代と谷川温泉付近でカルモチン心中を図るが未遂に終わる。初代は青森の料亭「玉屋」に仕込妓(しこみこ。芸妓の使い走り)として住み込み中の昭和2年、客として訪れた旧制弘前高校1年生だった津島修治(太宰治)と馴染みになる。昭和5年、太宰の勧めで玉屋を逃げ出して上京、東京で太宰との同棲生活を始める。ところが、その頃太宰が田部シメ子との心中事件を起こす。激怒する初代を宥めるためか、翌月に初代と仮祝言を挙げるが、津島家の意向で入籍は許されなかった。その後初代は、『HUMAN LOST』や『姥捨』、『東京八景』など多数の太宰作品に登場する女性のモデルとなった。
 心中の原因は、その直前に発覚した初代の不倫にあるとみられる。昭和11年10月、太宰の義弟に当たる小館善四郎が自殺を図って入院した。そのころ太宰は薬物中毒の治療のため入院していたので、代わりに初代がたびたび小館を見舞った。やがて寂しい者どうしは、越えてはならない一線を越えてしまう。もちろん このことは二人だけの秘密にしていたが、太宰からの手紙を読んだ小館が自分たちの密通が露見したと勘違いして太宰に初代との関係を告白してしまった。結局この心中は失敗し、これを機に内縁関係は解消された。これが「水上心中」と呼ばれる事件であり、太宰は彼女をモデルに「姥捨」を書いた。「姥捨」には、かず枝の名で登場する。また前記の短篇「道化の華」に登場する法学生"小菅"は、小館がモデルだったといわれる。自分の心中事件の総てを小説の中で relive している太宰に対し、或る文芸評論家は「太宰は小説の材料を得るために心中事件を起こしているのではないか」と皮肉交じりに評したことがある。(写真:左端は小山初代。右の写真の左から檀一雄、太宰治、山岸外史、小館善四郎。1935年湯河原にて)

                   太田静子
 このように太宰の道連れにされて命を落としたり、人生を誤ってしまった女性は気の毒である。しかし、これらの女性はたとえ一瞬でも自ら望んで太宰の懐に飛び込み、それなりの幸せを味わっている。私は太宰を巡る女性の中で、いちばん不幸だったのは太田静子だと思う。
 静子は弟が太宰ファンだったことから太宰作品に興味を持っていたが、昭和15年に太宰と運命的な出逢いをする。そのころ静子は長女を一か月で早世させたばかりか、二年余連れ添った夫とも離婚した直後だった。その経緯を日記風に綴って太宰に送ったところ、思いがけず太宰から「一度遊びにいらっしゃい」と返事が来た。静子は滋賀県下の
開業医の四女として誕生。実家は九州の大名の御典医という家系で、親戚には高級官僚や実業家も多かった。静子自身は実践女学校に学びながら口語短歌を創り、既に歌集『衣裳の冬』を芸術教育社から刊行していた。太宰が即座に会いましょうと応じたのは、送られてきた原稿がかなりレベルの高いものであったからだと推察できる。二人は忽ち恋に堕ちるが、太宰の方にはどうも打算的な臭いがする。二人の関係が深まるにつれ太宰夫人 美智子が疑惑の目を向け始める。すると太宰は窮余の一策として、静子を一番弟子の堤重久の愛人にしようと企む。これに対し静子は「結婚を考えない男性とお付き合いはできません」ときっぱり拒絶する。こうしたことがあって二人の間は疎遠となるが、昭和19年に二人は再会する。そのころ静子は叔父の世話で神奈川県下曽我村の山荘「大雄山荘」に疎開していた。そのとき太宰は書き溜めていた静子の日記を読んだと思われる。それから3年後の昭和22年1月、太宰から日記の提供を申し込まれる。静子は「下曾我までおいでになるなら、ご覧にいれます」と答える。太宰は下曽我にやって来て2月22日から24日まで滞在、静子の日記を手に入れる。このとき、静子は太宰の子を身ごもる。
 その年の5月24日、静子は生まれてくる子どものことを相談するために弟と共に三鷹の太宰を訪ねる。このときの太宰の冷淡な態度で、はじめて太宰が自分の日記を手に入れるために近づいたことを知る。曖昧な態度で逃げ回る太宰に泣いて抗議するが、殆ど何の成果も得ぬまま、翌日、下曽我へ戻る。11月12日に女児を出産。弟が太宰を訪ね、子どもの認知を頼む。女児は太宰の本名修治から一字をとって治子]と名付けられた。
 
 静子の日記が名作『斜陽』の元になったことは既に周知のことだが、当初は極秘とされていた。太宰が情死後の8月1日、太宰家の使者として井伏鱒二らが突然に静子を訪れる。井伏は太宰に美智子を紹介し、仲人を務めた人物。彼らは静子に用意してきた「太宰の名誉作品に関する言動を一切慎む」という内容の誓約書に署名押印させ、その引換に『斜陽』改装版の印税10万円を渡した。要するに太宰の名誉のために日記を提供したことは口外しないでくれというわけ。しかし太宰側(津島家)の侮辱的な態度に腹をたてた静子は、10月になって太宰に渡した日記を『斜陽日記』として刊行する。その内容や表現があまりにも『斜陽』と酷似していたことから、静子の存在が初めて明らかにされた。彼女は津島家の援助の無いままに、炊事婦や寮母をしながら治子を育てあげた。(ちなみに治子は作家となり、母の思い出を綴った『心映えの記』で第1回坪田譲治文学賞受賞。同作品で直木賞の候補にもなった)
昭和40年に金木町で太宰治文学碑の除幕式があり、参列した檀一雄が太田母娘の困窮ぶりを見兼ねて太宰未亡人の美智子に「せめて『斜陽』の印税の内少しだけでも援助してもらえないかと」頼んだが、美知子は立腹してその場を立ち去ったと伝えられている。後日談になるが、美智子は平成9年2月1日に心不全のため文京区本駒込の自宅で死去(85才)した。翌年1月の税務署公示では課税遺産額が約9億4千万円で、遺産は文京区の自宅や預貯金など。これらは長女の園子と次女の里子(作家の津島佑子)、園子の夫で養子の衆議院議員津島雄二ら4人で相続したという。(写真:幼い治子を抱く太田静子)

  
スポンサーサイト





※ スパム対策の為、暫くの間コメントは承認制にさせていただいております。
  コメントを頂いてから表示までにお時間をいただく場合がございますが、
  何卒ご理解くださいますよう、お願い致します。(管理人)

by 杜の小径  at 22:17 |  日記 |  comment (0)  |   |  page top ↑
Comments
Comment Form
管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

杜の小径

Author:杜の小径

杜のMENU
最近の記事
最近のコメント
月別アーカイブ
カテゴリー
カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。