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諸葛孔明の遺書

孔明


大公堂


 2日間に亘って孔明のことを書いてきたので、その最期についても触れないわけにはいくまい。うんざりした顔をしないで貰いたい。今日は簡略に済ます(つもりである)。

 建興12年(西暦236年)諸葛亮・孔明は五丈原で司馬懿・仲達率いる魏の大軍と対峙する最前線に在った。睨み合いも半年を経た秋、胃を病んでいた彼は己の死を察して後帝劉禅に書を送る。「臨終の遺表」である。これを紹介して彼の最期の思いを伝えたいが、止めておく。遺書は彼自身が国家への忠誠心だけで生き、何の野心も持たなかった事を強調して最後に、一族の安寧を「陛下に伏して願い上げ奉る」と結んでいる。人間的と言えば人間的だが、勇猛知略の英雄 諸葛孔明の最期の言葉としてはあまりにも寂しい。しかし、この書のお陰で子孫は領土を安堵された。
 浙江省蘭渓市には、今も孔明の子孫が暮らす "諸葛鎮”という村がある。実は昨年の中国旅行で魯迅の旧跡を訪ねたついでに此処にも寄る予定だったが果たせなかった。ヘンに油臭い中国料理が食べられずスイカばかり食べていて体調を崩してしまった。従って以下の文章は資料からの請売りであることをお断りしておく。

 諸葛鎮では人口5,000人のうち8割が諸葛姓を名乗っている(そうだ)。今、諸葛鎮には孔明以来、約50世代の人々が住んでいて、目上の人を敬う伝統が今も受け継がれているという。その指針となっているのが孔明が子孫に残した家訓という「誡子書」で、"武”と"忠”の文字が大きく書かれた大公堂に掲げられている。こちらはなかなか格調がたかいものだから、全文を紹介しておきたい。

【原文】
「夫君子之行、静以修身、倹以養徳。非澹泊無以明志、非寧静無以致遠。
夫学須静也、才須学也。非学無以広才、非志無以成学。滔慢則不能励精、険躁則不能治性。年与時馳、意与日去、遂成枯落、多不接世。悲窮盧守、将復何及。」

【読み方】
「それ君子の行いは、静以て身を修め、倹以て徳を養う。
澹泊にあらざれば、以て志を明らかにすることなく、
寧静にあらざれば、以て遠きを致すことなし。
それ学は須く静なるべく、才は須く学ぶべし。
学ぶにあらざれば、以て才を広むるなく、志あるにあらざれば以て学を成すなし。
滔慢なれば則ち精を励ますこと能わず、険躁なれば則ち性を治むること能わず。
年は時と与に馳せ、意は日と与に去り、遂に枯落を成し、多く世に接せず。
窮盧を悲しみ守るも、将た復た何ぞ及ばん。」

【意味】
「人の上に立つ者となるべき行いは、じっくりと構えて自分を練磨し、
何事にもよらず控えめに振舞い、人の模範となる行動を身につけることである。
無欲でなければ、大志を抱き続けることはできないし、
また、じっくり構えなければ、大きな仕事は成し遂げられないものだ。
じっくり構えるだけで、自分を磨く努力を怠ったのでは、能力を高めることもできないし、
大志を失ったのでは、自分を磨く努力を継続できない。
人を見下す気持ちがあったのでは、自分を奮い立たせることもできないし、
心に落ち着きが無ければ、性格も浮ついてくる。
時が経つのは早く、あっという間に歳をとる。
それとともに気力・体力ともに衰えて、世の中の関わりも少なくなっていく。
そうなってから慌てても、どうにもならない。」

 簡潔にと言いながら今日も長々と書いてしまった。私の悪いクセである。以前、何かといえば「忠臣蔵』を持ち出す男を嗤って恨みをかったことがあるが、省みて自分もその轍を踏んでいるような気がして気分が悪くなった。この辺で筆を擱こう。

(上の写真は諸葛鎮に在る孔明像。全国に数ある孔明像のなかで、これだけは珍しく彩色されていないが、最も彼の実像に近いと伝えられている。下は「誡子書」が納められた諸葛鎮の大公堂。入り口に掲げられた2つの文字、「武」は軍師の能力を、「忠」は主君への忠義を現す。この2文字はまさしく孔明の生涯を象徴するもの。この大公堂には試験に合格し官僚となった歴代の村人の額が飾られている。貧しくとも学問によって身を立て、世のため人のために尽くす。それが孔明が諸葛鎮の人達に伝えてきた教えなのである。)
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by 杜の小径  at 07:06 |  日記 |  comment (4)  |   |  page top ↑
Comments

びっくりしました。

このように書いてくださると、よくわかります。有難うございました。
 それにしても子孫のためにこんな遺書も遺した孔明も偉いけど、
1800年近くもそれを黙々と護っている一族がいるなんて驚きました。
by 大野由香里 2008/03/30 00:09  URL [ 編集 ]

お尋ねします。

 孔明の人物像には諸説ありますが、どれが真実にちかいのでしょう?

