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心に残る詩―麹町倶楽部例会より

               こうじ1

 夏休みシーズンのせいか欠席が目立ったが、その分じっくりと評釈を聞くことが出来て充実した例会だった。司会は、前回一席の渡邊加代子さん。今回も成績に関係なく、私の心に残った作品を紹介したい(敬称略)。なお、全作品及び互選の結果は麹町倶楽部ホームページに掲載。

(自由詠)
   初恋は
   クリームソーダとサンドイッチ
   ライブ・チケットと
   それから…
   雨の中のサヨナラ(史緒)

(評)初句と結句にサンドされたフレーズは、三つの名詞と接続詞だけという洒落た構成。それだけで、ビターな初恋の思い出が過不足なく語られている。内容、詩形共に秀逸。

   熱帯夜が明けても
   猛暑日との予報
   せめて言って欲しい
   トンガの夜とか
   フィジーの午後とか(酒井映子)

(評)誰しもが似たようなことを考えていても、ナンセンスだと思って口にしない。まして作品には…。ところが この作者は平然とタブーに挑戦する。素っ頓狂なことは作者自身がいちばん知っている。「言って欲しい」となってはいるが、本意は表現を変えろということではなくて、我慢できない暑さを表現することにある。ニュージーランドとかポリネシアでなく、敢てマイナーなトンガやフィジーを例示したことでも作者の真意が判る。私は江戸風のクォーリティーの高い洒落だと理解したい。

   吐くものを
   吐き出してしまったときの
   快感
   新たに進める
   という 喜びがある(町田道子)

評)この作品を一読して、哲学者・詩人 内村剛介の言葉を思い出した。彼は「私にとって詩は反吐だ。書くのではなく込み上げるもの。そしてそれを吐き尽くしてからでないと新しい詩は生まれない」―この作品は もちろん詩に限定したものではなく、心に蟠る種ぐさのものを吐き出した快感を謂うのであろう。1~3句のきっぱりとした詩形が、読む者を納得させる迫力を生んでいる。
  
   すっぱくて
   しょっぱくて
   これが 
   母の最後の手作りの梅干
   口いっぱいの切なさ(水野迷子)



(評)減塩食品が持て囃される昨今は、かちかちで白い塩の噴いた昔ながらの梅干しは敬遠されがちだ。しかし亡き母が最後に作ってくれた梅干となれば、作者にとっては何物にも代え難い宝物。冒頭の「すっぱくて/しょっぱくて」と結句の「口いっぱいの~」との
照応が効果を挙げている。

(以下、題詠)
   薄着の乙女らが
   笑います
   見とれて電柱に
   ぶつかります
   かあさん、夏が来ました(平井敬人)

(評)手紙形式、それも全部を現在形で構成したのが成功している。歌会での発言は夏の様子がユーモラスに描かれているといったものばかりだったが、夏を表す語彙は「薄着」だけ。夏の点景を描いたとするなら不十分だ。この作品の優れている最大のポイントは、こうした手紙を書く息子と、それを受け容れる母親の微笑ましい姿が自然に浮かび上がってくるところにある。強いて難を探せば初句の「乙女ら」の表現。「お嬢さん」か「娘たち」のほうが自然かも。2句の「笑います」も、このままでは唐突。題詠で已む無く入れたのだろうが、詩集などへの収録を考えると、いまのうちに推敲しておいたほうがいいね。  

   しづかに
   息を吐く4秒にも
   ゆかいに笑った
   11秒の間にも
   あの世はにじり寄る(ま のすけ)

(評)命あるものは必ず死ぬ―この命題を平然と受け容れる人が居ることが不思議でならない。文化とか芸術といった高尚なものも、所詮は死の恐怖を一時的に忘れる麻薬のようなものではないか。死の恐怖から逃れる唯一の手段は、自ら死ぬしかない。なぜならば、死への恐怖は生きているからであって、死の瞬間から「死」は無くなる―若い頃は、そんなことばかり思い患い、デカダンな生活に奔ったこともある。この作品の結句「あの世はにじり寄る」は、死への生々しい恐怖を甦らした。「息を吐く4秒」と「ゆかいに笑った11秒」という奇妙な対句さえ、呪文のように私を責める。将に忘れたい「心に残る詩」である。

   まだ
   七七日も過ぎてないのに
   落語で
   大笑いしてしまう
   人間って凄い(小杉淑子)

(評)この作品も命を主題にしている点で、上掲の作品と同類である。「楽しみ極まって哀れ生ず」という言葉がある反面、ノーベル賞を受賞したベルクソンは「人間は悲しみの極致に於いても笑う」と言っている。「意識の解放」という語彙で悲喜を同源と断ずるなど、難解な理屈を捏ねるつもりは無い。作者は最近、故郷の海で父親を不慮の事故で亡くされたばかりである。偶々、故郷の病院に勤めておられた弟さんはご遺体の検視に立ち会われたという。「大声で笑って」しまったのは、その弟さんだった。作者は決して弟さんを責めているのではない。結句の「人間って凄い」には、死って何? 悲しみって何? 果ては人間って何? といった作者の様ざまな想いが籠められている。笑う弟さんよりも、それを冷静に観察して一篇の詩に仕上げた作者のほうが、遥かに「凄い」。その意味で心に残る作品である。
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