 なお、孔明の子孫が諸葛鎮に住んでいるそうですが、一族で有名な人はいますか?
by S・K子 2008/03/30 04:36  URL [ 編集 ]

孔明の息子と孫は戦死

S・K子さん、お早うございます。『三国志』がお好きなんですか? mixi の「日記」にも同じような質問がありましたよ。解らないことがあったら、どんどん質問して下さいね。

三国志には晋の陳寿が著した歴史書としての『正史 三国志』と、後の時代に羅漢中によってまとめられた物語としての『三国志演義』の二種類が存在します。この両者は視点がかなり違います。このことは解りますか? 当然ながら『正史』は史実に忠実に、『演義』は面白おかしく脚色してあります。例えば蜀漢の劉備と魏の曹操について、『演義』では前者を善玉、後者を悪玉というはっきりした対立構図で描いています。日本でも三国志の翻案翻訳本が数多く出ています。吉川英治は完全にこの立場に立ち、「三国志演義」の持つ「面白さ」を生かそうという気持ちが強く出ていて、伴野朗、桐谷正などもこれに近いですね。横山光輝の『三国志』は漫画とはいえ読み物として少し面白過ぎる感があります。陳舜臣は、両者の解釈を並立している感じで、宮城谷昌光は『正史』に近いスタンスではないでしょうか。
 
 そんなわけで孔明自身やその子孫についても書き方やニュアンスが違うのですよ。孔明は軍師としてより実は内務官僚として力を発揮していたという説もあるほどです。彼の死後、蜀漢は30年にわたって命脈を保ちましたが、これも蜀が頑張ったというより魏が内紛に追われていて蜀を攻める暇が無かったと言えるかもしれません。当時の蜀の人口は100万にも満たない小国でした。魏と蜀の戦いはアメリカと日本の戦争みたいなもので、国力からみると問題にならないのです。その小国が何度も魏を負かしたのですから、それだけ孔明の存在がいだいだったとは言えますね。
ただ、孔明の子孫の立場は微妙です。先ず取り上げなければならないのは、孔明の遺児、諸葛瞻です。彼は『演義』では蜀末を飾る武将のように描かれていますが、実は『正史』に列伝がありません。なぜなら、ずーっと貴族として宮中にいて、あまり仕事をしていなかったかららしいのです。たしかに魏軍20万を迎撃した綿竹関の戦いには別働隊を率いて出陣しています。が、果たして活躍したのでしょうか…。綿竹関に到着した諸葛瞻に向かって、蜀漢の武将たちは口々に即時攻撃を提言しました。そのときは、魏の軍勢が、食糧不足で疲弊していたからです。しかし、諸葛瞻はどういうわけかその助言を全て退けてしまいます。そのうち敵軍は、鋭気を回復した軍勢と寝返り豪族たちを引き連れて綿竹関を再攻撃します。蜀漢の武将たちは、「ここは固く守って援軍が戻ってくるのを待つべきです」と諸葛瞻に提言しました。しかし彼はこの助言をも無視して、自ら軍の先頭に立って突撃をかけたのです。その結果、諸葛瞻とその子・諸葛尚はあっという間に戦死してしまいます。これにより蜀漢の士気はゼロになり勝負は決まったのです。孔明の愛児は、残念ながら無能だったというのが、どうも真実らしいですよ。西暦263年冬、かくして、蜀漢は滅亡するのです

  あっ、もう一人います。子孫ではありませんが、孔明の従兄弟と言われる人物が、なんと蜀の敵である魏国の要職に就いているんです。彼の名は諸葛誕。ある格言の源になった人物でもあります。彼は若くして魏の魏の明帝(曹叡)に仕えて名声を得ましたが、何故か帝には嫌われており、「名声は画餅のようなもので、飢えを満たすことはできない」と批判され、これが「画餅(画に描いた餅)」の謂れという説があります。事実、宮廷内の評判が悪く、遂に免職させられた事がありました。その後司馬懿に取り立てられて征夷大将軍になりますが、反乱を企て討伐されます。首は洛陽へ送られた。諸葛誕の一族は皆殺しとなりました。諸葛誕が殺された後、その兵数百人は降伏しなかった罪で斬られましたが、皆「諸葛公の為に死ぬのだから心残りは無い」と言って死んでいったと言われています。宮廷内の評判は悪くても部下からの人望は厚かったのかもしれませんね。


by 杜詩夫 2008/03/30 07:11  URL [ 編集 ]

はじめまして

 面白く読ませていただきました。ところで、『正史 三国志』とか『三国志演義』という呼称は何処に書かれていたのでしょう。これらは日本において一般書の孫引きで広まってしまった俗称で、正しくは『三國志』および『三國演義』です。
http://rtk.web.infoseek.co.jp/
 また「諸葛亮・孔明」という書き方も気になります。横山光輝氏の漫画「三国志」では、「諸葛亮孔明」でしたが、これも間違いです。亮は名であり、孔明は字(あざな)。白楽天では、居易が名で楽天は字です。「白居易楽天」とか「白居易・楽天」と書かれたものがないのに、「諸葛亮孔明」や「諸葛亮・孔明」と書かれたものがあるのは何故でしょうか。
>孔明の従兄弟と言われる人物が、なんと蜀の敵である魏国の要職に就いているんです。彼の名は諸葛誕。
「孔明の従兄弟」と書いておきながら、「諸葛誕」と書かれております。「孔明」と書くならば、「公休」です。
 これらは、名だけではなく、典拠は同じであっても解釈の違いなど、内容にも関係してきます。
 杜詩夫さんは何を読まれたのでしょうか。
「ジャイアント・ロボ THE ANIMATION」に登場するキャラは「諸葛亮孔明」で正しいのでしょう(笑)
by 杏奈 2008/04/05 18:51  URL [ 編集 ]
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